65〈負傷〉
影の中を移動しながら音もなく〈クァルムの子ら〉の背後に忍び寄ったベレグは、短剣を握る手に力を込めると、迷いのない一閃でその喉元を斬り裂いた。短剣が骨に触れる感触が手に伝わり、肉が裂ける生々しい音が暗闇に染み込むようにして消える。
斬り裂かれた喉から吹き出す大量の血液が辺りを黒々と染め上げる。鼻をつく腐臭が一瞬にして広がり、力を失くした〈クァルムの子ら〉の身体がベレグの足元に倒れ込む。
けれど彼の表情は硬いままだった。
「……何かおかしい」
足元に横たわる死体を見下ろしながら、ベレグは眉間に皺を寄せる。確かな手応えがあった――喉を斬り裂き、命を奪ったという感触が手に残っていた。けれど、それで終わっていないという直感が、彼の頭のなかで渦巻いていた。
辺りに飛び散った血液が古びた木箱にじっとりと染み込み、不気味なまでに黒い艶を放っていた。それだけではない。空気が異様に重いのだ。言い知れない気配が辺りを包み込み、首筋に鳥肌が立つのが分かった。
ほとんど反射的に、ベレグはその場から飛び退いた。つぎの瞬間、彼が立っていた空間にひしゃげるような衝撃が走り、破裂音が耳をつんざいた。風圧が瓦礫を巻き上げ、砂埃が一瞬にして周囲を覆う。
顔をあげると、それまで倒れていたはずの〈クァルムの子ら〉が立ち上がっているのが見えた。喉元は先ほどの攻撃で裂けたまま、そこから黒々とした血が流れている。全身に巻きつけられた包帯に血の染み広がり、笠の下の顔は暗闇に沈んでいて表情は見えない。もっとも、その笠がなかったとしても彼らの表情を理解できる自信がなかった。
「どういうことだ……」
誰よりも悲観的でもあったベレグは、嫌な予感が現実になることを確信した。
倒壊した壁から差し込む自然光のなか、〈クァルムの子ら〉の身体からは赤紫の瘴気が立ち昇る。その瘴気は霧状の粒子として周囲に漂い、見る者に嫌悪感を抱かせながら、死んだはずの者の身体を包み込んでいき、まるで命を吹き込むように波打つようになる。
アリエルは嫌な予感に居ても立ってもいられなくなり、身体が自然に動いていた。棒手裏剣を手にすると、〈クァルムの子ら〉に向かって鋭く打つ。けれど手裏剣が敵に届くことはなかった。
「ん……消えた?」
直撃する寸前、棒手裏剣は瘴気に呑み込まれ霧のように消滅してしまう。
異変はそれだけでは終わらなかった。棒手裏剣だけでなく、〈クァルムの子ら〉の身体を包み込む衣類が灼けるように崩れ始めていた。特徴的な笠も瘴気によって変質し、瞬く間に灰になって消えていく。血に染まった包帯や薄汚れた外套までもが消失し、やがてそこには悍ましい肉体だけが残り、異様な存在感を放つようになる。
アリエルとベレグは奇怪な光景に顔をしかめる。早鐘のように打つ鼓動が耳障りに感じるほどだった。包帯が焼失していくなか、その下に隠されていた異形が露わになる。もはやそれは人間とも亜人とも言い難い姿だった。膿んだ皮膚はところどころ赤黒く爛れ、肥大化した筋肉がむき出しになっていた。
全身の四肢は異常に太く、獣のように前足を床につけた姿勢になる。その肉体は戦いのために作り替えられるかのように変化していき、背骨は歪にねじれながら折れ曲がり、背中からは鋭い突起がいくつも飛び出していく。
その醜い顔には、かつて人だった面影すら残っていない。オオカミを思わせる変形した口には鋭い歯がぎっしりと並び、獲物を喰らうためだけに存在しているかのようだ。その口から滴り落ちる粘液が床を濡らし、ふたりを睨む黒い眸は、どこか底知れない恐怖を感じさせた。
「……化け物が」
ベレグが影のなかに溶け込むようにして消えると同時に、アリエルは食屍鬼めいた化け物に向かって手のひらを向ける。たちまち冷気が収束し、青白い輝きを放ちながら〈氷槍〉が形成されていく。そのまま狙い定めるや否や、氷柱を思わせる氷の槍が放たれる。
凄まじい速度で撃ち出された〈氷槍〉は、大気を切り裂きながら一直線に化け物に向かって飛んでいく。けれど化け物は重力を無視するかのように壁に向かって飛び上がると、四肢を使って垂直の壁を駆け上がる。その動きはまるで巨大な昆虫か何かを見ているかのように異様で、〈氷槍〉は壁に衝突して粉々に砕け散った。
「なっ!」
化け物は壁を蹴りつけてアリエルに飛び掛かる。咄嗟に腰を落として身を守るが、巨体の衝撃に抗うことができず組み付かれると、そのまま階段を転がり落ちていく。金属と石が擦れる音が響き、アリエルは背中を強かに打ちながらも必死に化け物を押しのけようともがいた。
階下に待機していた仲間たちは突然の出来事に困惑し、一瞬だけ動きを止める。上階から転がり落ちてきたアリエルと、それに覆いかぶさる異形の化け物――その凶悪な姿に全員の顔が恐怖に歪む。
「負傷者が狙われるぞ!」
守人の誰かが叫び声を上げる。その言葉が発せられると同時に、涎を垂らした化け物が身体の向きを変えるのが見えた。
けれどラファだけは冷静だった。すぐに弓を構えると、化け物に向かって矢を放った。暗がりのなか、鋭い音だけを残して矢は化け物の胸部に突き刺さり、深々と食い込む。けれど化け物は痛みを感じている様子もみせず、そのままラファに向かって猛然と突進する。
「逃げろ!」
暗闇に誰かの声が響いたが間に合わない。打撃音とともにラファは吹き飛ばされ、背中から床に叩きつけられた。化け物は馬乗りになると、太い腕を振り上げた。
鋭い爪が振り下ろされるたびに肉が裂け、骨が砕ける鈍い音が聞こえ、ラファの悲鳴が木霊する。すぐに助けなければ――アリエルはほとんど無意識に〈氷槍〉を撃ち込んでいた。膨大な呪力がピリピリと空間を震わせ、凄まじい勢いで放たれた氷の槍は化け物の背中を貫通し、渦を巻くような衝撃波で吹き飛ばしてみせた。
しかしそれでも化け物は死ななかった。上半身と下半身が切断されても、その動きは止まらない。引き千切れた下半身から黒い体液が噴出するなか、化け物は上半身だけになっても這うようにしてラファに近づく。
「いい加減に――!」
そう口にしたシェンメイの手には、赤黒い刃――〈血刃〉が握られていた。
「死ね!」
彼女は素早い動きで剣を振る。赤い刃が化け物の首を捉え、鈍い音を立てながら刎ね飛ばす。化け物の動きは止まり、ようやく暗闇に静寂が戻った。
アリエルはすぐに立ち上がると、倒れたまま動かないラファのもとに駆け寄り、目の前に広がる光景に息を呑んだ。肉が裂け、血が溢れ、内臓と骨がむき出しになったその姿は、目を背けたくなるほど悲惨だった。
鋭い爪による攻撃は、少年の身体を無慈悲に引き裂いていた。頭部を守ろうとした腕の筋肉はズタズタに切断され、白い骨が露わになっていた。その骨は複雑に砕け、周囲の肉は欠損していて、まるで食い千切られたかのような状態だった。傷口から溢れる鮮血は止まることなく、血液の臭いが空間を満たしていく。
腹部にも無数の爪痕が刻まれ、皮膚が裂け皮下脂肪が見え、損傷した内臓の一部が露出していた。胸元にも深く抉られた傷があり、そこから覗く肋骨が生々しく呼吸に合わせて上下している。けれどそれでも、浅い呼吸音で死の狭間で残酷な未来に必死に抗っていることが分かる。
「クソっ……」
アリエルは震える手で〈治療の護符〉を取り出し、血液に濡れた傷口に押し当て、護符に呪素を流し込んでいく。
血が染み込んで真っ赤になった札が淡い光を放ちながら傷口を優しく包み込んでいくが、それを嘲笑うかのように大量の血が噴き出す。その間にも効果を失くした護符は塵と化して消えていく。
「ダメだ、ダメだ、ダメだ」
焦燥に駆られ、次から次に護符を取り出しては、傷口に押し当てていく。そのたびに護符は呪力の淡い光を放ち、血の海に消えていく。
何度目かの護符でようやく主要な動脈がつながり、止血に成功したようだが、血液の損失と傷の状況を考えれば、命の危険が去ったとは言えなかった。ラファの息遣いは弱々しく、顔面は死人のように蒼白だった。
「大丈夫だ、ラファ。絶対に助けてやるからな……」
アリエルの声は震え、護符を押し当てる手は血にまみれていた。
押し寄せる無力感と怒りが心の中で渦巻き、胸の奥から突き上げる感情を抑えられなかった。ザザの毛皮にラファの血が染み込み、手は震え、唇は噛み締められて血が流れていた。その眼は深紅に発光し、燃えているかのように不規則に明滅していた。
周囲の仲間たちはアリエルの殺気と怒りに当てられ、声を掛けることすらできずにいた。空気が張り詰め、まるで刃物を突き付けられているような――あるいは恐ろしい獣に睨まれているような緊張感が漂っていく。
「おい、落ち着け!」
沈黙を破ったのはシェンメイだった。彼女は血に濡れたアリエルの肩を掴むと、強引に振り向かせた。
「負傷者はそいつだけじゃないんだ。すぐにこの場から移動しないと、全員が死ぬことになる!」
その声には焦りと苛立ちが入り混じり、彼女なりに冷静さを保とうとする必死さが感じられた。アリエルは奥歯を噛み締めてうなずいたが、心の中でくすぶる怒りは消えない。
「ああ、分かってる……」
そう口にしながらラファの身体を抱き上げたあと、ふたつに折れていた弓を拾い上げる。その顔には焦燥と、ラファを助けられなかった自分自身に対する怒りが入り混じった表情が浮かんでいた。
油断するべきではなかったのだ。相手は邪神を崇める邪悪な種族だ。その身に何を宿していても不思議じゃない。それなのに……アリエルは舌打ちすると、居場所を確認するため倒壊した壁から外の様子を確認することにした。