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暗闇に立ち尽くす悍ましい怪物。その間を縫うように、アリエルたちは慎重に一歩ずつ進んでいく。血溜まりで濡れた足元や衣服が擦れる微かな音すら、怪物たちの鋭敏な聴覚に届くのではないかという恐怖に囚われてしまう。〈隠蔽〉と〈消音〉の呪術を使っているとはいえ、完全に気配を消せるわけではないのだ。
目の前の怪物は、まるで眠っているかのように立ち尽くしていたが、乳白色の体表がわずかに痙攣するたびに内臓の動きが透けて見えた。それは不気味な命の鼓動を感じさせる。視覚を持たない怪物が音や振動に敏感なことは全員が理解していた。息をすることすら躊躇うほどの緊張感が漂うなか、なんとか詰め所の出入り口に近づいていく。
しかしそこで思いも寄らないことが起きた。
アリエルのすぐ前を歩いていた蜥蜴人のリワポォルタが、足元に散乱していた木箱を誤って蹴り飛ばしてしまう。ガシャリと音を立て、木箱が床を滑る音がやけに大きく響く。
その瞬間、空気が凍りついた。全員が息を飲み、鼓動の音すら聞こえてきそうな静寂が訪れる。そして怪物たちの頭部が一斉にポォルタと木箱に向けられる。全員の脳裏にポォルタが襲われる光景が過る。状況を理解したポォルタ自身も、長い尻尾を硬直させ、恐怖に瞼を閉じた。
「離れて!」
シェンメイの声が聞こえたかと思うと、床に転がる死体の周囲に広がる血溜まりが不気味に動き出すのが見えた。濁った液体は宙に浮き上がり、まるで生命を得たかのように、徐々に硬化しながら鋭利な刃に姿を変えていく。それは瞬く間に行われ、気がつくと特徴的な反りのある巨大な血の刃が浮かんでいた。
「これで!」
彼女が手を振りかざすと、鎌を思わせる鋭利な刃が横薙ぎに放たれた。血の刃は音を立てることなく飛び、横並びに立ち尽くしていた怪物たちの首を正確に刎ねていく。乳白色の頭部が次々と切り離され、床に転がっていく。
「やったか!?」
頭部を失くした怪物の群れは無言のまま崩れ落ち、床にドサリと倒れる音が室内に響いた。切断面からは血液が噴き出し、腐臭と瘴気がさらに濃く漂い始めた。問題は解決したようにも見えたが、現実はそれほど甘くはなかった。
突如として階下から怪物たちの叫び声が響き渡った。それは〈混沌の尖兵〉の咆哮、あるいは縄張りに侵入者がいることを伝える威嚇にも聞こえた。同時に、無数の足音が建物全体に鳴り響く。
「来るぞ!」
足音は床下から伝わり、階段を駆け上がってくる気配が感じられた。
異様な静けさに包まれていた詰め所が、一瞬にして地獄のような喧騒に変わる。敵の大群が押し寄せてくる――その事実に守人たちは困惑していたが、アリエルは拾っていた斧を握り直し、仲間たちに声を掛けていく。
「生き残りたければ、絶対に足を止めるな」
全員が詰め所の外に向かって全力で駆ける。降りしきる冷たい小雨が肌を刺し、濡れた地面は滑りやすく、気を抜けば転倒しかねない。仲間たちは順に外に飛び出していく、アリエルは最後のひとりが出たことを確認すると、素早く詰め所の扉を閉めた。
「時間を稼ぐ!」
冷気を身にまといながら呪術を使い、扉に手をかざす。降りつける雨粒が一瞬で凍りつき、厚い氷が扉を包み込んでいく。つめたい空気が呪術の効果を助長し、頑丈な氷の層を素早く形成することができた。扉が完全に閉鎖されたことを確認すると、すぐに仲間たちの後を追う。
背後からは鈍い打撃音が聞こえていた。怪物たちが扉を突き破ろうと体当たりしているのだろう。振り返ると、徐々に氷が剥がれ、いつ崩れてもおかしくない状態になっていた。
「クソっ……」
さらに悪いことに、詰め所の窓が内側から突き破られるのが見えた。飛び散る無数の木片とともに、乳白色の体表を持つ怪物たちが外に溢れ出る。あまりに数が多く、将棋倒しのようになり、下敷きになった怪物が内臓を撒き散らしながら潰れるのが見えた。
その悍ましい怪物の群れは立ち上がると、異様に高い音域の叫び声を上げた。その声は瘴気を帯びた空気を震わせ、廃墟や瓦礫の間に潜む怪物たちを目覚めさせていく。
先行していた仲間たちの声が聞こえて振り返ると、前方からも怪物の群れが接近してきているのが見えた。やはり先ほどの叫び声は、怪物たちを呼び寄せるためのものだったのだろう。ここで戦えば、次々と目を覚ます怪物の波状攻撃を受け続けることになる。撤退が唯一の選択肢だった。先頭に立っていたベレグは即座に判断を下す。
「近くの塔に避難する。負傷者を連れている者を支援しながら塔に駆け込め!」
負傷者を背負っていた守人や建設隊の職人は指示に従い、素早く行動を開始した。彼らの顔には焦りと疲労が滲んでいたが、誰ひとりとして声を上げることはなかった。兄弟たちを支援するため、アリエルは最後尾に立ち、迫り来る怪物の群れを迎え撃つ。
怪物が叫び声を上げながら飛びかかってくるたび、斧を叩きつけ、手足を切断していく。白く濁った体液が飛び散り、耳に残る嫌な悲鳴が聞こえる。それは細かな雨粒と混ざり合いながら、足元のぬかるみに溶け込んでいく。
「急げ、塔に入るんだ!」
仲間たちが次々と塔の中へ駆け込む。最後のひとりが扉を越えた瞬間、アリエルも振り返ることなく駆け込み、急いで扉を閉めた。
「閂を!」
重い閂が鈍い音を立てながら降ろされ、扉が固く閉ざされた。
けれどそれだけでは安心できない。アリエルは再び呪術を使い、凍り付くような冷気を扉に送り込む。雨で濡れた扉の表面が見る見るうちに凍りつき、さらに厚い氷の層を形成していく。外から激しく打ちつける音が聞こえていたが、しばらくは持ち堪えるだろう。
背後で仲間たちが荒い息をつきながら座り込む音が聞こえた。雨に濡れた毛皮が重く、負傷者の苦しげな呻き声がかすかに響く。
「ここでしばらく耐えるしかないな……」
塔の外からは、相変わらず怪物たちが生み出す嫌な音が絶え間なく聞こえていた。
扉にぶつかる鈍い音、鋭い爪で壁を引っ掻くような音、さらに石壁をよじ登るような音も確認できた。塔の薄闇のなか、怪物たちの存在は目に見えない脅威として、じわじわと守人たちの精神を蝕んでいく。
「時間の問題だ」
ベレグの言葉にアリエルはうなずくと、手にしていた斧の柄を握り直し、血と雨に濡れた刃を軽く拭う。壁の外側から聞こえる音のひとつひとつが不安にさせ、集中力を乱していく。
そこにリワポォルタが肩を落としながら近寄ってきた。その大きな蜥蜴人はうつむき、声を搾り出すように謝罪する。
「ずまない……あのどき、もっど注意しでいれば……」
彼の声は寒さに震えていた。蜥蜴人が寒さに弱いことは誰もが知っている。それに加え、激戦と眠れぬ夜が続いていた。その疲労が彼の判断力を奪ったのだろう。それを知っているからなのか、彼を責める者はいなかった。それどころか、彼を気遣う者もいた。
「気にするな、ポォルタ。誰だって失敗はする。それより、今はどう生き延びるかを考えよう」
アリエルの言葉に同意するように、シェンメイもうなずいてくれた。ポォルタは深く息を吐き出し、安心したように少しだけ肩の力を抜いた。
と、その時だった。ラファの興奮混じりの声が聞こえた。
「地下につながる扉を見つけました!」
全員が一斉にそちらに振り向いた。壁の隅に積まれた木箱に埋もれるようにして、古びた木製の扉が見えていた。
「地下か……」
アリエルの脳裏に砦の地図が浮かぶ。この砦の地下には、迷路のように入り組んだ地下通路が広がっている。多くの通路は崩れ封鎖されていたが、もし正しい道を見つけることができれば、怪物の群れと戦わずに第二防壁の内側に戻ることができるかもしれない。
「けどよ、地下だって安全とは限らないぜ。すでに怪物どもが侵入しているかもしれない」
髭面のベレグが不安げに言うと、それに応えるようにアリエルは目を細めた。
「ここに留まっていても、兄弟たちが死ぬのを待つだけだ」
「だな。それなら、地下に賭けるしかないか……」
ベレグが溜息をつくのを見て、全員が腹を括った。アリエルは木箱を退かしながら扉に近づくと、錆びついた把手を握る。手が触れた瞬間、冷たさとともに不吉な気配に鳥肌が立つのを感じた。
扉をゆっくりと押し開くと、内部からひんやりとした空気が頬を撫でていく。〈暗視〉を使って覗き込むと、石組の狭い階段が暗闇に続いているのが見えた。
「行こう……」
アリエルは斧を手に集団の先頭に立つ。背後からは怪物たちが塔に侵入を試みている音が聞こえた。そのなかを、一行は慎重に闇のなかに足を踏み入れていく。