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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 後編
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59


 意識の覚醒は、まるで深い水底から引き上げられるような奇妙な浮遊感を伴った。夢を見ていたのかさえ定かではないけど、目覚める瞬間、現実世界を認識するまでにわずかな戸惑いがあるように感じられた。


 重い瞼をゆっくり持ち上げると、ぼんやりとした視界のなか、豹人の姉妹がぴったりと寄り添うように眠っているのが見えた。彼女たちの毛並みは雨や血の痕で乱れていたが、静かな寝息が聞こえる。その音は、悪夢のような戦場の記憶をかき消すかのように穏やかだった。


 アリエルはふたりを起こさないように、ゆっくりと身を起こした。身体のあちこちが鈍い痛みを訴えていたが、それでも足音を殺しながら薄暗い建物を抜け出す。外に出た瞬間、冷たい空気が頬を撫で、徐々に意識がハッキリしていく。空はどんよりと曇り、灰色の雲から冷たい小雨が絶え間なく降り注いでいる。


 そこで砦内の異様な静寂に気づき、アリエルは足を止めた。襲撃はどうなったのだろうか。疑念が頭をよぎる。この静けさは、嵐の前触れなのだろうか。あれこれと考えながら歩き出すと、ちらほらと世話人や守人たちの姿が確認できるようになった。皆疲れ果てた表情を浮かべ、武器を手に重い足取りで移動していた。


 アリエルもその流れに従い、兄弟たちの後を追うように歩き出した。小雨が降り続けるなか、毛皮の頭巾を深く被り、冷たい滴で顔を濡らしてしまうのを防いだ。けれど相変わらず冷たい風は刺すように吹き付けていて、頭巾をしていても寒さを凌ぐことはできなかった。


 食堂の入り口が見えてくると、蝋燭の淡い灯りが漏れているのが見えた。薄暗い灯りの中で兄弟たちが静かに食事をとっている様子も見られた。その場の空気は重々しく、誰も無駄口を叩かない。静かすぎる食堂の様子に、アリエルは足を踏み入れることを躊躇(ためら)う。


 外に置かれた水瓶を見つけると、そっと手を伸ばす。まず雨水を貯めていた水瓶で手を洗い、それから顔を洗った。指が冷水に触れるたびに、意識がさらに鋭く冴えていく。濁った水が頬を伝い、血と泥を洗い流していく感触に、ほんの少しだけ清々しさを覚えた。


 ふと手を見下ろすと、爪の間に血と泥がこびり付いているのが見えた。その赤黒い汚れを落とすために水をすくい、丁寧に洗い流していく。爪の隙間から汚れが溶け出す様子を眺めながら、ふと昨夜の戦場の光景が脳裏をよぎった。


「あれだけの犠牲を払って、いったい何を守れたんだ……?」

 胸に重い感情が広がるが、それを振り払うように手を強く擦り続けた。


 それから飲料水が蓄えられた水瓶まで歩いていき、清潔な水で口を濯ぐ。冷たい水が喉を通ると、全身が引き締まるような感覚がした。


「よう、兄弟。目が覚めたみたいだな」

 その声はどこか軽妙さを含みながらも、緊張の余韻が残されているように思えた。


 ルズィは疲労でやつれた顔に笑みを浮かべながらも、その目の奥には一晩中続いた死闘を物語るような鋭い光が宿っていた。


「大丈夫そうだな、安心したよ」

 彼はそう口にしながら、腰に吊るしていた水筒を清潔な水で満たしていく。アリエルは、じっとその光景を眺めながら質問することにした。


「砦の状況は?」

「今から話す。とりあえず、ついてきてくれ」


 ルズィのあとについて防壁に向かう道中、負傷した兄弟たちの姿を見ることになった。あちこちから呻き声や荒い息遣いが聞こえてくる。篝火がたかれるなか、焦げた金属と血の臭いが混ざりあったような嫌な空気が辺りに漂よっていた。


 防壁の頂上、歩廊に立つとルズィは眼下の惨状を見ながら説明してくれた。どうやら、アリエルが気絶したあとも敵の猛攻は続いたようだ。けれど第二防壁は持ちこたえた。建材に使われていた呪素を無力化する古代の石材が効果を発揮していたようだ。あの〈クァルムの子ら〉の呪術すら、壁に損傷を与えることはできなかったようだ。


 アリエルは感心しながらも、第二防壁が攻撃を耐えたことに安堵する。

「それで、どうやって敵を押し返したんだ?」


「守る場所が限定されたのが良かったのかもしれないな」

 守備範囲が縮小したおかげで、攻撃される箇所を集中的に守ることができた。部隊を再編成して、呪術を使用できる者と長弓部隊で接近する敵を優先的に排除し、激しい攻撃を凌いだようだ。


 ルズィの話を聞きながら、アリエルは戦場の光景を頭のなかで再現していく。無数の矢が雨のように降り注ぐなか、闇を照らす光のように呪術が飛び交い、必死で敵を押し返している様子が目に浮かぶ。


「夜が明ける頃には、連中は後退していったよ」

〈混沌の尖兵〉とも呼称される小さな怪物は、元々地底で生息している(おぞ)ましい生物だった。かれらは日の光を嫌い、すでに占拠していた塔や建物のなかに身を潜めた。その混乱の最中、〈ベリュウス〉も姿をくらませたようだ。


 激しい戦闘の影響なのか周辺一帯には濃い瘴気が漂っていて、〈ベリュウス〉の気配は疎か、怪物の群れや〈クァルムの子ら〉の気配を探ることもできなくなっていた。


「それで、今はどうなってる?」

 アリエルが質問すると、ルズィは遠くに見える崩壊した防壁に視線を向ける。


「静かだ。見張りを立てて周囲に警戒させてるが、日が落ちるまで動きはないだろうな」


 ルズィ短い説明を終えると、眉間に深い皺を寄せ、疲れた顔で言葉を続けた。

「まだ数人の仲間が取り残されている。退却の混乱で、後方に取り残されたんだ。〈念話〉を介して連絡は取れているが、怪物どもが動き出したらマズいことになる。すぐに彼らを救出する部隊を編成しようと思ってるんだが、参加する気はないか?」


 アリエルはその問いに即答する。

「もちろんだ。いつでも行ける」


「エルに頼ってばかりで悪いと思っているが、兄弟のほとんどは逝っちまったからな」

 軽口を叩くように微笑んだあと、すぐに真剣な面持ちで言う。


「まずは周囲の状況を確認したほうがいいな」

 今回も照月(てるつき)來凪(らな)の特殊能力〈千里眼〉に頼るようだ。彼女の能力なら、濃い瘴気のなかでも敵の動きや取り残された兄弟たちの正確な位置を把握できるだろう。


 ルズィと一緒に崩壊していない塔に足を向けた。〈千里眼〉の使い手でもある照月來凪は、つねに高所から戦場全体を見渡し、戦術の要として活躍してきた。彼女の能力が、この苛烈な戦場で数々の命を救ってきたのは周知の事実だった。


 薄暗い螺旋階段を上がり塔の頂上に出ると、甲冑を身にまとった武士の姿が視界に入る。土鬼(どき)でもある大柄の武士は全身に返り血を浴びていて、甲冑からは白く濁った血液が滴り落ちていた。後退戦の混乱のなかで、主でもある照月來凪を守るために奮闘したのだろう。


 そのすぐ横に彼女が立っていた。艶やかな黒髪が淡い光を反射し、彼女の周囲だけ別世界のように静かに見えた。けれどその表情は険しく、額には薄っすらと汗が滲んでいた。能力を酷使してきた彼女がどれだけ疲弊しているのかは、その顔を見れば明らかだった。


 アリエルが声をかけると、彼女は小さくうなずいて、それから言った。

「少し待ってて、周囲の状況を確認してる」


 やがて照月來凪は目を開き、机で広げられた地図を見ながら低く落ち着いた声で占拠された塔や施設の情報を伝えていく。どうやら逃げ遅れた者たちの中には、建設隊の職人も含まれているようだ。


「敵は目立った動きを見せないけど、日が落ちる前に救出任務を終えたほうがいい。夜になれば、あの怪物の群れは間違いなく動き出す」


 アリエルはルズィから許可を得て、すぐに数人の仲間を集めた。隠密行動に長けた影のべレグと、幻惑の呪術の使い手としてシェンメイ、それに弓を手にしたラファを連れていくことにした。簡単な装備点検のあと、アリエルは仲間たちに声を掛けていく。


「時間は限られている。日が落ちる前に部隊を見つけ、すぐに撤退しよう」

 小雨が降り続ける曇り空の下、決死の任務が静かに始まろうとしていた。

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