57〈死者の影〉
夜の森に〈ベリュウス〉の咆哮が轟く。その咆哮は大気を震わせ、胸を締めつけるような異様な衝撃が込められていて、それだけで戦士たちの士気を削ぐような威圧感があった。しかしアリエルの忌まわしい能力によって生まれた黒い影は、その咆哮に怯むことなく進撃を続ける。
〈死者の影〉は音もなく、滑るような動きで〈ベリュウス〉に向かって突き進んだ。ソレは実体を持たず、数え切れないほどの黒い粒子が寄り集まって凝縮されたような不定形な存在だった。
それらの黒い異形が化け物に近づくと、木々の間から白い怪物たちの群れがあらわれる。そして憎しみに満ちた敵意を剥き出しにし、狂ったような奇声を上げながら猛然と襲い掛かる。
黒い影と白い怪物の群れがぶつかり合う。そうして戦場はさらなる混沌に包まれていく。〈死者の影〉は音を立てず、素早く怪物たちに接近し、漆黒の棍棒を振り下ろす。その棍棒は黒い靄によって形作られ実体を持たないかのように見えたが、攻撃の瞬間だけ硬質な輝きを帯びた実体のある武器として怪物の骨を粉砕していく。
強烈な一撃で白い怪物〈混沌の尖兵〉は膝から崩れ落ち、そして頭部を叩き潰されるようにして地面に倒れこむ。〈死者の影〉はすぐに別の標的に襲い掛かるが、地面に残された死骸は奇妙な黒い靄に包み込まれていく。
その間にも白い怪物たちは迫りくる〈死者の影〉を攻撃しようとするが、その手に持つ手製の武器や鋭い爪は影には届かない。怪物たちの攻撃は虚しく空を切り裂き、反撃する間もなく黒い影によって蹂躙されていく。その光景は、まるで死者の怨霊が生者を狩るかのような不気味さを帯びていた。
そして戦場に転がる無数の死骸から黒い靄が立ち昇っていき、また新たな〈死者の影〉が形成されていく。それは恐るべき能力だったが、その異能にも代償がある。
アリエルは戦闘の最中、確実に疲弊していく。肩で息をする彼の額には冷たい汗が浮かび、視界がわずかに揺らぐ。膝から崩れそうになるたび奥歯を噛みしめ気力を振り絞りながら立ち続ける。身体的な疲労だけでなく、精神力も消耗してしまうこの能力は、確実に彼を追い詰めていた。
その状態のアリエルを支援するべく、豹人の姉妹が駆けつける。彼女たちは耳を研ぎ澄ませながら周囲を警戒する。リリは両手に短剣を構え、左右を見渡しながら接近する化け物を威嚇する。一方、ノノは呪術の準備をしながら防壁を這い登ってくる怪物だけでなく、守人たちにも警戒していた。
混戦のなか、守人の多くはアリエルが何をしていたのか理解していなかったが、瘴気を帯びた膨大な呪素をまとっていることには気がついていた。
これまでアリエルを信用せず忌み嫌っていた守人のなかには、その邪悪な気配を混沌の影響だと捉える者たちもいた。ノノは守人たちからの無意識的な悪意や敵意からも、アリエルを守ろうとしていたのかもしれない。
歩廊まで登って来た怪物が耳障りな叫び声を上げながら駆けてくると、リリは手にしていた短剣を投擲する。頬が裂けたような醜い口腔に命中し倒れるが、その後方から別の怪物が迫る。彼女は苛立ちながら手にしたもう一本の短剣を投擲し、足元に転がっていた槍を拾い上げ迫りくる脅威と対峙する。
アリエルは疲労で視界が霞むなか、戦場の光景を見渡していた。自らが解き放った〈死者の影〉が戦況を優位に導いているようにも見えたが、〈ベリュウス〉の威圧感は変わらない。〝鋭い牙を持つもの〟は、戦狼の攻撃に警戒しながら戦場を睥睨し、守人たちを嘲るかのように咆哮を轟かせていた。
その〈ベリュウス〉の巨体に黒い影たちが次々と群がっていく。ソレは音を立てず、闇の夜に紛れる霧のように化け物に取り付き、鋭利な牙や爪で〈ベリュウス〉の肉体を引き裂いていく。
〈ベリュウス〉は煩わしそうに翼を広げると、しがみつく影を振り払おうとした。漆黒の翼の一振りだけで戦場の風景が変わるほどの暴風が巻き起こり、付近の木々が揺さぶられ、土砂を巻き上げながら地面が抉られていく。しかし〈死者の影〉に効果はなく、ひとたび霧散しても、再び集結して化け物を攻撃し続けた。
恐るべき巨体を持つ〈ベリュウス〉にとって、それは小さなネズミの群れのようにしか見えなかったのかもしれないが、その数が圧倒的だった。
瞬く間に〈ベリュウス〉の巨体は〈死者の影〉によって呑み込まれていく。水牛めいた巨大なツノと、コウモリじみた巨大な翼だけが露出している状態になる。化け物は喉の奥から怒りとも苦痛ともつかない咆哮を絞り出し、周囲の空気を震わせる。だが、黒い影は怯むことなく襲いかかり続けた。
小さな怪物の死骸から誕生した黒く歪な影は、その鋭い牙と爪で〈ベリュウス〉の肉を抉り取っていく。大量の血液が流れ落ち、錆びを含んだ濃厚な鉄の臭いが戦場全体に立ち込めていく。その血液は腐敗した泥のような色合いを帯びていた。
「ここで終わらせる……」
アリエルは自分に言い聞かせるようにつぶやくと、さらに能力に意識を集中させる。
精神的に限界だった。もはや立っていられないほど体力を消耗し、視界が霞み、ほとんど何も見えなかった。それでも彼は力を振り絞る。頭痛は鈍器で殴られているように激しく、呼吸するたびに胸が焼けるように痛んだが、それでも攻撃の手を止めることはしなかった。
戦場に横たわる死骸からは黒い靄が立ち昇り、新たな〈死者の影〉が形成されていく。その動きは前よりも遅くなり、アリエルの消耗が目に見えるようだったが、彼の意思は揺るがなかった。黒い影は戦場全体を駆けめぐり、周囲の怪物たちさえも巻き込みながら容赦のない虐殺を行う。
アリエル自身がその代償を払わなければならないことも分かっていたが、それでも機会を逃さないため、限界を超えて力を解き放つ――もはやこれが、最後の攻撃になることを願いながら。
わずかに勝利の希望の兆しが見えてきたときだった――戦場にさらなる恐怖が訪れることになる。黒い影に覆い尽くされていた化け物〈ベリュウス〉の巨体が、突如として異様な変化を見せ始めた。
胸郭が異常なまでに膨れ上がっていく。身体の内側から圧倒的な力が噴き出そうとしているかのようだ。それに反応しているのか、灰色の体表がじわじわと赤熱していく。皮膚の隙間から赤い光が漏れ出し、地底の溶岩を思わせる輝きを帯びていく。恐るべき熱波が周囲に広がり、近くの木々が音もなく発火していくのが見えた。
〈ベリュウス〉の喉元が炎に包まれるように燃え立ち、輝きが一際強まると、耳をつんざくような咆哮が戦場に轟く。そしてつぎの瞬間――それは解き放たれた。
凄まじい熱を伴う青い〈火球〉が吐き出される。その巨大な火球は空間そのものを焼き尽くすかのような熱と呪力を伴い、見る者すべての視界を青に染め上げた。吐き出された火球の周囲には呪素の衝撃波が発生し、空気が震え、地面が抉れていく。〈火球〉の圧倒的な熱波が周囲をのみ込み、周辺一帯の地形そのものを根こそぎ変えていく。
猛烈な呪力を伴う爆風に〈死者の影〉は抗う術もなく消滅し、戦場に横たわる小さな怪物たちの死骸は跡形もなく蒸発する。木々さえも灰に変わり、地表が溶けるように赤く爛れ、見る間に滑らかなガラス状に変化していく。
そして〈火球〉は防壁に直撃する。凄まじい轟音と共に壁は粉々に砕け散り、歩廊に立っていた守人たちが巻き込まれていく。防壁の崩壊とともに大量の瓦礫が宙に吹き飛び、守人たちは成す術なく衝撃波に飲み込まれ、叫び声が爆風の中にかき消されていく。
空から降り注ぐのは雨だけではなかった。砕けた瓦礫とともに、血肉と骨片が降り注ぎ、周辺一帯を赤黒く染めていく。辺りには倒れた者たちの武器が散乱し、生存者たちは立ち上がるどころか、身動きすら取れなかった。
戦場は一変し静寂と恐怖に支配される。熱波が吹き荒れた後の空気は、焼けた金属のような臭いを漂わせていた。
アリエルは崩れかけた壁に手をかけ、全身の力を振り絞って立ち上がる。その視線の先には、今もなお赤々と明滅する〈ベリュウス〉が立っていた――新たな破壊を振り撒く準備をしているかのように。