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「あの美人と何を話してたんだ」と、ルズィはニヤリと口の端を持ち上げる。「……いや、違うな。何をしてたんだ」
アリエルは顔をしかめながら不機嫌に言った。
「べつになにもしてない」
「暗がりで抱き合っていたように見えたぜ」
「なにかの見間違いだろ。厳密には抱き合っていなかったからな」
「厳密ね」
今も彼女の匂いが身体に纏わりついているような感じがして、アリエルは落ち着かなかった。ルズィはそんな友人の様子を見ながら、どうやって揶揄ったら楽しめるのか考えていたが、地下に続く階段が見えてくると周囲に鋭い視線を向けた。人気がないことを確認すると、友人を連れて階段を下りていく。
薄暗い廊下には油を使用した照明器具が等間隔に設置されていていたが、その灯りは頼りない。目的の部屋の前には武装した〈黒の戦士〉が立っているのが見えた。まるで獣の森を移動しているときのように、ふたりは緊張の糸を緩めることなく周囲の動きを警戒していた。ルズィが声を掛けると、かれらは脇にどいて扉を開いてくれた。
そこでは呪術器が使用されていて、地下にある部屋にも拘わらず、驚くほど明るく空気も新鮮だった。上階から聞こえてきていた男女の騒がしい声も、嫌な臭いも、この部屋では感じられなかった。ふたりが部屋に入ると、それまで何かを話し込んでいた友人たちはピタリと口を噤む。
「もう君に会えないのかと思っていたよ」
ウアセル・フォレリはいつもの陽気な笑みを浮かべる。
「人混みで迷子になったんだ」
アリエルは言い訳を口にしながら広い部屋のなかをぶらぶらと歩いて、それから部屋の中央に置かれていた大きな円卓に近づく。そこには周辺一帯の詳細な地図や各部族の情報が書き込まれた紙束、酒瓶から毒草、手斧といった武器まで、ありとあらゆる物が無雑作にのせられていた。
「迷子ね……」
ルズィが得意げな表情を浮かべて口を開こうとすると、アリエルは円卓に突き刺さっていたナイフを意味ありげに抜いた。
「そう、ただの迷子だ」と、青年は繰り返す。
椅子に座って行儀よくしていたラファは、ふたりの間に漂う緊張感に気づかなかったが、髭面のベレグは腐肉を漁る食屍鬼めいた鋭い嗅覚で、ふたりの間に面白い話があることに気がつく。そしてそれは生真面目なアリエルを思う存分に揶揄うことのできる面白い話に違いない。彼は音を立てずにさっと動くと、ルズィの横に立って悪巧みの相談を始める。
アリエルは子供じみた義兄弟を見ながら溜息をつくと、ウアセル・フォレリに部族の動向について訊ねた。聖地〈霞山〉を離れてから数週間、青年は部族の会議に参加しなければいけないことも忘れてしまうほど、世間との接点を失ってしまっていた。
「そのことに関して、知らせておきたい話があるんだ」
ウアセル・フォレリは少しも嫌味に感じない気障な態度で微笑む。
「どうやら首長は、君たちが〝龍の幼生〟を保護したことに気がついていないみたいだ。あの戦で捕らえた敵対的部族の残党に対して、目を覆いたくなるような拷問が行われたけど、神々の遺物はおろか、龍の子どもについての情報について話した者はいなかった。そもそも知っている人間がひとりもいなかったんだ。やつらは内臓を潰されて糞を放り出しながら無意味に殺されただけだった。……失礼、汚い話は必要なかったね」
いつの間にか椅子に座り、上等な蜂蜜酒を口にしていたベレグが言う。
「俺たちが神殿の地下に侵入したとき、複数の神官が死んでいたのを見かけたって話を憶えてるか?」
「もちろん」と、ウアセル・フォレリは愛想よく返事をした。
「その神官どもが龍の情報を隠蔽していたんじゃないのか?」
「たしかに人は秘密というモノを隠し通すことができない生き物だ。口が増えれば増えるほど情報が外に漏れてしまう危険性が増す。だから神官たちが周到な計画を立て、同族にも龍の存在を隠していた可能性は捨て切れない」
そこまで言うと、青年は上品に溜息をついてみせた。
「けど、俺たちには好都合だ」
ルズィがにっこり笑みを浮かべて蜂蜜酒を喉の奥に流し込むと、ウアセル・フォレリは口をへの字にして同意した。
「少なくとも、境界の砦が首長の軍に包囲されることはないだろうね」
「だけど、それでも安心することはできないな」
「どうしてでしょうか?」
ラファの質問に答えたのはベレグだった。
「こいつは仮定の話だが、あの血腥い戦場で共に戦った守人のなかに裏切り者がいた場合、そいつは俺たちが龍の子どもを保護していた事実を首長に報告するかもしれない」
「裏切り者って……でも、そんなことをする人はいませんよね?」
「俺たちの部隊にはいないかもしれない。でも、ルズィの部隊はどうだ? 連中の大半は重罪人で、いつも他人の足を引っ張って、任務の愚痴ばかり言っているような奴らだ。境界の砦から去るために、首長と何らかの取引をしていても不思議じゃない」
ラファが困惑しながらルズィに視線を向けると、彼は肩をすくめて、それから三杯目の蜂蜜酒を片付ける作業に戻った。
「だからこそ、僕たちは早く動かなければいけない。オオカミがその喉元に喰らいつく前に、森から脱出する方法を見つけるのさ」
ウアセル・フォレリはそう言うと、どこか上の空だった親友の顔をちらりと盗み見た。赤い眼の青年が何を考えているにせよ、この場にいる人間は薄氷の上を歩いているという自覚を持つ必要があった。一歩でも誤れば、薄い氷を踏み抜くことになる。そして水は冷たく、底がない。
「でも森の外に導いてくれるっていう遺物は、まだ見つかっていないんだろ」
不貞腐れたように言葉を口にするルズィに向かって、ウアセル・フォレリは打ち明けた。
「我々の間に秘密がないことは知っている。そしてその秘密を共有する者が増えてしまうことの危険性も理解している。だけど状況を打開するために、同じ志を持つ者たちの助力を得ようと考えているんだ」
アリエルが口を開こうとしたとき、唐突に扉が開いて、大男が暗い通路に姿を見せた。
「大丈夫だ」ウアセル・フォレリは刀に手を掛けた守人たちを落ち着かせるように、やわらかい声で言った。「かれらは僕らのお客さんだ」
「客……?」
ベレグが顔をしかめて納刀した直後、身長二メートルを優に超える大男が屈み込みながら部屋に入ってくるのが見えた。その大男の額に二本のツノがついていることが確認できた。しかしソレがなくても、彼が土鬼だということは誰の目にも明らかだった。
大熊のように筋骨たくましい身体に鉄紺色の甲冑を着こみ、真っ白な陣羽織には太陽を示す真っ赤な旗印が刺繍されていた。と、かれの背後から別の大男がのっそりと部屋に入ってくる。先ほどの大男と似たような格好をしていたが、かれの手には大太刀が握られていて、それは巨大なイノシシを一刀両断にできそうなほど見事な刀だった。
「異常ないみたいだな……。姫、入ってきても問題ないです」
大男の言葉のあと、若い女性が入ってきた。一瞬、部屋のなかは静まり返った。ラファは女性に見惚れたように、ぼうっと彼女の顔を見つめ。ベレグは髭を剃ってこなかったことを後悔し居心地の悪さを感じ、ルズィはニヤリと笑みを浮かべながらアリエルに視線を向けた。
背の高いスラリとした土鬼の女性は、上等な紺藍色の着物に薄桜色の細帯を締めていた。黒髪は艶があり、光のなかで白い線が浮かび上がり輝いていた。瞳は透き通るような琥珀色だったが、彼女の感情に合わせて濃淡を変化させているのが分かった。
若い女性は守人からの不躾な視線に気づいているのか、ひどく機嫌が悪かった。もとより彼女は罪人の集団に成り下がった守人を軽蔑していた。その眼差しは氷のように冷たい。
「姫、フォレリのお坊ちゃんに挨拶を」
大男の言葉に彼女は舌打ちしてから視線を上げた。そしてアリエルと目が合うと、途端に硬い表情が崩れる。彼女は年相応の表情を浮かべながら顔を赤くして言葉を失う。