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防壁の上では空気が張り詰め、緊迫した状況が続いていた。雨に濡れた歩廊に立つ守人たちの間を怒号が飛び交い、迫りくる化け物に向かって次々と矢が射かけられる。
それでも防壁に迫る異形の化け物の勢いを止めることができず、怯む様子さえ見せなかった。数本の矢が身体に突き刺さり、肉が裂けても、まるで痛覚すら存在しないかのように振舞う。実際のところ、その生物は何も感じていないのだろう。
それらの化け物が防壁に近づくにつれて、その異様な姿がハッキリと見えるようになってくる。無数の肉の触手が奴隷の裂けた腹部や背中から飛び出し、まるで何かを探すように空中で蠢いている。 その触手の先端が鞭のようにしなやかに動きながら、近くにいた小さな怪物を絡め取っていく。
怪物は叫び声を上げながら激しく抵抗するが、触手に引きずり込まれ、異形と化した奴隷の裂けた腹部に引き込まれていく。
「あれは、なんだ……?」
歩廊に立つ守人のひとりが声を震わせながらつぶやく。彼の視線の先では、小さな怪物を捕食する化け物がいて、そのたびに体躯がわずかに膨れ、皮膚が引き裂けるようにしてさらに大きくなっていく様子が見られた。
雨音に紛れることなく咀嚼音が響き渡り、血液が飛び散るたびに、骨が砕かれる嫌な音が聞こえる。その異常な光景に若い守人は恐怖で身を硬くした。
そこに容赦なく反撃が行われる。豹人の姉妹が放った〈火球〉が化け物に着弾し、爆発音とともに化け物の肉体が炎に包まれていく。化け物は苦しみの叫びをあげ、のた打つように地面に倒れ込む。その奇妙で耳障りな声は、まるで鉄板をノコギリで引き裂くような音だった。
倒れ込んだ化け物の上に、さらに〈火炎〉が降り注ぐ。雨の中でも激しく燃え盛る呪術の炎が、奴隷から変異した化け物の脆弱さを露呈させた。
「火だ! 連中は炎に耐性がないぞ!」
守人のひとりが声を上げると、矢狭間に立っていた者たちが火矢を用意し始める。呪術を使える者たちも集まり、燃え上がる鏃が化け物に向かって放たれていく。
火矢による攻撃は功を奏していたが、それでも数が多く、防壁に取りつく化け物もあらわれるようになる。炎に焼かれながらも、触手を使い昆虫のように壁を這い登ってくる。
たちまち壁面は無数の化け物で埋め尽くされ、それらの生物は寄生虫に操られる昆虫のようにも見えた。その肉の触手は蠢きながら壁を叩き、鈍い音を響かせながら壁の頂上に迫ってくる。
「化け物を叩き落とすんだ!」
守人たちは次々と火矢を放つが、焦燥感と恐怖が砦全体を支配し、雨音と戦闘音が不協和音のように響き渡る。
アリエルは、実戦経験に富む守人が槍や斧を使い迫り来る化け物に応戦しているのを横目に見ながら、堀と土塁を挟んだ森に視線を向けていた。毛皮の頭巾を深く被っていたが、月白の長髪が濡れて額や頬に張り付いて煩わしい。ウンザリしながら髪をかきあげたときだった。暗闇に覆われた森のなか、〈クァルムの子ら〉が動くのが見えた。
奇妙なことに、周囲を埋め尽くす小さな怪物たちに襲われる様子が見られなかった。むしろ、彼らは無抵抗の怪物たちを無造作に捕まえ、奴隷にしたときと同じように、ブヨブヨとした奇怪な物体を怪物の体内に押し込んでいた。そのたびに、小さな怪物は異形の化け物へと変異し、恐るべき速度で成長していく。
「連中を放置するわけにはいかない……」
アリエルは舌打ちしながら長弓を肩にかけると、防壁の縁に足を掛けた。必死で化け物を退ける兄弟たちを背に、山のように折り重なる死骸に向かって飛び降りようとしたときだった。
突然、森の奥から低い咆哮が轟いた。暗闇の中から姿をあらわしたのは、白銀の体毛をまとう戦狼だった。その紅い瞳は鋭く、雨に濡れた毛並みは銀糸のように輝いている。そのオオカミの背には、黒衣を身につけた守人たちが騎乗していた。偵察に出ていたベレグの部隊が砦の危機を察知し、全速力で駆けつけてきたのだろう。
白銀のオオカミは驚くべき速度で森を駆け抜け、そのまま怪物の群れと〈クァルムの子ら〉に猛然と襲い掛かる。
オオカミの牙と爪は凶器そのものだ。鋭い牙が小さな怪物の首を貫き、太い前脚によって繰り出される重い一撃が小さな身体を引き裂いていく。 守人たちはオオカミの背から長槍を繰り出し、次々と敵を屠っていく。小さな怪物たちは血しぶきを上げながら地面に倒れ込んでいき、瞬く間にその数を減らされていく。
形勢が一気に逆転しつつあることを察した〈クァルムの子ら〉のなかには、森の奥、暗闇のなかに逃げ込もうとする者もいたが――
「これだけのことをしておいて、逃げられると思うなよ!」
守人のひとりが容赦なく斧を投げつけた。その斧は風を切る音を立て、走り去ろうとしていた〈クァルムの子ら〉の背に正確に突き刺さる。特徴的な笠が吹き飛び、厚い布に包まれた身体が地面に崩れ落ちる。
戦場にオオカミと守人たちの咆哮が響き渡り、さすがの〈混沌の尖兵〉も困惑している様子だった。それでもなお、化け物に変異させられた怪物の多くが砦に接近するのが見えた。アリエルは素早く弓弦を引き、暗闇に向かって数本の矢を放つ――その矢の多くは化け物の身体に突き刺さるが、やはり仕留めることはできなかった。
それでも戦場に駆けつけた戦狼の奮闘が状況を好転させつつあった。その戦場の空気が一変したのは、地鳴りのような音とともに巨影が姿を見せたときだった。
アリエルは防壁からその姿を目撃し、思わず息を呑む。暗闇の中、木々をなぎ倒しながら突如としてあらわれたのは、異形の怪物〈ベリュウス〉だった。それまで姿を隠していた化け物は、一瞬でオオカミたちの威圧感をかき消し、戦場の空気を変えてしまう。
〈ベリュウス〉は、戦場を支配する者としての威厳を示すかのようにツノをもたげ、喉の奥から咆哮を轟かせる。それは大気を震わせ、歩廊に立つ守人たちでさえ思わず足を止めるほどだった。そしてその巨体が動くや否や、戦場はさらに混沌と化していく。
守人が騎乗していた巨狼が小さな怪物たちを蹂躙していたときだった。突如、横手から突撃してきた〈ベリュウス〉は、戦狼の巨体を無造作に薙ぎ払う。丸太のように太い腕が脇腹を直撃し、体重を活かした一撃がオオカミの巨体を宙に吹き飛ばす。
若い戦狼はそのまま木々に激突し、鈍い音が戦場に響いた。その衝撃でオオカミの背に乗っていた守人は宙に投げ出され、無防備な状態のまま地面に叩きつけられる。その身体は不自然に折れ曲がり、即死したことは明らかだった。
「退け! あの化け物から距離を取るんだ!」
影のベレグの声に反応してオオカミたちは後退しようとするが、〈ベリュウス〉は容赦なくオオカミたちの群れに突進し、その巨体を活かして蹴散らしていく。牙や爪で必死に応戦するオオカミたちだったが、〈ベリュウス〉の耐久力と膂力は圧倒的だった。
群れを指揮していたラライアは咆哮を上げ、〈ベリュウス〉に向かって鋭い衝撃波を放ち、その巨体を吹き飛ばそうとした。咆哮の波動が地面を揺るがし、周囲の樹木さえも揺さぶる。しかし〈ベリュウス〉はその巨体を低く構え、四肢で地面を抉るようにして踏みとどまった。 地面に残るその深い爪痕が、恐るべき化け物が持つ力の凄まじさを物語る。
そして次の瞬間、〈ベリュウス〉は背中にある大きな翼を広げた。闇に溶け込むような黒い飛膜が広がり、コウモリめいた形状を露わにする。 飛膜が風を切る音を立て、重い身体が一瞬で空中に跳ね上がる。そしてそのままラライアに襲いかかる。
ラライアは咄嗟に回避しようとしたが、間に合わなかった。〈ベリュウス〉の鉤爪は彼女の肩に突き刺さり、その巨体を地面に押し倒す。 ラライアは苦悶の唸り声を上げながら必死に反撃を試みたが、〈ベリュウス〉はその爪をさらに深く突き立て、彼女の動きを封じ込めていく。
防壁からその光景を目にしていたアリエルは、全身に冷たい汗が流れるのを感じた。そして心臓を鷲掴みにされているような嫌な感覚に全身が震える。彼は最後の銀の矢を手にすると、弓弦を引きながら鏃に膨大な呪素を込めていく。
アリエルの怒りに呼応するかのように、邪悪な瘴気を含んだ呪素が立ち込め、ピリピリと空気が震える。呪力が付与された特殊な鏃が耐えられる限界まで呪素を注ぎ込むと、〈ベリュウス〉の頭部に目掛けて矢を射る。




