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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 後編
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 冷たい雨が夜の森を濡らすなか、暗闇を引き裂くような激しい音が響き渡る。水滴が枝葉を叩く音に紛れて、剣戟と咆哮が聞こえ、雨は怪物の血肉に濡れた土を泥濘に変えていく。小さな怪物の死骸が水溜まりに浮かび上がるが、怪物の群れに踏みつけられ原形を失っていく。


 すでに堀と土塁は怪物の死骸で埋め尽くされていて、もはやその機能を果たせていなかった。防壁に殺到していた群れは死骸を足場にして防壁をよじ登っていたが、無秩序に動くわけではなく、より多くの死骸が積み重なった箇所を選び、効率よく壁をよじ登るようになっていた。


 鋭い爪を石壁の隙間に食い込ませ、混沌の瘴気で強化された身体能力で軽々と身体を引き上げていく。壁の頂上、歩廊には怪物たちが殺到し、守人たちとの間で激戦が繰り広げられていた。若い守人を鼓舞する部隊長の声は、しかし怪物たちの鳴き声や叫び声にかき消されていく。


 次々と押し寄せる怪物に対処しきれず、すでにいくつかの場所では突破を許してしまっていた。戦士たちは必死に剣を振るい、矢を放ち続けていたが、それでも数人の守人が倒れ怪物の波に呑み込まれていくのが見えた。その流れを止めることは、もはや不可能に思えた。


 その混乱のなか、アリエルは冷静さを保ちながら戦い続けていた。最前線に立つ彼を掩護するため、豹人の姉妹も力を尽くして脅威に立ち向かっていた。


 横に薙ぎ払うように槍を振り抜いて、数体の怪物をひと息に倒したときだった。背後から怪物たちの悲鳴が聞こえて振り返ると、シェンメイがオオトカゲの〈ラガルゲ〉に乗って歩廊にやってくるのが見えた。


「ここは私に任せて」

 彼女は高所に移動すると、瞼を閉じて幻惑の呪術を準備していく。


 やがて空気が変わっていくのが分かった。彼女の周囲に膨大な呪素が集まり、薄紫色の霧がゆっくりと形成されていく。その光景は守人たちだけでなく、怪物の注意を惹くほど神秘的な美しさを放っていた。


 それから彼女は、そっと息を吹きかけるようにして〈睡眠〉の効果を持つ霧を拡散させた。その霧は風に乗って広がり、防壁をよじ登っていた怪物たちを包み込んでいく。すると怪物たちの動きは一斉に鈍くなり、ほとんどの個体は握力を失い、泥と死骸が積み重なっていた地面に落下していく。本能に従うだけの低級の生物だからなのだろう、すぐにその効果は現れる。


「今だ! 矢を放て!」

 ラファの声が再び響き渡ると、待機していた長弓部隊が一斉に矢を放った。


 雨音を切り裂くように降り注ぐ矢の雨が、眠り込んだ怪物たちの身体を次々と貫いていく。矢継ぎ早に矢が射られ、百を超える怪物が目覚める前に死に絶えることになった。


 それを目にしていた若い守人たちが歓声を上げる。しかしその喜びも束の間、再び木々の間から小さな怪物たちが迫ってくるのが見えた。眠りを誘う霧の効果は限られているため、射殺し損ねた怪物も目を覚ますだろう。


 アリエルは槍を手にしながら、雨に濡れた顔を上げた。眼窩には防壁に殺到する怪物の波、そしてその奥には恐るべき化け物が立ち尽くしていた。


 戦場が再び緊迫した空気に包まれたのは、シェンメイが再度〈睡眠〉の霧を形成しようとしていた時だった。薄紫色の霧が彼女の周囲にゆっくりと漂い始めた直後、森の奥から赤々と燃える〈火球〉が飛んできた。視界の端で炎の接近に気がついた者たちは、一瞬身体を硬直させた。


「来るぞ!」

 部隊長の叫び声が雨音にかき消されていくなか、〈火球〉は鈍い音を立てながら歩廊に直撃し、熱波と共に衝撃波が広がる。そこにいた守人たちは、歩廊に押し寄せていた怪物たちと共に吹き飛ばされていく。灰色の雨雲の下、赤い炎の明滅が異様に目立った。


 怪物が攻撃の呪術を使えないことは、その場にいた守人なら誰もが知っていた。だからなのだろう、不可解な状況に困惑し、どうすればいいのか分からない、といった情けない表情を浮かべていた。怪物のなかに亜種が偶然紛れ込んでいたのだろうか、それとも別の何かがあるのか――その答えはすぐに明らかになった。


 アリエルは壁の縁に手をかけると、身を乗り出すようにして暗闇に目を凝らした。〈暗視〉の呪術によって闇に覆われた森が少しずつ浮かび上がっていくと、木々の間に潜む影を視界に捉えられた。その特徴的な笠や青紫色の羽織を見た瞬間、アリエルは唇をきつく結んだ。


「〈クァルムの子ら〉だ……」

 その名を口にするだけで、心の奥底に嫌悪感が湧き上がる。


 邪神を崇拝し、奴隷の命を捧げることで化け物を使役することで知られる(おぞ)ましい種族が、やはり化け物の襲撃に関与していたのだろう。


「注意しろ! 森に〈クァルムの子ら〉が潜んでるぞ!」

 部隊長の声が守人たちの耳に届くと、混乱と恐怖による動揺が広がっていく。


 アリエルは舌打ちすると、即座に〈収納空間〉に手を伸ばし、漆黒の長弓と銀の(やじり)が特徴的な矢を手に取る。呪術の効果が付与されたその矢は、敵の野営地で偶然に見つけた貴重な矢だったが、それを使うべき時がやってきたようだ。


 すぐさま矢をつがえ、弓弦を引く。雨粒が目に入ることすら気にならないほど集中していた。暗闇に潜む敵に狙いを定め、息を止める。矢が放たれると、銀の閃光が闇を切り裂き、木陰に隠れていた〈クァルムの子ら〉のひとりに命中した。


 命中を確認する間もなく、アリエルは素早く次の矢を手に取った。〈クァルムの子ら〉はアリエルの動きに気づき、彼に向かって〈氷槍〉を放とうとしていた。


 再び矢が射られた。矢は狙いを違わず、胴体のやや右寄りに突き刺さったばかりか、そのまま貫通し背後の樹木に深く食い込む。敵の呻き声は雨音にかき消され、戦場に広がる絶え間ない騒音に紛れて聞こえることがなかった。一瞬のうちにもうひとりの敵を撃ち抜いたアリエルは、気を抜くことなく〈クァルムの子ら〉の姿を探す。


「これで少しは静かになるか……?」

 雨に濡れた長弓を握り直しながら、アリエルの目は森に向けられていた。しかし脅威が去ったわけではないことを、彼は誰よりも理解していた。


 森の奥を凝視していると、黒い影が木々の間で揺れ動くのが見えた。何かがこちらに近づいていた。やがて木々の間で影が具体的な形をとり始めたとき、彼の胸に嫌な予感がこみ上げた。


 そこに姿を見せたのは、数人の〈クァルムの子ら〉だった。彼らが手にした黒い刃が暗闇のなかでも不気味な光を放っているのが見えた。彼らの先を歩くのは、みすぼらしい格好の部族民たちだ。


 その姿は痛々しいほどに痩せこけ、その身体を覆う薄布は泥と汚物にまみれていた。錆びた鎖で繋がれたその集団は、〈クァルムの子ら〉の奴隷だった。彼らは生気を失った目で、ただ無心に歩みを進める。


 嫌な予感は、すぐに現実に変わる。


〈クァルムの子ら〉のひとりが手を伸ばし、奴隷が身につけていた薄布を乱暴に引き裂いた。露わになった骨と皮だけの痩せ細った身体に、黒い刃が無造作に振るわれる。


 皮膚が裂け、ヌメヌメとした内臓が露出する。つぎの瞬間、〈クァルムの子ら〉はその腹部の裂け目にブヨブヨとした薄膜に包まれた物体を押し込んでいく。


 直後に奴隷の身体は痙攣を始める。四肢が不規則に震え、口から泡を吹きながら(うずくま)る。〈クァルムの子ら〉は一切の容赦を見せず、他の奴隷にも同様のことをしていく。見る見るうちに奴隷の背中から異形の触手が飛び出すのが見えた。その光景は戦場の暗い空気をさらに悍ましいものに変えた。


 触手はうねりながら獲物を探し求めるように動く。雨に濡れた地面を這い、ゆっくりと四方に伸びていく。生きたまま化け物に変異させられた奴隷たちは、次々と鎖から解き放たれ、自由になった瞬間に砦に向かって猛然と駆け出す。


「クソったれ、すぐに連中を止めるんだ!」

 部隊長の声に反応するように、弓を手にした守人たちが矢をつがえる。


 しかし複数の場所で同じ儀式が繰り返され、化け物の群れが次々と解き放たれていく。迫り来る化け物の悍ましい姿は守人たちの士気を削ぎ、絶望の色を戦場に濃く塗り広げていった。

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