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アリエルたちは生臭い汚泥と兵士の血が入り混じる場所で作業を続けていた。周辺一帯は奇妙な静けさに包まれていて、空気のなかには重苦しい緊張感が漂っていた。
アリエルが倒木の陰にしゃがみ込むと、その下敷きになっていた兵士の身体が見えた。泥にまみれた革鎧は引き裂かれ内臓が飛び出していて、〈ベリュウス〉から受けた攻撃の激しさを物語っているようだった。青年は首巻で口元を覆うと、兵士の上半身を引っ張り出して、使えそうな装備がないか確認していく。
「これは、まだ使えそうだ……」
鞘に収まったままの刀剣と矢筒を取り外して、腕輪の〈収納空間〉に放り込んでいく。
その動作には一切の躊躇いがなかった。装備は命をつなぐための貴重な道具であり、今はそれを無駄にする余裕はなかった。それでも装備を剥ぎ取るたびに、冷たくなった若い兵士の顔が視界に入り、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。こんな汚泥のなかで惨めに死にたくなかったはずだ。
本来なら敬意をもって死体を焼却するなり浄化する必要があったが、そのための人員を割くことができなかったので、そのまま土塁に埋葬することになった。それを決断することに抵抗がないと言えば嘘になるが、ここで迷う時間も感傷に浸る余裕もなかった。
兵士たちの身体は埋める建設隊の人々は、まるで何かの儀式を行うように、厳粛な雰囲気のなかで作業を続けていた。まるで戦士たちに砦を守り続けるように、祈りを込めているようにも見えた。
そこでアリエルは、古い書物で読んだ伝承のことを思い出した。ある古代都市で城壁を築くさいには、選び抜かれた戦士たちの心臓に短剣を突き立て、その血液がまだ温かいうちに城壁にかける。そうすることによって、都市を守る力を得ていた。城壁に呪術的な効果が宿ると信じられていたし、実際に効果があったのだという。
伝承で語られることのすべてが事実かどうかは分からないが、その儀式を再現するつもりはなかった。儀式に必要な呪術は失われていたし、数百人の生け贄を神々に捧げるような選択肢は最初から存在しなかった。興味がないと言えば、それは嘘になるが。
作業の合間、アリエルたちの周囲には〈飢えた仔猫〉たちが徘徊していた。真っ白な毛皮と赤い縞模様が目に付き、彼らの異様な存在感が嫌でも目に入る。死肉を夢中で貪るその姿は一見無害にも見えるが、彼らの本質を知っているので無闇に近づくことはしない。
仔猫たちは群れを成しているからなのか、あるいは単に食事に夢中だからか、建設隊の職人が近づいても警戒する素振りを見せなかった。ただ時折、大きな深紅の瞳で人々の動きをじっと観察しているように感じられた。その瞳に隠されている邪悪な本能が垣間見えるようでもあった。
「注意してくれ、ポォルタ。仔猫は可愛らしい姿をしているけど、とても厄介な存在だ」
アリエルの言葉に蜥蜴人のリワポォルタは顔をしかめてみせた。すでに唾液を吐きかけられていたのか、毛皮が台無しにされているのが見えた。
建設隊の職人たちは呪術を駆使しながら土を掘り起こし、地形を整えていく。彼らの多くは土を操る才能に長けた熟練者ばかりであり、その技術には驚かされるものがあった。ある者は地面に触れるだけで大地を波打たせ、別の者は土塁の基礎になる円筒状の土塊を形成しながら、それを地中に的確にはめ込んでいた。
かれらの作業を助けていたのは、モグラに似た姿をした無数の〈呪霊〉だった。彼らの能力も地形操作に特化していて、その動きは驚くほど素早い。
小さな身体に不釣り合いなほど力強い前脚で土をかき分け、掘り返された土は建設隊によって土塁として押し固められていく。〈呪霊〉は指示に従順で、呪素が供給される限り働き続けるため作業効率は飛躍的に高まっていた。大規模な地形操作を行うさいには、数人の職人たちが連携して呪術を発動していた。
設計にも工夫が施されていた。堀のいくつかの箇所には、わざと侵入しやすいように見せかけた仕掛けが施されていた。敵が踏み込めば足元の土が崩れ、堀の底へと転がり落ちるような仕掛けだ。そこには倒木を使い作られた鋭い杭が無数に打ち込まれていた。そこに落ちた者は、生きて戻ることはほぼ不可能だろう。
さらに虎口が――大群の侵入を防ぐための狭い通路が――いくつかの箇所に設けられ、横矢掛かりが機能するように設計されていた。この狭い通路に敵を誘い込み、側面から集中攻撃することが可能になっていた。
皮肉なことに敵の襲撃がなければ、長年放置されてきた砦周辺の整備が本格的に行われることはなかった。人手不足も関係していたが、これまで必要最低限の修繕だけが行われてきた。しかし襲撃されたことによって、砦本来の姿を取り戻すきっかけになっていた。
休みなく作業が進められるなか、鬱蒼と生い茂る木々の向こうに獣の姿を見ることがあった。巨大な肉食獣が、その鋭い眼差しで人々の様子を観察していた。見上げるほどの巨体を持つ大熊があらわれると、建設隊のなかに緊張が走る。けれど大熊が砦に近づくことはなかった。ただ静かに砦を見つめ、やがて木々の奥に姿を消していく。
その理由は明白だった。〈ベリュウス〉が残した濃い瘴気――その冷たく重い混沌の空気は、自然界の秩序を狂わせる恐怖の象徴だった。野生動物の多くは、それが何かを理解できずとも、本能的に危険性を察知していたのだろう。
対照的に、混沌を由来とする〈飢えた仔猫〉や死肉を貪る色彩豊かな怪鳥たちは、その瘴気に侵されることなく、むしろその環境を心地よく思っている節すらあった。
しかし瘴気を恐れるものばかりではなかった。死骸を求めて瘴気の向こうから異形の化け物たちがあらわれるようになり、アリエルと豹人の姉妹は建設隊の護衛に集中しなければいけなかった。
まず姿を見せたのは、ミミズを思わせる異形の化け物〈地走り〉だった。胴体は異様に太く、ブヨブヨとした脂肪に覆われていた。全身が梅紫と黒の不気味な模様で覆われていて、日の光を反射して体液がぬらぬらと輝いている。胴体側面にある無数の腕は恐ろしい速さで蠢き、地面を探るように動いていた。
作業を手伝っていた豹人の姉妹は素早く対応し、体内の呪素を解き放ち、凄まじい熱波を伴う炎を浮かべる。その〈火球〉は空気を焦がしながら化け物に向かって飛び、肉の焦げる嫌な臭いと一緒に衝撃波を生み出す。化け物が怯み身体をくねらせると、アリエルはその隙を突いて化け物に接近する。
そして一気に勝負をつけるべく、死体から回収していた刀剣に風の呪術を付与しながら飛び掛かる。刀身から放たれる不可視の刃は、化け物の弾力のある肉体を容赦なく切り裂いていく。腐食性の粘液が飛び散り、地面に滴り落ちるたびに蒸気を立てた。
そこに姉妹たちが放った〈火球〉が炸裂し、化け物の巨体が揺らぐ。風の刃による攻撃は強力だったが、その代償は大きかった。呪力の付与に刀身は耐えきれず、二度目の攻撃のあとに粉々に砕けてしまう。しかしアリエルは動揺しない、すぐに周囲の屍から新たな武器を拾い上げ、再び敵に襲い掛かる。
建設隊の職人たちは遠巻きに守人の戦闘を見守りながらも、作業の手を止めることはなかった。命の危険が伴う状況下であっても、彼らは土を掘り続け、砦の防御を整えるという使命を果たしていた。混沌の異形と戦うアリエルと姉妹の姿は、死に満ちた森の中で灯る希望の光のように見えたのかもしれない。
作業は順調に進められていたが、頻繁に襲撃されるようになると作業を中断しなければいけなかった。深い森の奥から漂う瘴気の濃さが増していることも、今では誰もが肌で感じていた。それは新たな脅威が迫っている兆候でもあった。




