15
やわらかな霧雨は石が敷き詰められた地面を濡らし、苔生した道を黒光りさせていた。まだ夜明け前の薄闇のなか、アリエルとラファは人気のない道を通って酒場や娼館が連なる区画に近づく。ゆらゆらと揺れる篝火が見える通りまでやってくると、薄い木綿の小袖を着た豊満な若い娼婦がひとり、炎の灯りのなかに立っているのが見えた。
茶色い髪は雨に濡れ顔に張り付いていて、寒さに頬を赤らめ、どこか退屈そうな表情を浮かべている。アリエルは彼女の名前は知らなかったが、彼女がルズィのお気に入りだということは知っていた。彼女の時間を買うためなら、彼がどんな無茶なことをするのかも知っていた。
「こんなところで何をしているんだ?」アリエルは率直に訊ねた。
彼女は黒衣の男に驚いたが、それがアリエルたちだと分かると、いたずらっぽい表情で言った。「あんたを待ってたんだよ、エル」
青年は眉を寄せて、それから言った。
「外で客引きしなければいけないほど、客に困っているようには見えないけど」
「もちろん客には困ってないよ、私はあんたを迎えに来たのさ」
「ウアセルの指示か?」
彼女は大きな乳房を揺らしながら肩をすくめる。
「経営者さまの指示に従うのも、私たちの仕事だからね」
アリエルは薄暗い空にちらりと視線を向ける。雨で濡れないように売春宿の店先で待っていてくれてもよかったのだが、彼女は娼婦にしては従順だった。あるいは、自分を大切にすることを知らないだけなのかもしれない。
アリエルは胸に手を当て彼女の厚意に感謝すると、ルズィとベレグについて訊ねた。
「あのふたりなら、もう宿にいるよ」
「そうか……なら、娼館まで案内してくれるか?」
「当然でしょ」
彼女は裏表のない笑顔を浮かべると、ラファの腕を取って歩き出した。
その村で最も人気があり立派な娼婦の館が、ウアセル・フォレリが経営する売春宿だった。元来、部族の人々の間では金品によって娼婦や男娼を買うことは悪だと考えられていた。奴隷は戦や略奪などで手に入れるモノで、それが名誉だと持て囃された時代があったからだ。そのため売春宿を営んでいた人々の多くは、部族の人々に迫害されてしまった過去がある。
けれど〈黒い人々〉がその職業に目をつけると、人々は考えを変える必要に迫られた。森の一大勢力である〈黒い人々〉を悪く言うことはできても、〈黒の戦士〉に守られた商人や経営者に手を出すことは誰にもできなかった。そして幸運なことに、経営者たちは誠実だった。身売りをしなければ生きていけない人々を保護し、商品としてだけでなく、人として扱ったのだ。
それまで宿に監禁され、病気になり死に至るまで人々の相手をさせられていた娼婦たちは、避妊や性病を防ぐ効果のある護符が与えられるだけでなく、治癒士たちによる健康維持も行われた。それでも過酷な仕事であることに変わりない。しかし〈黒い人々〉の管理のもと、種族を問わず不特定多数の人々の相手をしなければいけないという日々は終わりを迎えた。
もちろんそれはただの慈善事業ではなかった。〈黒い人々〉は名家の出身者だけを相手にする高級娼館をはじめとし、部族の村々で売春宿を開いては、娼婦たちのなかに訓練された諜報員を置き、顧客を欺き、売春宿を利用しながら情報収集を行うようになった。
敵対的部族は人々の信仰心を利用して欺き情報を収集していたが、〈黒い人々〉は、種族によって程度の差こそあれ、人々の三大欲求のひとつである性欲を利用して森に広大な情報網を築きあげていった。それは首長や各部族の族長に首を垂れるよりも、ずっと良い結果を生み出す投資でもあった。
半裸の女性たちが店先に立って男たちに微笑む。その妖艶な表情に魅了され、かれらは思わず足を止める。楽器によって奏でられる陽気な音楽や、女性たちの嬌声が通りに洩れている。それは人々の注目を引くために、意図的にやっていることなのだろう。
植物油を利用する提灯が吊るされていて、赤い紙を透かして見えるぼんやりとした灯りは人々を快楽に誘う。
いやらしい笑みを浮かべた男と半裸の女性を押し退けるようにして、ラファと腕を組んでいた女性は娼館に入っていく。アリエルも客に睨まれながら宿に入ると、趣向を凝らした調度品や、色とりどりの綴織が壁に掛けられている光景に目を奪われる。
二階建ての大きな建物だったが客で混雑していた。あちこちに素肌が透けるほどの薄布を纏った娼婦がいるかと思えば、毛皮が敷かれた横長の腰掛に裸の男娼が横たわっていて、その上で女性が腰を振っている姿が見られた。
娼婦たちは化粧や装飾品で着飾っていたが、アリエルの興味を引く女性はひとりもいなかった。顔に同じ細工をして、同じ表情を浮かべて、同じ匂いを放っていた。青年は彼女たちの職業を差別していなかったし、批判するつもりもなかった。
けれどそこで見られる混沌とした行為は吐き気を催す光景だった。それは彼が若く、異性との関係にある種の幻想を抱いていたからなのかもしれない。
アリエルが周囲の様子を観察している間に、ラファたちは混み合っている広間を通って階下に向かう。ひとり残されたアリエルは、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて咽返るような男女の臭いに――汗やら体液が混じり合った生臭い空気に嫌気がさして、広間を離れることにした。
アリエルは小さな部屋を見つけると、人がいないことを確認してから、念話を使ってルズィと連絡を取ろうとした。そこで青年は運命に出会うことになった。
不機嫌な表情で部屋に入ってきた若い女性は、そこにアリエルがいることに気がついていなかったのか、明滅する眸で広間を睨みながら悪態をついた。ツノは確認できなかったが若い土鬼に見えた。人間の男性から見ても背が高いアリエルとほぼ同じ身長で、上等な着物で隠れていたが、それでも魅力的な身体をしていることが分かった。
と、そこでアリエルは女性に見つめられていることに気がついた。しかし気づくのが遅すぎた。彼女から視線を逸らすことが却って不自然になってしまい、そのまま彼女と見つめ合うことになってしまった。
艶のある黒髪は肩の辺りで綺麗に揃えられ、前髪も額と眉を隠すように真直ぐに切り揃えられていて、大きな瞳は琥珀色に発光していた。幼さを残すおかっぱ頭の少女にも見えたが、その整い過ぎた顔はすでに大人の女性の魅力を放っていた。
彼女に魅了されてしまったことに気恥ずかしさを感じると、アリエルは軽く会釈してごまかそうとした。すると彼女も会釈を返した。そのまま視線を外せば、それで終わるはずだった。彼女はアリエルに視線を向けることなく、しばらくその場に留まり、やがてふらりと何処かに行ってしまうだろう。
そのあともふたりは村の何処かで会うことがあるかもしれないし、会わないかもしれない。たとえ何処かで再会しても、今回のような気まずいことにならないように、お互いを避けるかもしれない。そして時折、この不思議な出会いのことを思い出す。彼女は自分の特別な人になっていたのかもしれない、と。それだけのことだった。
しかし、そうはならなかった。彼女にとっても、アリエルは宿命の相手だったのだから。
彼女は瞳を明滅させながらアリエルに向かって真直ぐ歩いた。その迫力に圧倒されたのか、青年は思わず後退り、すぐ背後に置かれていた椅子に座ってしまう。困惑しているアリエルとは対照的に、彼女はゾッとするほど綺麗な顔を青年に近づける。
「ねぇ、私たち、前にも何処かで会ってるよね」
彼女の言葉にアリエルは眉をしかめて、すぐに否定しようとした。けれど、奇妙な既視感に襲われ、思わず言葉を失ってしまう。
「わたしはあなたのことを知っている。そして、そう遠くない未来に、わたしはあなたに恋をする」
彼女は着物の裾をまくり上げると、青年の膝の上に跨り身体を密着させ、唇が触れる距離で言った。
「教えて、あなたは誰なの。どうしてこうも私の心を乱すの?」
興奮して身体が火照り、汗が胸の谷間を伝って流れていくのを彼女は感じた。今はその小さな刺激すら煩わしく思えた。彼女の眸はパチパチと発光し、真っ赤に染まったかと思うと、次の瞬間には淡い赤紫色に変化する。
アリエルは彼女から漂う甘い蜜の匂いにクラクラしながら、なんとか顔を離す。しかし彼女のやわらかな乳房を押し付けられたことで、身体の感覚が敏感になっていることに気がついた。青年は今まで経験したことのない感情によって、感覚の焦点がぼやけ、どうすればいいのか分からなくなってしまう。
このまま感情に任せ、彼女を抱きしめる選択もあった。しかしふたりの出会いが運命づけられていたように、ふたりのための時間は別の日に用意されていた。
ふらりと友人を探していたルズィは何となく薄暗い部屋に入ると、綺麗な女性に抱き着かれているアリエルの姿を見つける。
「えっと……」彼は戸惑い、その場に相応しい軽口を探したが見つからなかった。
「お邪魔だったかな……?」
女性は真っ赤に発光させた眸でルズィを睨んだあと、アリエルの膝の上に跨っていることに気がついて、恥ずかしそうに慌てて立ち上がった。
「あなたは?」
彼女は咄嗟にそう言うと、赤くなった顔を隠すように俯く。
「しがない守人だ。友人に大切な用事があるんだけど、そいつを借りても――」
彼が言い終わる前に彼女は部屋を出ていった。