表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 後編
343/500

40


 敵司令官がどれほど優れた戦術手腕を持つ人物だったのか、ふたりには知る由もなかったが、一軍を率いていた人物を失ったことで、少なくとも敵の指揮系統に大きな混乱が生じるはずだった。それが砦に対する進攻にどのような影響を及ぼすのかは未知数だったが、この暗殺が無駄ではなかったと信じたかった。


「……少しでも敵の足止めになればいいんだが」

 アリエルはそう口にしたものの、それは希望的観測でしかなかった。


 戦場はいつだって不確実性に満ちていて、〈爬人〉の暗殺によって敵にどれほどの損害を与えられるのかは、時間が過ぎ、その時がくるまでは分からない。いずれにせよ、ふたりは足早に敵陣から離れていく。もはや、この場所でできることは何もなかった。


 本来なら、砦にいるルズィに暗殺の成功を伝えるべきだったが、それはできなかった。すでに司令官の暗殺が露見してしまっている以上、敵は警戒を強め、陣地に侵入した者を捕らえるために周辺をくまなく捜索しているだろう。


 その性質上〈念話〉の使用は、他の呪術よりも感知される危険性があった。呪素の流れを感知できる呪術師や、それに相当する機能を持つ呪術器を所持している可能性は高く、下手に〈念話〉を使えば追っ手を呼び寄せるかもしれない。必要な情報を伝える手段が限られている状況にアリエルは歯痒さを覚えつつも、その考えを振り払い移動に集中した。


 ふたりは黙々と森の中を進んでいく。木々の間に冷たい風が吹き付ける音だけが耳に届き、乾いた枝葉が足元で微かな音を立てる。それ以外はひどく静かだった。けれどその静けさは決して安堵をもたらすものではなく、むしろ緊張感をさらに煽るように感じられた。


 シェンメイは一言も発さず、ただアリエルのあとを追うように歩いていた。その顔は蒼白で、疲労と緊張が刻み込まれているようだったが、それでも彼女は足を止めようとしなかった。


 大きな問題もなく森の中を移動していたが、ふたりの頭には追っ手の影がちらついていた。規律に乱れが生じていたかもしれないが、それでも複数の指揮官で統率された軍隊であり、そのなかには追跡に長けた兵士や訓練された斥候が所属しているはずだった。


 すでに複数の巡回部隊が展開している状況では、追跡者たちの優位性は高い。葉の擦れる音や、足元の微かな変化すら追跡者の手がかりになりうる。アリエルは細心の注意を払いながら進み、時折立ち止まっては周囲の物音に耳を澄ませた。


「……静かすぎる」


 心の中で警鐘が鳴る。敵がどこまで迫ってきているのか分からない以上、一瞬の油断が命取りになることは分かっていたが、つねに緊張を強いられる状況は精神的な消耗も激しくなってくる。


 そのなかで、ふたりはできる限り音を立てないよう、木々の陰を縫うように進んだ。呼吸音にさえ気をつかい、まるで〝影のように〟森のなかを移動する。〈獣の森〉の深みに侵入するにつれて、冷たい風が頬を刺すようになり、空気はより濃い瘴気を帯びていく。


 木漏れ日すら届かない暗がりのなか、ふたりは警戒を強めながら、森の奥深くに足を進めていく。張り詰めたような緊張感のなか、森全体を包み込む重い気配が漂い始めた。


 それはただの空気の変化ではなく、肌を刺すような強烈な呪力の流れだった。アリエルは立ち止まり、額に滲む汗を拭いながら周囲の気配を探る。明らかに誰かが強力な呪術を行使している。その呪力の振動が――波紋のように断続的に広がり、森の奥深くまで侵食しているのが感じられる。


 ふたりの気配を探る大規模な呪術だけでなく、〈念話〉を使って他の陣地と連絡を取り合っているのかもしれない。そのなかには、進攻部隊や斥候たちに細かい指示を出している者もいるだろう。この動きの速さから見ても、すでに暗殺者の存在は広く知れ渡っているに違いない。


 そしてその直感は確信に変わる。

「待って……すぐに確認する」


 シェンメイは瞼を閉じ、慎重に呪素を操作していく。周囲に感知されないよう細心の注意を払いながら、眼球に呪力を送り込む。それは彼女の視覚を補助し、周囲の呪力の流れや生命の痕跡を視覚化していく。


 薄闇のなか、木々を透かすようにして不自然な輪郭が浮かび上がる。前方から、いくつもの輪郭が接近してくる。濃密な呪素を持つ存在が三つ、そしてその周囲を取り囲むように淡い輪郭が八つほど確認できた。高度な訓練を受けた兵士か、あるいは呪術師が所属する攻撃部隊だろう。


「数が多い……」

 シェンメイは舌打ちする。奇襲を仕掛ければ勝機はあるかもしれないが、その後の逃走に影響が出る可能性が高い。


「ここは、隠れて敵をやりすごそう」


 アリエルの言葉に彼女は小さくうなずくと、周囲に立ち込める濃い瘴気の流れを隠れ蓑にして、呪素を操作し幻惑の呪術〈隠密〉を発動させた。


 すると黒い(もや)が足元から立ち昇り、ふたりの身体を包み込むようにして覆い隠していく。それはやがて不可視の覆い布のように変わり、ふたりの存在感を周囲から消し去っていく。そのまま巨木の根元にできた(うろ)に入っていくと、音を立てないよう慎重に身を隠した。狭い場所は腐葉土の臭いが充満していたが、構っていられなかった。


 身を隠すと〈昆虫避けの護符〉の効果に反応したのか、それまで暗がりに潜んでいた昆虫や、巣穴で獲物を待ち構えていたムカデや蜘蛛が不満げに出ていくのが見えた。


 間もなく、木々の間から低い話し声と枯れ葉を踏む音が聞こえてきた。揃いの革鎧を身にまとい、頭巾を目深に被った兵士たちが視界に入る。装備や身のこなしからして、かつて狩人として生計を立てていた者たちだと推測できた。彼らは斧や短弓を手にし、森の痕跡を注意深く探っていた。


「くそ忌々しい卑怯者が……逃げ足だけは速いみたいだ」


 兵士たちのひとりが小声でつぶやいた。彼のとなりには、首輪をつけた大型犬が鼻を鳴らし、地面を嗅ぎ回っている。その様子にアリエルは冷や汗を浮かべた。〈隠密〉の効果がなければ、すでに見つかっていたかもしれない。


 アリエルにぴったりと身体をくっつけていたシェンメイは瞼を閉じ、呪力の操作に集中していた。彼女は幻惑の呪術に長けているだけでなく、その緻密な制御によって敵兵の目を欺いていた。犬も時折、アリエルたちが身を潜めている巨木に向かって鼻を鳴らすが、とくに異常を感じ取る様子はない。


 それでも緊張は続いた。敵陣に侵入するさい、彼女は〈擬態〉を使用するため身体中に血液を塗りたくっていて、今では吐き気を催す臭いを発していた。アリエルも戦闘で返り血を浴びていたので彼女を批判することはできなかったが、とにかく嫌な時間が流れる。


 兵士のひとりが近づいてきたとき、ふたりは息を止めた。足音が洞のすぐ近くで止まる。兵士が地面の痕跡を調べるため、その場に膝をついてじっくりと観察しているのが見えた。手が届く距離だ。わずかな呼吸音や衣擦れの音ですら、彼を警戒させる危険があった。


 数秒が永遠にも思える時間が過ぎたあと、一行の隊長らしき人物が「移動する。ここにはいない」と短く口にした。それを合図に、兵士たちは暗殺者の痕跡を求めて移動を開始する。


 足音が遠ざかり完全に敵の気配が消えるまで、ふたりはその場を動けなかった。ようやく緊張が解けた瞬間、アリエルはそっと息を吐き出した。洞内の空気は依然として重く、冷たかったが、敵がいなくなったことでほんのわずかに安堵の色が広がった。


「……さぁ、すぐに立って。別の追跡者が近くまで来てるかもしれない」

 シェンメイの声には疲れが滲んでいた。


 そのまま〈隠密〉の効果を維持しながら移動するべきだったが、それはあくまでも身を隠す手段であり、素早い移動には適さなかった。だからしばらくの間、緊張を強いられる移動は続くことになる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
犬に匂いでバレないのかな? 検疫犬水準の優秀さとまでいわずとも気づかないのは、ちょっと認識阻害でもかかってるのかと シェンメイが血を操って身綺麗に出来ないものか 毒物混入は敵もやってるんでしょうか?…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ