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敵本陣の出入り口が見えてくると、アリエルは自然な仕草で首巻を引き上げて口許を覆い隠した。冷たい風を防ぐためのようにも見えたが、実際は顔の細部を隠すためだ。殺した斥候の姿に変装していたが、敵に見破られる可能性は捨てきれない。
数人の見張りが立つ出入り口は驚くほど混雑していた。荷運びのために連れてこられたヤァカが低い唸り声を上げながら動き回り、その背には木箱や袋が山積みにされている。蛮族や傭兵たちがそれらの物資を忙しなく運び、指示役の兵士が声を荒げている。周囲は雑然としていて、その混乱がアリエルたちの姿を溶け込ませている。
広大な空間を確保するため、木々を大胆に切り倒していた。あちこちに切り株が点在し、土はまだ柔らかく湿気を帯びている。天幕は整然と並んでいるわけではなく、大小さまざまの布が無秩序に張られていた。これほど大規模な陣地を素早く構築できたのは、建設隊のように地形操作に精通した呪術師がいるからなのだろう。
焚き火の近くには兵士たちが集まっていて武器を磨いたり、談笑したりしている様子が見て取れる。その多くは正規の兵士なのだろう。蛮族や傭兵たちと異なり、装備に統一性が見られる。
アリエルは周囲に警戒しながら歩き、シェンメイとともに出入り口に近づく。すると見張りの兵士のひとりが手をあげて合図を送り、ふたりを呼び止めた。その兵士は艶のある革鎧を身につけ、長槍を片手に持ちながら、もう片方の手でアリエルたちを手招きした。
兵士は顔をしかめたあと、訛りの強い共通語でいくつかの質問を投げかけた。あまりにも早口で、言葉の意味を完全に汲み取るのは困難だった。アリエルは適当な相槌を打っていたが、斥候に〈擬態〉したシェンメイが前に出て対応した。彼女は落ち着いた声で、巡回部隊の一員であり、糧食が底をついたため戻ってきたと説明する。
見張りは疑わしげにふたりを見ながら、疑わしげな声でさらに問いかける。
「部隊章だ、すぐ見せろ!」
その乱暴な言葉に反応して、すぐ近くに立っていた兵士もこちらに疑いの視線を向ける。気の抜けない空気が漂い、アリエルは冷たい緊張感を覚えた。しかしシェンメイは表情を変えず、ゆっくりと部隊章を取り出して見張りの兵士に差し出した。
その部隊章は敵の斥候から奪ったもので、血と泥にまみれていたが、その汚れが却って本物らしく見せていた。
見張りの兵士は鋭い目つきでじっくりと部隊章を観察する。その視線には警戒心と疑念が混じり、本物であるかどうか確かめようとする意図が明確に読み取れた。それから兵士は、何かしらの呪術をつかって部隊章の所有者を確認しようとする。
ほとんど聞き取れない小声で呪文を口にすると、指先から微かな光が滲み出る。アリエルは嫌な汗をかく。このままでは偽装が露見するのは時間の問題だった。自分たちの正体を暴かれる瞬間を想像し、自然と腰に差していた短刀に手が伸びていく。冷たく硬い柄の感触が指に伝わり、緊張がさらに高まる。
と、その時だった。別の兵士の怒鳴り声が響いた。
「おい、なにしてる! こっち、人手、足りない!」
兵士は木箱を肩に担ぎながら、苛立たしげな顔で見張りの兵士を睨みつける。
「そいつら、解放しろ! こっち、手伝いほしい、すぐ来る!」
怒声を浴びせられた見張りの兵士は、ウンザリした顔で舌打ちをしてみせたが、上からの命令には逆らえないのか、渋々部隊章をシェンメイに返した。
「お前ら邪魔だ、さっさと行け」
短い言葉を残し、通行を許可する合図を送る。
アリエルは冷静を装って礼を述べたあと、シェンメイとともに自然な動きで本陣の中に足を進めた。周囲に注意を払いながらも、歩調を変えない。何も異常がないように振る舞うことが重要だった。
そこに先ほどの兵士が歩み寄り、大きな木箱を指差して命じる。
「その箱、炊事場、運べ。すぐ追加物資、必要。分かったら行く、寄り道ダメ、いいな。まっすぐ、炊事場、行け!」
片言の声には苛立ちが含まれていたが、指示は単純明快だった。アリエルは素直に木箱を両手で持ち上げた。それは予想以上に重く、箱の中に肉や穀物、それに調理用の器具が詰め込まれているように思えた。
炊事場に向かう途中、本陣の様子を目の端で観察する。大小さまざまな天幕が並び、あちこちに見張り櫓が立ち、本陣を囲む柵の外では犬を連れた兵士たちが巡回している様子が確認できた。
野戦食堂とも呼べる規模の炊事場の周囲では、多くの兵士たちが頻繁に行き来していて、篝火の煙が空に向かってゆっくり立ち昇っていた。嗅ぎ慣れた匂い――焦げた脂、煮沸中の汁物、そして湿った土の香りが混ざり合いながら青年の鼻を突く。
指定された場所に荷物を下ろすと、アリエルは素早く周囲の様子を確認した。炊事場では炊事班の人間が次々と食材を大鍋に放り込み、火を絶やさないように薪を足している。油断している様子はないが、彼らの動きには規則性があり、わずかな隙があることが分かった。
アリエルはさりげなく腰を屈めると、〈収納空間〉から小さな黒い瓶を取り出した。瓶の中は森で採取した植物から抽出した毒で満たされている。神経毒の一種で、色は透明で、一見するとただの水にしか見えない。狩りのさいに使用されるものだが、炊事場の大鍋に入れることにした。
薄まってしまうので嫌がらせ程度の効果しか期待できないが、戦闘に参加する兵士の数を少しでも減らせれば充分だ。
周囲の視線を意識しながら、ゆっくりと大鍋の縁に近づく。そして炊事班のひとりが大鍋をかき混ぜるために背を向けた瞬間を狙い、瓶の中身を一気に流し込む。毒水は無色透明で湯気に紛れ、一切の痕跡を残さなかった。
「おい、追加の肉汁はまだなのか!」
近くの兵士が苛立ちの声を上げ、炊事班が慌てて別の鍋に取りかかる。その間にアリエルは音もなくその場をあとにした。毒がどれほどの効果を発揮するかは未知数だが、少しでも混乱が生じれば儲けものだった。
呆れ顔を見せるシェンメイと合流したあと、天幕の間を抜けながら暗殺対象を探した。けれど天幕はどれも同じような状態で、司令官らしき人物がどこにいるか見当もつかない。これだけ広大な陣地だ。標的を見つけるのにも苦労するだろう。
呪術で鳥の視界を借りて上空から状況を把握する考えが頭をよぎった。しかし本陣のど真ん中で目立つような行動を取るわけにはいかない。奇妙な呪素の流れが敵の目にとまれば、任務の失敗に繋がるかもしれない。
と、その時だった。どこからともなく怒鳴り声が聞こえてきた。アリエルは目を細め、声が聞こえた方角を確認する。周囲の兵士たちもその方向に目を向け、ざわついている。
兵士たちに雑じって声が聞こえた場所に向かうことにした。すると、武器を持たない部族民が手足を縛られた状態で整列させられているのが見えた。彼らは膝をついて、うなだれた姿勢のまま声ひとつ上げない。部族民たちの前には黒い装束をまとった呪術師と、剣や槍で武装した兵士たちが威圧的に立ち並んでいる。
「協力、拒む! お前たち、悪い!」
兵士のひとりが訛りの強い共通語で叫ぶ。その言葉に部族民たちはわずかに震えたが、依然として抵抗の意志を見せない。
呪術師は一歩前に進みでると、手に持った杖の先端を部族民に向ける。すると淡い光が灯り、しだいに炎に変わっていく。
「すぐ、はじめる!」
兵士のひとりが指示すると、呪術師は杖を振りかざした。つぎの瞬間、燃え盛る炎が放たれ、列をなす部族民たちを襲った。轟音とともに炎が燃え広がり、悲鳴を上げながら部族民たちは炎に包まれていく。
アリエルは怒りにも似た感情を抱きながら、無抵抗の部族民が処刑されていく光景を見つめていたが、標的の居場所すら掴めていない状況ではどうすることもできなかった。




