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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 後編
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33〈任務〉


 アリエルとシェンメイに与えられた任務は、まず敵の本陣に潜入すること。そして本陣にいると思われる司令官、あるいはそれに準ずる者を暗殺する。最後に、敵に発見される前に離脱して砦に戻る。言葉にすれば単純なものだった。


 けれど実際に任務を遂行するとなれば、それは命綱を切られた状態で綱渡りをするようなものだった。足を踏み外せば確実に死が待っている。敵の司令官を討ち、混乱を引き起こし、その最中に生還しなければならない――それは、これまでに体験したどんな任務よりも危険を(はら)んでいた。


 森を進む二人の足音は、互いに呼吸を合わせたかのように一定だった。シェンメイは常時〈気配察知〉を使いながら、周囲の気配を探るように移動していた。日が昇ったばかりの森は朝霧に包まれ、ぼんやりとした白い(もや)が漂っている。


 唯一の救いは、雪が降っていないことだった。足跡を残すようなことになってしまえば、たちまち敵の斥候に見つかるだろう。


 吹き荒ぶ冷たい風が木々の枝葉を激しく揺らし、まるで生き物のように騒めいている。あちこちから聞こえてくる鳥の甲高い鳴き声も、今は耳障りに感じられた。敵が仕掛けた罠や斥候の痕跡を見逃さないように、細心の注意を払いながら移動を続ける。


「気をつけて」と、シェンメイが囁く。

 彼女は薄暗い木立の間を見つめている。その視線の先には何もないように見えたが、〈気配察知〉を使っていた彼女の目には何かが映っているのだろう。


 森の奥から吹き抜ける寒風が、唸りを上げてアリエルたちの身体にまとわりつく。その風のなかに微かな異臭が混じっていることに気がつく。それは、ただの腐葉土の香りではなく、動物の――あるいは人の肉体が腐敗していくような生臭さを含んでいた。


「ここから先は、もっと慎重に動かないといけないみたい」

 彼女の言葉にアリエルはうなずくと、深い森の中に目を凝らす。


 濃い霧と複雑に入り組んだ木立が視界を遮り、敵の痕跡を消し去っていくように感じられた。それでも今は前に進むしかない。本陣に近づけば、確実に敵の斥候に遭遇することになるだろう。そのときには、こちらの存在を悟られることなく迅速に排除しなければいけない。


〈消音〉の呪術で足音を消し去りながら、森の奥深くへと進む。枝葉が擦れる音と、ふたりの浅い呼吸音だけが妙に大きく感じられた。


 川の近くまでやってくると、複数の低い滝が階段状に連なるようにして流れる場所が見えてくる。その高低差のある地形のなか、苦労しながら進む敵の斥候の姿が確認できた。黒装束に身を包んだ軽装の戦士たちで、険しい岩場を慎重に進みながら警戒心を全身にまとわせていた。


 滝の騒音の所為(せい)でもあるのかもしれないが、我々の存在に気づいている気配は感じられない。アリエルが腰に差していた短刀に手を伸ばすと、シェンメイは眉を寄せながら頭を横に振る。どうやら彼女ひとりで敵を排除するようだ。


 シェンメイが黒オオカミの毛皮を脱ぐと、肌が透けるほどの薄布から刺青が微かに発光しているのが見えた。そのまま彼女から毛皮を受け取ると、シェンメイは身を低くしながら斥候に近づく。


 川沿いの湿った空気に混じる滝の轟音が、彼女の動きを隠すかのように周囲を包み込んでいく。アリエルが息を潜めて背後から見守るなか、彼女はしなやかに進む。その動きは驚くほど軽やかで、落ち葉の上を滑るように進む彼女の動きは、音もなく揺れ動く木々の影のようにも見えた。


 彼女が目を閉じて、わずかに手を動かすと、周囲の空気が微かに歪むのが見えた。幻惑の呪術〈盲目〉と〈隠蔽〉を組み合わせた高度な術を発動したようだ。斥候の周囲に濃密な霧が漂い始める。それは視界だけでなく、感覚そのものを鈍らせていく。


 シェンメイの存在に気がついていないのだろう。戦士たちは互いに眉をひそめ、戸惑いの表情を見せていたが、その間に彼女は音もなく接近していく。


 そして短刀を手に斥候の背後から接近すると、喉元を容赦なく斬り裂いていく。刃が閃くたびに、敵は沈黙のなかで倒れていく。斬られた喉からは血が吹き出すが、滝の水しぶきがそれを覆い隠していく。彼女は崩れ落ちていく敵の身体をそっと岩陰に滑らせ、次の標的に向かう。


 鮮やかな手際で二人目、三人目と敵を始末していく。喉を裂かれた敵が崩れ落ちるたび、斥候たちは異変に気づくものの、すでに彼女は別の位置に移動しているため、幽霊を相手にしているような混乱が広がるばかりだった。


 ついに最後のひとりに接近すると、足元の細かい石を蹴り上げる。その音に反応して敵が振り向くと、すかさず喉元に刃を突き入れる。致命傷を受けた敵は抵抗することもできず、その場に崩れ落ちる。彼女の動きには一切の無駄がなかった。


 それからシェンメイは川のそばでしゃがみ込むと、手についた血を静かに洗い流す。そして目を伏せて深く息を吸い、呪術によって生じた瘴気の残滓を払うと、アリエルを見ながら軽く顎をしゃくる。


「終わったよ。死体を隠すのを手伝って」

 青年は呆気に取られていたが、彼女の言葉にうなずく。


 横たわっていた斥候たちの死体を、ひとりずつ木々の根元や(うろ)に隠していく。地面は湿気を含んでいて柔らかく、埋めるのには適していなかったが、落ち葉が死体を隠すのに役立ってくれた。深い穴の中に死体を放り込むと、泥や落ち葉を使って死体を隠していく。


 森を徘徊する獣に掘り返される可能性は充分にあったが、敵の本陣に潜入するまでの間、斥候の目から隠し通せれば良かったので気にしないことにした。その作業の間も、アリエルは常に周囲を警戒していた。


「これで充分ね」

 彼女が小声で告げると、アリエルもうなずく。ぐずぐずしていたら、別の部隊に発見されてしまう可能性があった。


 ふたりは身体にまとわりつく湿った空気を感じながら、すぐに移動を開始した。川幅はそれほど広くないが、冷たい水が勢いよく流れている。シェンメイが川に入っていくと、アリエルもその後を追った。滑りやすくなっている岩場に注意しながら慎重に渡り切ると、再び深い森に足を踏み入れる。


 それから何度か敵の斥候と遭遇したが、すべてに対応するわけにはいかなかった。必要最低限の相手だけを排除し、それ以外は茂みのなかを()うようにして、見つからないようにやり過ごす。シェンメイは隠密行動を得意としていて、余計な戦闘を避ける術を熟知しているようだった。


 木々の隙間から差し込む光が強くなり、遠くから兵士たちの喧騒が耳に届くようになる。敵の本陣が近いのだろう。日が高くなるころ、目の前の地形が変化していくのが分かった。そして切り倒された木々の向こうに、敵の本陣が確認できるようになった。


 アリエルたちは周囲の状況をじっくりと観察していく。あちこちに見張り(やぐら)が立ち、周囲の森を見渡せるように配置されている。兵士たちは次々と指示を受け、物資を運び込みながら忙しなく動き回っている。一方で、何もないように見える空白地帯も存在していた。罠や呪術的な結界が仕掛けられているのかもしれない。


 ふたりは潜入のための準備を開始する。シェンメイは敵の斥候から入手していた血液を首筋や頬、全身に塗りたくるようにして伸ばし、それから静かに呪文を唱える。彼女の言葉が空気を震わせていくと、血液の膜が彼女の全身に広がり、姿が変化していくのが見えた。


 血に宿る能力と幻惑の呪術を組み合わせた〈擬態〉で、その姿を完全に偽る。身体の輪郭がぼやけ、徐々に黒装束を纏った敵斥候の姿に変わっていく。髪の色や背丈さえも変化し、手足の形状まで変化した。


 アリエルも〈収納空間〉から小箱を取り出す。その小箱に呪力を注ぎ込むと、表面に淡い光の模様を走り、箱の蓋がゆっくりと開いた。そこから漏れ出した薄い霧は生き物のように漂いながら、彼の身体を包み込むように動き出した。


 それが顔や手足にまで及ぶと、彼の輪郭が揺らぎ始める。霧は幻影のような膜を作り、アリエルの身体を包み込むにつれ、彼の姿を別の誰かのものに変えていく。この〈呪術器〉の効果は完全ではないものの、遠目には敵の兵士と区別がつかないだろう。潜入の準備が整うと、ふたりは動き出した。

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