30〈絵画〉
適切に効果を発揮できる設置場所を見つけるため、照月來凪の特殊能力〈千里眼〉を頼ることにした。そこでいくつかの塔が候補にあがる。砦で最も高い塔でもある〝総帥の塔〟も候補に入っていたが、より砦の中心に立つ塔が適していると彼女は言う。
彼女の目に見えている景色は他の人と異なるので、常人には理解できないモノがあるのだろう。アリエルは彼女の言葉を信じることにした。
その塔は人気のない寂しげな場所に立っていて、砦を防衛するため忙しく働いている者たちの声も聞こえてこない。螺旋階段は半ば崩れていて危険な場所になっていた。塔の中は冷え切った空気が重く垂れ込め、湿った石のニオイが漂っていた。
アリエルが手にしていた角灯の光は、かろうじて周囲を照らし出すだけで、塔の暗闇の奥深さが際立って感じられる。天井から垂れ下がった蜘蛛の巣が灯りに照らされ、微かに震えるのが見えた。蜘蛛を驚かせたのかもしれない。
頂上に続く螺旋階段をゆっくりと進むが、階段の一部は崩れていて、足元が不安定になっていた。踏み外せば転落の危険があるため、慎重に足の踏み場を選ぶ必要があった。その静寂を破るのは、ふたりの足音と、微かに聞こえる衣擦れの音だけだった。
そんな暗闇のなか、ふと彼女が足を止める。角灯のぼんやりとした灯りが彼女の綺麗な顔立ちを浮かび上がらせていたが、いつもより少しばかり疲れた表情に見えた。アリエルが敵拠点を襲撃している間も、彼女は砦を守るために、その能力を使い続けていたのかもしれない。
「ねぇ、アリエル。少し手を貸してもらっていいかな」
彼女の声は硬く、どこかためらいを感じさせた。彼女の血に宿る特殊な能力〈千里眼〉は遠くまで――目に見えないモノまで捉えることができたが、その代償として視覚に大きな負担をかけるのかもしれない。
目を酷使したことによる疲れと、急に暗い塔内に入ったことで視界がぼやけてしまっているのだろう。
「ごめん。突然、変なこと言って」
普段の毅然とした態度とは異なり、少しばかり頬を赤らめて口を閉ざしてしまう。その固い表情に、彼女が頼みごとをためらっている様子が垣間見えた。
アリエルは軽く微笑んだあと、彼女の手をしっかりと握る。その温かさが暗闇の中で心強く感じられたのか、彼女はホッとしたように息をついた。
あるいは、その場所にいるはずのないモノが見ていたのかもしれない。ふたりは手をつないだあと、再び暗闇のなかを歩き出す。
アリエルは少し先を歩いて、彼女が足を踏み外さないよう慎重に彼女を導いた。角灯の明かりが壁に影を落とし、不気味な雰囲気を醸し出すなか、彼女の手の冷たさが伝わってくる。
塔の中は年月の経過を感じさせる荒廃に包まれていた。壁や天井には蜘蛛の巣が張りめぐらされ、かつて物資が詰まっていた木箱があちこちに積み上げられているが、すっかり空っぽになっていた。ホコリをかぶったそれらの箱は、誰にも気にかけられることなく、ただ時の流れのなかで朽ち果てようとしていた。
ある程度の高さまで到達すると、壁の一部が内側に向かって崩れ、瓦礫が散乱している場所にたどり着く。崩れた壁から冷たい風が吹き込んでいて、塔の中に外の空気を無理やりねじ込むような、奇妙な感じがしていた。
その冷風に頬を刺されると、アリエルは一瞬身震いをする。彼女も同様に顔をしかめながら、何かを感じ取ろうとして目を閉じ、再び〈千里眼〉を発動した。
石に近きものによって調整されている〈聖女の干し首〉を設置する場所は、瘴気がなく、大気中の呪素がとどまることなく自然に流れ続ける場所が理想的だった。〝神域〟と言えるような場所があればよかったのだが、残念ながら混沌に侵食された〈獣の森〉では、砦の礼拝堂すら聖域にはなり得なかった。
照月來凪は意識を集中させ、塔全体の呪素の流れをその目で見ながら、淀みのない場所を見定めていく。彼女が瞼を閉じて、そっと顎を引くと、眉を隠すように真直ぐに切り揃えられていた黒く艶のある髪が揺れる。
「見つけた」
彼女が顔をあげると、アリエルも彼女の視線を追うように暗闇を見つめた。
螺旋階段を上がると広い踊り場にたどり着いた。すると壁に一枚の大きな絵が飾られているのが見えた。
その絵は歳月の中で微かに色褪せながらも、不思議な迫力が感じられた。そこに描かれていたのは龍の死骸にすがりつき、泣き崩れるひとりの女性だった。彼女の表情には深い悲しみと虚無が刻まれている。荒々しい筆致でありながら、どこか荘厳な美しさを感じさせる絵だった。
アリエルはその絵に魅了され、目を離すことができなかった。まるで自分のことのように、彼女の深い悲しみを感じることができた。その絵には古の神々の言葉でこう刻まれている。
『おまえは長いこと、裏切り者として人々に記憶されるだろう』と。
盲いた女性は、かつて神々の命を受けて数々の戦いに身を投じ、その全てを捧げた使徒だったのだろう。けれど最後には、彼女が愛した龍さえも奪われた。彼女が手にするはずだった栄誉は、悲劇と裏切りの烙印に変わった。
この絵には、彼女の絶望と苦しみ、そして壮絶な戦いの中で神に捧げた犠牲と憎しみが永遠に封じ込められているように見えた。
アリエルはその場に立ち尽くし、微かな冷気とともに、塔の中で忘れ去られていた女性の悲哀を感じた。理由は分からなかったが、幼いころから、その絵に心惹かれるのを感じていた。だから砦の書庫で絵画に関する記録を見つけたときのことは、今も忘れていなかった。
照月來凪は一瞬、絵画の前に座り込む子どもの姿を見たような気がした。けれど次の瞬間、ソレはアリエルの姿に変わっていた。
きっと〈千里眼〉が見せた幻なのだろうと彼女は考えた。けれど幼い子どもの後ろ姿から感じた深い悲しみは、彼女の心に奇妙な感情を浮かび上がらせた。
でも彼女には、その気持ちを言語化することができなかった。
ただ怒ったような――今にも泣き出しそうな表情を見せたあと、ぎゅっと瞼を閉じて、その奇妙な衝動が通り過ぎるのを待った。
やがて、はじめから何事もなかったかのように、気持ちが軽くなっていくのを感じた。瞼を開くと、目の前に絵画が飾られていた。
けれどソレは色褪せていて、何が描かれていたのかも分からなかった。彼女は眉を寄せて訝しんだあと、その絵をじっと見つめていたアリエルの手を取って歩き出す。
彼女はそっと青年の横顔を盗み見たが、彼も奇妙な気持ちに囚われていたのか、眉をひそめるようにして考えに耽っていた。時のなかに置き去りにされた塔に、何かよくないモノが棲みついていたのかもしれない。
塔の頂上が見えてくるが、その場所は完全に崩壊していた。階段も瓦礫に埋もれていて途中で途切れ、先に進むことができなくなっていた。荒々しく崩れた壁と腐った木材の破片が散らばり、崩落した壁からは、寒々しい灰色の曇り空が見えていた。つめたい風が吹き込むたび、壁から垂れ下がる鎖が軋むのが聞こえた。
皮肉なことに、砦のどこよりも空気が澄んでいるように感じられた。ひどい場所だったが、結界を張るのに最も適した場所だった。
アリエルは彼女と協力しながら瓦礫や破損した木材を慎重に取り除き、〈聖女の干し首〉を設置できる空間を確保していく。重い石のひとつひとつを退けるたび、土埃が舞い、石の隙間から昆虫やら蜘蛛が飛び出すのが見えた。
やがて祠を設置するのに適した空間が生まれた。彼女は〈浄化の護符〉を取り出し、その表面に刻まれた呪文を指先でなぞるようにして、静かに呪素を込めていく。やわらかな光を放ち始めると、適切な場所に札を貼り付けていく、すると水の波紋が広がるように、周囲に残されたわずかな瘴気が浄化されていくのが見えた。
薄暗い空間の中に澄んだ空気が流れ込み、瘴気が徐々に霧散していく様子は、どこか神秘的で儀式めいた厳粛さを感じさせた。石で組み上げた小さな祠を中心にして、擬似的な聖域が再現されていく。これで砦を守るための要所が整った。あとは〈聖女の干し首〉を適切に配置するだけよかった。