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戦場に吹く乾いた風が戦士たちの呻き声を攫っていくなか、戦意を失った蛮族たちが暗い森の奥に消えていく。その光景を冷たい眼差して見つめていたアリエルだったが、やがて豹人の姉妹のもとに駆け寄る。
戦闘の間、彼女たちはつねに優勢だったが、その身体には無数の傷が残されていた。艶やかな毛皮はところどころ焦げ、小石や木片の飛散による小さな擦り傷も散見された。けれどその程度の傷で済んだことは奇跡に近いだろう。彼女たちの周囲には倒れた敵の屍が数え切れないほど横たわり、凄惨な戦闘を物語っていた。
アリエルは〈治療の護符〉を取り出すと、ノノの傷口にそっと押し当てた。燃え尽きていく護符から発せられた淡い光が、彼女の傷口を撫でながら癒していくと、冷たい感触が肌に染み渡る。痛みから解放されたからなのか、ノノはそっと息をつく。
もちろん彼女だけでなく、リリの治療にも護符を惜しみなく使っていく。戦闘で消耗した彼女たちが再び立ち上がれるように――それが今、最優先にすべきことだった。
『ありがとう』と、リリはゴロゴロと喉を鳴らす。
彼女の言葉にアリエルもわずかに頬を緩めるが、すぐに気を引き締める。
「ラファ、今のうちに装備の確認をしておこう。すぐに次の戦いに備える必要がある」
あちこちで火災が発生し瘴気と黒煙が立ち込めていたが、血のニオイに誘われた〈混沌の化け物〉がいつ姿をみせてもおかしくないような状況だった。
戦闘後の敵拠点には、化け物の餌になる死体が多く残されていて、そのすべてを処理することは不可能だった。瘴気によって汚染された大地の浄化も、おそらく手をつけることすらできないだろう。
「適当に物資を回収したら、すぐにこの場所から離れよう」
敵拠点に夜襲を仕掛け、かく乱するという任務は果たされていないが、まさか〈クァルムの子ら〉という異質な敵があらわれるとは誰も予想もしていなかった。あの邪悪な種族の参戦は戦局を根底から揺るがすものであり、任務の継続は困難になった。
ルズィと情報を共有するために連絡を取ると、他の敵拠点を攻撃していた古参の守人たちも撤退したことが分かった。おそらく、相当な被害を出してしまったのだろう。もとより困難な任務だったが、状況はさらに悪くなってしまったようだ。
状況を立て直すためにも、砦にいる味方と合流することを選択した。しかしそれも簡単にはいかないだろう。拠点を攻撃された敵が増援を送り込んでいる可能性もある。それに道中で相手にしなければいけないのは、襲撃者たちの追っ手だけでなく、血に引き寄せられた捕食者たちでもあった。
けれど焦っても仕方がない。夜の森は暗く、ありとあらゆる生命を呑み込む。生きて砦までたどり着くためにも、必要な準備をしなければいけない。敵拠点に残された物資をかき集めたあと、〈収納空間〉を使って回収し、それから夜の森に足を踏み入れた。
それなりの量の物資を回収していたが、全員が〈収納庫〉として機能する腕輪を所持していたので、荷物が移動の障害になることもなかった。
燃え盛る敵拠点を離れ森に足を踏み入れると、圧倒的な暗闇が彼らを包み込んでいった。巨木がそびえ立ち、闇はまるで生き物のように目の前で蠢いている。けれど立ち止まっている余裕はない。仲間と視線を交わすと、一行は足音を立てないよう足元に注意を払いながら暗い森を進む。
誰もが暗闇に耳をそばだて、神経を研ぎ澄ませていた。暗がりの中に潜んでいる気配を全員が感じ取っているのだろう。
背後からは、絶えず微かな足音が聞こえてくる。敵の追っ手がすぐ後ろまで迫っているのかもしれない。加えて、戦場に流れた血の臭いが森に漂い始め、深い闇の中に潜む捕食者たちを誘い出している。
空気が張り詰めるなか、枝を踏み抜く音や草をかき分ける微かな音が聞こえ、緊張が全身を駆け抜けていく。目に見えなくても、すぐそばに何かがいることが分かる。
呼吸を静めながら深い森の中を進んでいく。暗闇を意識すると、まるでソレ自体が一個の生命を持ったかのように、こちらを見つめてくるような気がする。少しでも隙を見せれば、ソレは恐怖となって喉元に食い込む。だから気を抜くことなく、この闇のなかを移動しなければいけない、生きて砦に帰るためにも。
どこからともなく矢が飛んできたのは、背後から迫る捕食者に気を取られていたときだった。鋭い風切り音が聞こえると、瞬時に〈矢避けの護符〉が効果を発揮し、矢の軌道がそれていく。
この暗闇のなかでも射手たちの狙いは正確だったが、さすがに風の障壁を突破することはできなかった。いくつかの矢が地面に突き刺さり、暗闇に潜む敵が動き出す。
木々の間から武装した集団が飛び出してくる。鋭い眼光でアリエルたちを睨むと、彼らは一斉に抜刀し、沈黙したまま駆け寄ってくる。敵が近づくにつれ、その装備がハッキリと見えるようになる。
簡素だがしっかりした造りの革の胸当てや鈍い鎖帷子をまとっている。その姿から、彼らが単なる蛮族ではなく、訓練された正規兵であることが分かる。複数の拠点が同時に襲撃されたことで、敵本隊が重い腰をあげたのかもしれない。
アリエルは瞬時に状況を見極めると、体内で練り上げていた呪素を一気に解き放つ。目の前の空間が淀み、熱を帯びながら膨張したかと思うと、つぎの瞬間には凄まじい衝撃波が放たれていた。
雷鳴を思わせる轟音が響き渡り、数人の敵兵が吹き飛ばされる。彼らの身体が空中で弧を描き、地面や樹木の幹に叩きつけられていく光景が見えた。
だが、その混乱の中でも前進する影が見えた。屈強な兵士が大楯を構え、歯を食いしばりながら突き進んでくる。衝撃波の直撃を受けながらも、彼は足を止めずに一直線にこちらに向かってくる。楯の表面は無数の傷で埋め尽くされていたが、鉄板で補強されていて、その頑丈さが一目で分かる代物だ。
楯を突き出しながら突進してくる姿には圧倒されるものがあったが、呪術を警戒するあまり、足元の守りが疎かになっていた。アリエルは狙い澄ましたように敵の脛に手裏剣を打つ。
脛当てを身につけていたが、衝撃で体勢が崩れ、兵士は前のめりに倒れる。すぐに止めを刺そうとするが、そこに別の兵士が飛び込んでくる。
暗闇に潜んでいたのだろう、ひとり、またひとりと兵士たちが姿をあらわして一斉に攻撃を仕掛けてくる。嫌な緊迫感が全身を駆けめぐるなか、アリエルはすぐに身構えるが、そこにラファが放った矢が飛んできて次々と敵に突き刺さっていく。
しかし傷ついた者たちが護符を使いながら治療している間、すかさず別の兵士が前に出てくる。さすがに正規兵は戦い方を心得ているのだろう。アリエルたちは四方から攻められ、途端に包囲されて逃げ場のない状況に追い込まれてしまう。
兵士たちは互いに視線を交わしながら、じりじりと間合いを詰めてくる。その冷静さと無駄のない動きから、よく訓練を積んだ者たちであることがひしひしと伝わってくる。アリエルも消耗していた姉妹を庇いながら、攻撃する機会を窺っていたが、敵兵の陣形に隙は無く、迂闊に動けない状況だった。
と、そのときだった。突如として咆哮が聞こえ、地面が振動し何かが近づいてくるのが感じられた。茂みの奥からあらわれたのは、見上げるほどの巨体を持つ黒色の体毛を纏った大熊だった。
恐ろしいまでに膨れ上がった筋肉と、鋭く光る獰猛な瞳――敵拠点からアリエルたちをつけ狙っていた捕食者だったのだろう。大熊は緊迫した状況などお構いなしに突進し、あっという間に兵士たちの間に割り込んでいく。
そしてひとりの兵士が大熊の標的になってしまう。巨体に圧倒され、兵士は抵抗する間もなくその牙に胴体を貫かれてしまう。大熊は彼の身体を勢いよく振り回し、鈍い音と共に兵士の身体を何度も地面に叩きつけていく。
骨が砕け、皮膚が裂けて血が噴き出す。裂けた腹部からは内臓がこぼれ、最終的には胴体が引き裂かれて無残にも上半身と下半身が切断されてしまう。
切断された下半身は宙を舞い、大楯を構えていた兵士に勢いよく直撃した。味方の脚が飛び込んできたことで兵士は動揺し、無意識に楯を下げてしまう。その隙を見逃すはずもなく、大熊は唸り声を上げながら兵士に飛びかかり、その巨大な口で兵士の頭部に喰らいついた。
そのまま兵士の頭部は無残にも咬み千切られ、血液が噴き出す。兵士は状況を理解する間もなく、崩れ落ちるように地面に倒れ込んだ。赤黒い血が地面を染め、不気味な静寂が一瞬だけ広がる。それを目にした兵士たちは、しかし逃げることなく槍を構えると、大熊を包囲していく。
アリエルたちは敵の注意がそれた瞬間を狙い、すぐにその場から離脱した。背後からは兵士たちの悲鳴や獣の唸り声が聞こえてきていた。