01 崩壊〈後編〉
夜の冷たく鋭い風がアリエルの頬を打つ。それでも、久しぶりに味わう砦の空気に安堵していた。砦に残していた仲間たちとも再会し、互いの無事を確認し合うことができた。総帥の救出という大任を果たしたことで、守人たちの士気も高められ、兄弟たちの疲れ切った表情の中に微かな希望の光が差し込んでいるように見えた。
シェンメイの世話を豹人の姉妹に任せると、アリエルは疲れた身体を引きずるように居室として利用していた古びた塔に向かう。かつて空高く聳えていた塔だったが、現在では使う者もなく、半ば崩れた薄暗い回廊に青年の足音だけが響く。
迷路じみた狭い路地に入り、しばらく暗闇のなかを進むと塔の入り口が見えてくる。古い木製の大扉がギシギシと音を立て開くと、つめたい空気が室内の暖かな空気をかき乱していくのが分かった。
青年は自室に入ると、かつての戦友であり〝青の黄昏〟の異名で知られていたザザから受け継いでいた黒毛皮のマントを石壁の鉤に吊るした。それから疲れた手つきでゆっくりと鳥羽色の羽根が織り込まれた籠手と臑当を外していく。
自己修復能力が備わっているため、大きな傷こそ確認できなかったが、血に濡れ、戦いの記憶が刻まれたそれらの防具は、戦の証人のように数々の激闘を思い出させた。
血と泥に汚れていた黒衣を脱ぎ捨て、汗にまみれた下着も身体から剥ぎ取るように脱ぎ捨てていく。つめたい空気が肌に触れると、あまりの寒さに思わず震える。気候が安定しない〈獣の森〉にいる所為もあるが、つねに凍えるような寒さがつきまとう。
もちろん、それは〈境界の砦〉にいても何も変わらない。高く聳える防壁は冷たい風から守ってくれるかもしれないが、兄弟だと教えられた者たちからの冷たい視線や態度は変わらなかった。まだ人の肌の温もりを知らない青年にとって、人も石のように冷たいモノでしかなかったのかもしれない。
けれどその凍えるような寒さも一瞬のことだった。世話人が事前に用意してくれていた火鉢から暖かい空気が流れてくるのを感じた。灰を被った木炭がくすぶり、凍えた身体に温もりを与えてくれた。小さな炎が踊るように揺れる様を眺めながら手を火鉢にかざすと 指先がチクチクと痛んだが火の暖かさをじんわりと感じることができた。
身体の震えが和らぐと暗い廊下に出て奥の部屋に向かい、水瓶に溜めていた水で身体を清めることにした。
冷たく透明な水が肌を滑り、戦場の汚れと一緒に血を洗い流していく。肌に水が触れるたびに、心身の疲れが少しずつほどけていくのを感じた。それでも鉄紺に染まる右腕は微かな熱を帯びていて、その熱が奪われることはなかった。それから青年は手際よく身体を拭き終えると、清潔な黒衣を手に取り、しっかりと身につけていく。
ふたたび自室に戻り、無骨な椅子に腰を下ろすと、全身にどっと疲労が押し寄せてきた。戦場の緊張感が一気に解け、瞼が重たくなり、思わず溜息が漏れた。この塔は彼にとって帰る場所であり、同時に孤独を感じる空間でもあった。総帥の塔では兄弟たちが戦いに備えて話し合っていたが、今この瞬間だけは、静寂が心に安らぎを与えてくれていた。
眠る前に扉に閂をかけようとしたが、ラライアがまた忍び込んでくるかもしれないので、彼女のためにそのままにしておくことにした。戦狼の群れを指揮していた彼女にはまだ会えていなかったが、すでに〈念話〉を使って連絡を取っていたので、そのうち会いに来てくれるだろうと考えていた。
寝台に横たわると、アリエルは深い眠りのなかに落ちていく。戦闘で蓄積した疲労が、彼の意識を暗闇のなかに沈めていく。それは何もかもを忘れてしまえるほどの重い眠りで、青年は石のように眠った。
――夢を見た。それはいつもの悪夢だったような気がする。無機質で冷たい廊下を兵士たちが駆け抜けていくのが見えた。彼らは重々しい鉄の鎧を身につけていて、その足音が凍えるような空気の中で鋭く響いていた。それは過去の記憶なのだろうか、それとも運命を告げる予知夢のようなものなのだろうか。
しかし夢と現実の境界は曖昧で、アリエル自身にもそれを確かめる術はなかった。ただひたすらに疲れていた。身体は傷つき、大量の血を失い、無意識のうちに顎や全身の痛みと戦っていた。だから目が覚めたときには、その夢の残滓すら霧のように消えていた。頭の奥にこびりついていた何かが遠ざかり、静かに消失していくような感覚だ。
薄闇の中でアリエルはゆっくりと上半身を起こした。疲れた身体に未だ鈍い痛みが残り、意識が覚醒するまでのわずかな時間、世界は曖昧模糊としていた。薄闇の中、青年の手が何か柔らかいものに触れる。目を細めると、ラライアがすぐとなりで眠っているのが見えた。
彼女は身じろぎひとつせず、静かな眠りについていた。ある種の女性と猫人だけに見られる――まるで小動物のように、コロンと丸くなる可愛らしい寝姿だった。
耳を澄ますと、彼女の微かな寝息が聞こえる。その呼吸は穏やかで、静寂に支配された塔の空気に溶け込んでいた。ラライアもまた、砦の防衛戦で疲れ果てていたに違いない。眠りの中で彼女がどんな夢を見ているのかは分からなかったが、すっかり戦いのことを忘れてしまっているかのような無防備な姿だった。
アリエルは彼女を起こさないように静かに寝台から身体を起こし、そっとその場を離れようとした。そのさい、青年の手がやわらかな乳房に触れて、彼女の乳首が硬くなるのが分かった。手がつめたかった所為だろう。青年は慌てて手を退けた。
それからそっと彼女の白銀の髪をかき分けて、神々にラライアの無事を感謝しながら額に口づけした。どうしてそんなことをしたのか青年にも分からなかったが、彼女がとなりにいてくれることに感謝したかったのかもしれない。
やけに重たい毛布から抜け出すと、つめたい空気に思わず身体が震えたが、青年は気にすることなく静かに立ち上がった。微かに聞こえる木々の騒めきや風の音に雑じって、見張りに立つ兄弟たちの気配も感じられた。幸いなことに、敵が攻めてきている様子はない。
素早く身支度を整えると、ザザの毛皮を羽織って塔の外に出る。すでに日が昇り始めていて、無数の塔の間に射し込む陽光が目に眩しく、思わず眉をひそめながら影に入る。塔の周囲は静まり返っていて、見張りに立つ兄弟たちも休息を取っているようだった。
アリエルは〈念話〉を使い、戦闘を指揮していたルズィと連絡を取る。彼の声は穏やかで、状況が落ち着いていることが分かる。もう少し休んでいても大丈夫だと分かると、青年は安堵の息をつき、それから砦の礼拝堂に向かうことにした。
どの防衛拠点にも森の神々を祀る礼拝堂が設けられていて、それぞれの拠点を管理する組織や部族民が信仰する神々が祀られていた。たとえ小規模な砦でも、礼拝堂の代わりに簡単な祭壇などが設けられることもあった。部族民にとって祈りや信仰は大切なことであり、それは神々が森を去った今でも変わらないことだった。
大規模な防衛拠点になれば専属の僧兵が常駐し、礼拝堂の管理や儀式を執り行ったりもするが、守人の砦では事情が異なっていた。〈境界の砦〉には聖地から派遣される僧兵はおらず、礼拝堂を管理するのは世話人たちの仕事だった。
その礼拝堂は砦の中心から少し外れた静かな場所に築かれていた。石造りの建物は、戦乱によってもびくともしない堅固な造りになっていて、内部は祈りの場に相応しい穏やかで落ち着いた空気に包まれていた。
入り口には簡素ながらも丁寧に彫られた神々の木像が並び、祭壇には森と星々を司る古い神々が祀られていた。祭壇の上には燭台が置かれ、その火は決して絶えないように世話人たちが絶え間なく手入れをしていた。アリエルは胸に手をあて、神々に対する感謝の言葉を口にしたあと礼拝堂に入っていく。