09
境界の砦の古びた石壁が見えなくなると、深緑の苔に覆われた巨石が転がる荒涼とした場所に出る。樹木の太く堅い根が絡みついた岩石地帯には、石造りの高い監視塔が立っているのが確認できた。それらの監視塔は古の守人によって〈獣の森〉のあちこちに築かれていたが、今では廃墟に変わり、その多くが倒壊して使い物にならなくなっていた。
組織が機能していた頃には塔を維持するために大規模な修繕が行われていて、監視塔の多くには守人たちが配置されていたというが、今では見る影もない。
監視塔の廃墟を見ながら、ウアセル・フォレリの隊商は危険な森を進み続けた。
〈神々の森〉と呼ばれる原生林は多種多様な樹木に覆われていて、〈獣の森〉と呼ばれる密林は、その傾向が顕著にあらわれていた。実際のところ、アリエルたちが歩いてきた場所を見ても、一本として同じ種類の樹木は存在しない。
赤紫色の葉をつけた樹木や、周囲の樹木に絡みつき締め上げている大樹、それに無数の枝に人間の頭部にも似た果実をつける広葉樹が目に付く。
それぞれの樹木には、過酷な環境に適応した無数の昆虫、蜘蛛やムカデといった節足動物、そして軟体動物が生息していて、複雑で多様な生態系が形成されている。それは一見すれば生命に満ち溢れた健全な世界に思えるが、道を逸れて暗い森のなかに足を踏み込むと、人間ほどの体長を持つ肉食昆虫や、それらの生物を餌にする大型動物に遭遇することになる。
それは森の本質だった。生命に満ち溢れているということは、過去に、それよりも多くの命が失われてきたことを意味している。この瞬間にも厳しい生存競争が行われ、数限りない生命が失われている。生命に満ちた色鮮やかな森の奥では、混沌の脅威に晒された真っ暗な死の森が広がっている。それが〈獣の森〉の真実でもあった。
呪われた暗い森を隊商は進んでいく。
分厚い絨毯のような落ち葉を踏みながら、のっそりと荷車を引くのは部族に親しまれている駄獣だ。〈ヤァカ〉と呼ばれるその獣は、雄雌ともに湾曲した太いツノを持ち、鼻面が長く、野牛のように大きな身体を持ち四肢は太く短い。森の寒さに適応するためなのか、全身の黒い体毛は長く、顎の下の体毛は地面に届くほど伸長する。
その駄獣のとなりを歩いていたアリエルとラファは、手ごろな枝を見つけると荷車に放り込んでいく。幸いなことに獣の森では雪が積もっていなかったので、焚き火の薪として乾いた枝を多く確保できる。だから獣の糞を燃料として使う必要はない。
ウアセル・フォレリは幌付きの荷車に毛皮やら毛布を敷いていたが、そこで休むことをせず、〈黒の戦士〉たちのとなりを歩きながら森の様子を観察していた。時折、彼は立ち止まると、小さな木像を樹木の側に埋めていた。
古の神々の姿を象った木像には混沌の生物を遠ざける効果があったが、それは呪術器のように明確な効果を発揮するモノではなく、ある種の祈りや信仰のようなもので、その効果は曖昧だった。しかし〈黒い人々〉は部族の古い仕来りを重んじるため、旅の安全を祈り、森に木像を捧げることがあった。
それは守人にない習慣だったが、アリエルたちがその行為に口出しすることはなかった。ちなみに木像が埋められた樹木には名もなき精霊が宿るとされ、その実は僅かな神気を帯びて、食すと傷を癒す効果があると信じられている。
大昔に崩れて樹木の根に埋もれていた石壁の近くで野営することに決めると、彼らは黙々と野営地の設営を行い、駄獣の世話をしながら火をおこす。夜になると気温が氷点以下になるため、火を絶やすことはできない。それに獣の森で恐ろしいのは寒さだけではない。森に潜む危険な生物が活発に活動するようになるため、注意を怠ることはできなかった。
翌日も村に向かって順調に移動を続ける。異変が起きたのは、獣の森を抜けようとしていたときだった。黒の装束に身を包んだベレグが、不吉な報告を携え音もなく姿を見せた。
「混沌の化け物に襲撃された守人の偵察部隊を見つけたよ」
髭面の男の報告にルズィは首をかしげる。
「見つけたってどういうことだ?」
「連中は殺されていて、その死体を見つけたのさ」
どうやら守人は惨い方法で殺害されたあと、腹を裂かれ、内臓を喰われていたようだ。状況は確かめるため、ルズィはベレグを連れて現場に向かうことになった。守人の各部隊には念話が使用できる戦士が最低でもひとりはいるので、部隊が襲撃されたという報告がなかったことを彼は訝しく思っていた。
ふたりが戻ってくるのを待っている間、アリエルとラファも周囲の偵察を行う。そこで彼らは別の遺体を見つけることになる。
樹木が密生している岩場の斜面に、その死体は打ち捨てられていた。特徴的な黒衣で、それらの遺体が守人のモノだと判断することができた。しかし死体は切り刻まれ手足は別々の場所に落ちていて、それが誰の遺体なのか識別することは難しかった。
ラファは死体の側にしゃがみ込むと、鞘に収まった状態の刀を拾い上げる。
「襲撃に遭ったときに、ここまで逃げてきた戦士でしょうか?」
「……たぶん」
ラファが拾った刀が気になっているのか、アリエルは適当に答える。
「なにか気になることでもあるのですか?」
「その刀……砦で見たことがない」と、アリエルは太刀を受け取りながら言う。
赤漆だろうか、見事な鞘に収まった刀を抜く。日の光を反射する刀身には傷ひとつなかった。おそらく一度も振るわれたことがないのだろう。
「たしかに綺麗な刀ですね……」ラファは眉を寄せる。
死体から使えそうなモノを回収すると、〈黒の戦士〉と待ってくれていたウアセル・フォレリと合流して、すぐにルズィたちと連絡を取る。やはり遺体は守人のモノで間違いなかったが、彼らもアリエルたちと同じ違和感を持つことになった。
「別の砦からやってきた守人の可能性があるな……」
アリエルの言葉にウアセル・フォレリが疑問を抱く。
「つまり、その連中は守人の脱走者ってことかい?」
「その可能性は捨てきれないけど、ここから〈啜り泣きの森〉を監視する砦までは、オオカミがいても十日はかかる」
「脱走者がいれば、その情報は境界の砦にも伝わっている。そういうこと?」
アリエルはうなずくと、密林に耳を澄ませる。
冷たい風に揺れる木の葉の騒めきや、遠くに聞こえる獣の鳴き声の間に、枝が割れる音が聞こえた。
「何か来る」
ラファは目の端に得体の知れない動きを捉えると、荷車から弓と矢を取り攻撃の準備を行う。が、瞬く間にその影は消えてなくなる。不気味な静けさだけが彼らの周りに重くのしかかる。
それが樹木の陰からあらわれたのは、〈黒の戦士〉が抜刀した直後だった。
ミミズにも似た異形の生物は槍のように痩せ細っていたが、体長は六メートルを優に超えていて、その細長い胴体の両側面には人間の腕に似た無数の器官がついていた。
「ねぇ、君」混沌の生物との邂逅で興奮しているのか、ウアセル・フォレリの声が踊るように聞こえた。「あれが混沌から溢れ出た化け物なのかい?」
無数の腕を器用に使い、樹木の枝を折りながら接近してくる化け物を見ながらアリエルはうなずく。
「ああ、間違いない。あれは混沌の生物だ!」
でもどうして。という疑問が青年の頭を支配する。一行は獣の森の外縁部までやってきていて、すでに危険区域を脱していた。さらに付け加えるなら、ここから村までは一日ほどの距離で、混沌の生物がやってくることはほとんどなかった。というより、これまでの経験で初めての出来事だった。