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敵陣地に潜入する用意が整うと、ふたりはぬかるんだ地面を歩いて見張りが立っている場所に向かう。足元の泥は重く、歩くたびにズボンの裾が引っ張られる感覚があった。相変わらず廃墟と化した都市遺跡の周囲は静まり返っていて、吹き荒ぶ風と揺れる枝葉の音だけが耳に届く。
シェンメイの変身――あるいは擬態能力は見事なもので、彼女の身体を包み込む呪素が感じ取れなければ、ソレが彼女だと気づくことはできなかった。そして熟練の呪術師でなければ、彼女が身にまとっている微かな結界にすら気がつけないだろう。それほど彼女の〈擬態〉は完璧だった。興味深いことに、声すら変化させることができた。
人の少ない場所を選んだが、そこには蛮族の戦士が三人立っていた。彼らの上半身は裸で、筋骨隆々とした身体に刺青が彫り込まれている。長髪は皮脂とホコリにまみれていて、髭も伸び放題で、全体的に汚らしい印象を受ける。刺青は部族の象徴や勇猛さを示すものであり、他者を威嚇するためにも使われていることが分かる。
戦士たちは篝火の炎を退屈そうに見つめていたが、ふたりが近づくとその様子が一変した。武器に手を伸ばし警戒の目を向け、微かな緊張感が肌で感じられるようになる。アリエルはその鋭い視線を感じながらも、冷静を装って歩き続けた。シェンメイも悪意を含んだ視線には慣れているのか、擬態した姿で堂々と前進していた。
見張りのひとりが低い声でふたりに何かを問いかけた。訛りが強く、青年は半分も理解できなかった。戦士は白目のない真っ黒な眸で睨んでいたが、そこに疑念の色が見え隠れしているように感じられた。彼女は淡々と、そして自信を持って質問に答えた。どうやら周囲に骸骨兵が来ていないか質問したようだ。
「それにしても、クソ退屈だ。せめて骸骨どもが相手をしてくれたら、この退屈を紛らわすことができたのに」
戦士は痰を吐き出すと、アリエルの手斧をじっと見つめた。鮮やかな羽根飾りが興味を引いたのかもしれない。青年はすぐに毛皮を使って手斧を隠した。蛮族の戦士だと騙すために身につけていたが、それで却って目立ってしまえば意味がない。
彼らの背後に見えていた陣地にちらりと視線を向ける。景色は一層荒廃し、あちこちに崩れた建物の残骸が散乱していた。篝火の炎が揺れるたびに、その影が不気味に動き、異様な雰囲気を醸し出していた。戦士たちの視線が篝火に戻ると、ふたりは陣地に足を踏み入れる。
そこでさらに多くの戦士たちの姿を目にすることになった。彼らは、それぞれの持ち場で忙しそうに動き回り、陣地を維持するために努めているようだった。ふたりはその様子を観察しながら、気を抜けばすぐに見つかってしまうような緊張感のなか陣地内を進んでいく。
まず目に飛び込んできたのは、物資を満載した荷車を引く駄獣の群れだった。長い体毛に覆われたヤァカは泥まみれになりながら、重い荷車を黙々と引いていた。その周りには駄獣の群れを世話するために連れてこられた部族の人々が、白い息を吐き出しながら忙しそうに動き回っていた。
彼らは薄汚れた衣服をまとい、疲れた表情を浮かべていた。その中には土鬼や豹人の姿も見られたが、彼らの多くは手足を欠損しているようだった。戦えなくなった傭兵たちが、それでも生きる糧を手に入れるために働いているのだろう。
駄獣の足音と荷車の車輪が地面を擦る音が響き渡るなか、彼らは厳しい表情を崩さず、駄獣や荷車を丁寧に扱っていた。泥にまみれた地面は荷車の所為でえぐられていて、歩くのを一層困難にしていた。その荷車には様々な物資が積まれていて、食料だけでなく武器や防具、毛皮などが混ざっていた。
その先で目にしたのは、篝火の周囲に集まる戦士たちの姿だ。彼らは無造作に置かれた丸太に腰掛け、塩漬けの川魚や肉、それに蒸かしたイモを食べていた。〈マーラ〉の名で知られた大きなイモは厚い皮を剥いだあと、柔らかく蒸かされていた。蒸かしたイモは黄色みがかった色をしていて、ほんのりと甘い香りが漂っていた。
戦士たちはそれぞれが手にした食材にかじりつき、その場の飢えをしのいでいた。篝火の炎が揺れるなか、戦士たちは小声で会話しながら食事を続け、物音が聞こえると手元の武器を確認する動きを見せた。重装備の戦士たちも霧のなかに潜む脅威に怯えているのか、どこか落ち着かない様子だった。
周囲の天幕には修理中の武器や防具が無造作に積まれていて、職人たちが忙しそうに手を動かしているのが見えた。武器や防具は、それぞれの戦士たちの命を守るために重要なものであり、職人たちもその重要性を誰よりも理解しているのだろう。その通りでは、物資を運ぶ駄獣がひっきりなしに行き交う様子が見られた。
物資が保管されている倉庫が見えてくる。編み枝と漆喰で補強された窓のない廃墟で、崩れそうな壁にはツル植物が絡みついていた。丸太に支えられた天井を見ていると、盛り土のそばに鋭い目つきの戦士たちが立っていることに気がつく。神経質になっているのか、近くを通っただけで殺気を向けられる。
ふと、どこからともなく悲鳴のような甲高い声が聞こえてきた。声の正体を探すと、縛られて殺されそうになっていた豚の鳴き声だと分かった。苦しんでいるかのような恐ろしげな声で鳴くと、その声に応えるように犬たちが吠えていた。
周囲には濡れた犬の悪臭と、ひどい腐臭が漂っていて、腐った食べ物や臓器の臭いが混ざり合っていた。その場の腐臭に耐えきれず、ふたりはすぐにそこから離れた。腐臭が鼻腔を突き、吐き気を催すほどだった。足早にその場を離れると、人影の少ない通りに出た。
通りは荒れ果て、廃墟と化した建物が立ち並んでいた。倒壊した瓦礫が道を塞ぎ、歩くたびに小さな石が音を立てた。その通りを歩きながら、アリエルは襲撃者たちに連れ去られた総帥の居場所を確認しようとしたが、シェンメイも詳細について知らないという。最悪の場合、〈転移門〉を使い別の場所に連れていかれた可能性もある。
まさか襲撃者たちに直接訊く訳にもいかないので、地道に捜すほかなかった。篝火の周囲で談笑する戦士たちの話に耳を傾けながら、少しずつ陣地の中心地に向かう。つねに戦士たちの声や物資の運搬を行う人々の声が聞こえてきたが、それ以外の場所は驚くほど静まり返っていた。
広場に足を踏み入れると、無数の天幕が張られているのが見えた。それぞれの天幕は厚めの布で覆われ、質素ながらも丈夫そうに見えた。崩れていない廃墟を使うこともできたはずだが、そこに巣食う幽鬼を嫌ったのかもしれない。姿が見えなくても、絶えず囁き声が聞こえる。あちこちに篝火が点々と置かれ、炎が広場全体をぼんやりと照らしていた。
篝火のそばで談笑している戦士たちの姿が見えた。屈強な身体つきの蛮族で、身にまとった革鎧や武器から、それなりの数の戦を経験してきたことが分かる。ふたりは適当な天幕から調達しておいた蜂蜜酒を手に、彼らの会話に混ざることにした。蜂蜜酒は甘く香り高く、広場に漂う煙や糞尿の臭いを一瞬だけでも忘れさせてくれた。
欠けた石の器に蜂蜜酒を注ぎ、戦士たちに差し出す。彼らは驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔を浮かべ、警戒することなく酒を受け取った。器の欠けた部分から酒が少しずつ漏れ出し、その滴が地面に染み込んでいった。戦士たちはそれを気にすることなく、器を口に運び一息に飲み干していく。
そこで彼らが話していたのは、戦場に派遣されたときに利用した〈転移門〉についてだった。それまで遺跡が〈転移門〉として機能することも知らなかったようだ。
「だが――」傭兵のひとりは茶色い歯を見せながら言った。「それも使えなくなったみたいだからな。俺たちは〈古墳地帯〉を通って敵の砦まで行くことになる」
「あの墓場で大勢の戦士が死ぬことになるだろうよ」と、別の傭兵が言う。
この都市遺跡にある〈転移門〉を使い、守人の砦近くにある〈転移門〉まで移動していたが、アリエルが移動先の門を封印してしまったので利用できなくなったのだろう。
戦士たちは危険な〈古墳地帯〉を通って戦場に向かうことになる。すでに多くの離反者も出していたが、結界なしに霧を抜けることは不可能だったので、今では離反者すらいないという。
アリエルとシェンメイは、もう少し彼らから話を聞くことにした。もしかしたら、総帥の居場所が分かるかもしれない。




