08
アリエルは武器庫でラファを捕まえると、村に行く支度をさせ、ついでに念話を使い巡回警備に出ていた部隊と連絡を取る。ウアセル・フォレリを護衛する任務に、前回の作戦で指揮した戦闘部隊を連れて行こうと考えていたが、兄弟たちは獣の森に存在する〈混沌の領域〉を偵察していて、すぐに砦に戻ってくることはできなかった。
そこで青年は片耳の守人を頼ることにした。〝影のべレグ〟の名で知られた守人は、境界の砦に送られてくるまでは、首長の狩場とされていた地域でイノシシやシカを狩り、肉や毛皮を得る密猟者として生計を立てていたが、首長の森を管理する役人と戦士たちよる二か月にも及ぶ大捜索の末に捕まってしまう。
首長の森を侵すことは大罪だ。しかし彼の行動が貧しい部族のための行いだと知られると、森の仕来りに従い、哀れな義賊に選択が与えられることになる。それは眼球をくり抜かれて片足を切り落とされるか、境界の守人として死ぬまで辺境の砦で奉仕する、という厳しい選択だった。
べレグは〝影に潜むもの〟と呼ばれる謎多き妖魔と人間の混血で、彼は完全に気配を消し、足音を立てずに森のなかを移動できるという種族固有の能力を持っていた。視界と片足を失くすことは、極端な表現ではあるが、自己同一性を失うことでもあると彼は考えた。そしてベレグは境界の守人になることを選択した。種族としての誇りを失わないために。
たちまちベレグの能力は守人たちの間で知られるようになり、そして頼りにされることになった。辺境の砦には以前のような自由は存在しなかったが、兄弟たちに認められる生活は悪くなかった。少なくとも、彼の足はまだ胴体とつながっていた。
アリエルと行動を共にするようになったのは、首長から依頼される汚れ仕事――敵対的部族の要人を暗殺する任務に就いたときだった。
生意気な少年だったが、その血に宿る能力は驚愕すべきものだった。いくつかの誤解があり、つまらない喧嘩もしたが、ベレグはすぐに赤眼の少年と打ち解けた。あまり知られていない種族として、その少年にある種の親近感を持ったからなのかもしれない。
いずれにせよ、ふたりは互いを信頼し合い、本当の意味において義兄弟としてこれまで任務を遂行してきた。
その片耳の守人は、総帥の塔――今では名ばかりの役職になった〝総帥〟の称号を持つ司令官の塔の下に立っていた。
「聞いたよ」
髭面のベレグは広場で訓練している見習いたちの姿を見ながら言う。
「商人の護衛を依頼されたみたいだな」
アリエルは肩をすくめたあと、ちらりと塔を見上げる。その塔は僅かに傾いていて、今にも倒壊しそうな見た目をしていたが、少なくとも数十年の間、その状態を維持し続けていたので気にする者はひとりもいなかった。
「総帥が〈黒い人々〉を信用していないことは知っているけど、なにか頼まれたのか?」
「ああ」ベレグは灰色の眸を青年に向けて、真剣な面持ちで言った。「〈黒の戦士〉が護衛についているのに、それでも守人を必要としている理由が分からないと言って大将は困惑していたよ。だから商人が何を企んでいるのか、探りを入れてこいと言われた」
「企むも何も、ウアセルが護衛を依頼したのは、俺たちが聖地で見てきたものを知りたいからだ」
「護衛任務がただの口実だっていうのは知ってるよ」と、彼は溜息をつきながら言った。「だからどうやって時間を潰すか考えていたところだ」
「一緒に来ないのか?」
ベレグは辟易しながら言った。
「長旅から戻ってきたばかりだ。砦が快適だとは言わないが、少なくとも夜は安心して毛布に包まって眠ることができる」
「かび臭い毛布だけどな」と、アリエルは決して快適とは言えない寝室のことを思いだしながら言う。「ベレグは森が好きだと思っていたけど」
「混沌の獣どもに命を狙われるのが嫌なのさ」
「大丈夫だ。まだ片耳しか奪われてないじゃないか」
アリエルは軽口を言ったつもりだったが、ベレグはそれを冗談と捉えなかった。
「ああ、まだ片耳だけだ。でも次は腕を取られるかもしれない。いや、頭を持っていかれる可能性もある。忘れたのか、エル。俺たちはそういう場所で生きているんだ」ベレグは感情に任せ鞘から両刃の剣を抜くと、日の光を反射する綺麗な刀身を見つめる。「それに聞いたぞ、奈落の底で混沌の怪物どもに襲われたんだろ?」
「ツイてなかったんだ」
アリエルは足元に転がっていた拳大の瓦礫を拾い上げると、壁の外に向かって投げた。ベレグは飛んでいく石を視線で追い、それから剣を鞘に収めた。
「見習いたちだけじゃない、奈落の底に慣れている先遣隊も喰われたって聞いたぜ」
「たしかにあれは奇妙な群れだった。それは認める」
「ここで何かが起きているんだ」と、ベレグは髭の奥に隠した表情を歪める。「森の獣は狂暴化して大熊よりも巨大なイノシシを襲い、奈落の底では臆病な怪物が群れで守人を襲っている。そして俺は森で奇妙な肉塊が徘徊しているのを見たんだ。いいか、あれは古墳地帯を彷徨っている食屍鬼なんかとは訳が違う。俺たちはここで――この掃き溜めで危険なお遊びをしているのさ、そして気がついたときにはすべてが手遅れになっている」
ベレグは悲観的で、ときに陰険な男だったが、〈忘れられた森〉の大樹のように真直ぐで意思が固く、義理堅い男だった。そしてアリエルは彼の言葉を尊重していた。
「安心しろ、ベレグ。そのときが来ても、俺たちはお前と一緒にいる」
やや感情的になっていたベレグは、気持ちを冷ますように白い息を吐き出す。
「すまない、熱くなり過ぎた」
その言葉にアリエルはニヤリと笑みをつくる。
「気にするな、兄弟。ひとの感情を玩ぶのが好きな小妖精が近くに来ていたんだろう」
「ああ、きっとそうだ」
髭面のベレグは柔らかい笑みを浮かべると、生意気な兄弟の肩に腕をまわす。
「それで、出発する準備は整っているのか?」
「一緒に来てくれる気になったのか?」
「ああ、オオカミの遠吠えを聞きながら怯えて眠るのも悪くないと思ったんだ」片耳の守人は顔をしかめて、それから思い出したように言った。「砦から離れることを、あのオオカミに知らせたのか?」
「いや、檻から出たばかりなんだ」
「ツナヨシは良くしてくれたか?」
「ああ、土鬼の神さまについて話を聞かせてくれたよ。一晩中」
「そうか」彼は苦笑して、それから言った。「……それなら、俺がオオカミと連絡を取っておく。お前は部屋に戻って刀を取ってこい。丸腰で散歩するには、あまりにも危険な森だ」
アリエルは兄弟の言葉を聞いて、インから贈られた太刀を部屋に置き忘れていたことを思い出す。
「すっかり忘れていたよ。総帥と話したあと、部屋に取りに戻るよ」
「今は止めておけ」と、ベレグは頭を横に振った。
「眠っているのか?」
「いつものように酒を煽って、暖炉の前に座ったまま眠っている」
かつての偉大な戦士の姿を想い、アリエルは気分が落ち込むのを感じた。しかし無理もない。森の人々を守護するという重荷を背負い続けるには、総帥はあまりにも疲れ、そして孤独だった。彼ひとりで背負わなければいけない問題が多すぎるのだ。
首長や各部族の族長が戦や略奪に向ける情熱を、境界の守人という組織の強化に少しでも割いてくれていたら、こんなにも苦労することはなかっただろう。
アリエルはベレグと別れると、総帥の塔に背を向け、太刀を取りに部屋に戻る。その途中でラファと合流し、砦の大門で待機していた護衛対象、ウアセル・フォレリのもとに向かう。
護衛任務に参加する守人はアリエルとラファ、それにベレグとルズィだけだった。危険な森を通ることになるので、些か不安になる戦力だったが、ウアセルは数人の〈黒の戦士〉を連れているので問題はないだろう。それにオオカミと合流できれば、その不安も解消されるはずだ。