07〈石に近きもの〉
食事を終えたアリエルは話し込んでいた友人たちと別れ、訓練所として利用されている砦の広場に出る。外はひどい寒さで、厚い毛皮で首元まで包まったが、冷たい風が吹くと耳が千切れそうになるほど痛んだ。
境界の砦がやや北部に位置しているからなのか、まるで世界そのものが凍結しているように寒く感じられた。豹人のノノとリリが暮らしていた場所は、ここよりもずっと寒い場所に違いない。だからこそ、あの姉妹は厚い体毛に覆われているのだと青年は考えた。
真っ白な雪に覆われた北部での生活は、想像することもできないほど過酷なモノだろう。訓練所で白い息を吐きながら体術や剣術の訓練を行う見習いたちを見ながら、アリエルは凍結した荒れ地のことを、そしてその世界で逞しく生きる豹人たちのことを思った。
しかし実際のところ、北部には自然豊かな森林が広がり、熱水が噴き出す間欠泉や温泉が各地に存在し、人魚たちが暮らす湖は凍ることがないと言われていた。
境界の砦が存在する〈獣の森〉は、混沌の影響を強く受けているため異常な環境が形成されていた。しかしそのことを知らないアリエルは、北部での人々の苦しい生活を思い、なんだか惨めな気持ちになってしまう。しかしすぐに気持ちを切り替えると、視線を動かして目的の塔を捜した。
砦の中央にある広場を囲むようにして、石造りの高い壁が聳え、いくつかの塔が立っているのが見えた。それぞれの塔には役割があり、守人たちの生活の場になっている塔や、武器庫として機能する塔、それに食堂や世話人のための居住区画になっている塔も存在する。かつて砦が〈百塔の要塞〉と呼ばれていた所以だ。
しかし組織の衰退と共に、多くの塔は打ち捨てられ廃墟になってしまう。守人の数が減少したことも関係しているが、混沌の生物の襲撃などによって倒壊し、やむなく手放してしまった塔も存在する。
石造りの堅牢な監視塔は頂上から内側に向かって陥没するように崩壊し、再建されないまま放置され、今では木造の草臥れた櫓が森からやってくる脅威を監視する場所になっていた。偉大な戦士たちが訓練した広場も、あちこちに塔や壁の瓦礫が散乱していてひどいありさまだ。
乾燥し荒涼とした地域なので、雑草がすぐに枯れてしまうのが救いだった。でなければ塔の廃墟は植物に埋もれていただろう。アリエルはそっと溜息をつくと、訓練所に視線を向ける。
見習いたちの武術を指導しているのは年老いた蜥蜴人だ。彼はいつも厚い毛皮に包まり、多くの時間を暖炉の前で過ごし、石壁の外に出ることはなかった。その姿は森を徘徊する大熊にも見えたが、寒さに耐性のない種族の性質上、それは仕方がないことだった。しかし指導官として、また戦士としても優れていて、今では組織になくてはならない重要な人物になっていた。
数年前まで剣術の師範だった人間を快く思っていなかったアリエルは、その蜥蜴人が砦にやってきた日のことを今も記憶していた。はじめて目にした蜥蜴人だったことも関係しているのかもしれないが、厳しくも適切な指導を受けられるようになったことは、喜ばしい変化だった。蜥蜴人が名誉を重んじる武人気質の種族だと知ったのも、彼との交流があったからだろう。
広場に響く剣戟を耳にしながら、アリエルは目的の塔に近づく。薄汚れた石壁には煤が付着しているのか、そこだけ黒くなっているのが見えた。両開きの重く巨大な扉は僅かに開いていて、その隙間に身体を入れるようにして青年は塔に入っていく。
途端に周囲は薄暗くなり、静寂が辺りを支配する。鋼を叩く小気味いい音が聞こえてこないことを不思議に思いながら、暗い通路を進んでいく。すると炉の炎が微かに揺れていて、鍛冶場の入り口にかけられた太いしめ縄の影をつくりだしているのが見えた。天井が高く広い空間だったが、雑多な物で溢れ、見た目よりもずっと狭く感じられた。
蜘蛛の巣や埃が目立つ壁際には鎧棚が置かれ、大量の木炭や砂鉄、そして鉄鉱石が詰まった木箱が無雑作に積まれているが、鍛冶道具だけは作業台に整然と並べられている。
アリエルは周囲を見回しながら大鎚を手に取る。彼のすぐ足元には獣の森に生息する大型肉食生物の牙が落ちていて、そのすぐ側には厚いカワトカゲの革が広げられたまま放置されている。
重々しいしゃがれ声が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。
『塵の子よ、今日はどうしたのだ?』
炉のすぐ側で大きな影がゴリゴリと音を立てて動くのが見えた。それは遠目に見れば緑青色の薄汚れた岩にしか見えなかったが、注意深く見ると、それが炎のように明滅する瞳を持ち、言葉を発することのできる大きな口を持っていることが分かる。
石に近きもの、〈ペドゥラァシ〉と呼ばれる種族でもある〝クルフィン・ペドゥラァシ・ベェリ〟は、ゆっくりと身体の向きを変える。アリエルは作業台に大鎚を立て掛けると、背負っていた背嚢を胸に抱えるようにして手に持った。
「クルフィンさまに、お願いがあります」
『お願い……』と、岩にも見えるクルフィンがゆっくり口を開くと、かれの声が直接頭のなかに流れ込んでくるのが分かった。開いた口からは、言葉ではなく煙が吐き出されるのが見えた。
『それはどんなお願いだ?』
アリエルは作業台の上に背嚢をのせると、神殿で密かに回収していた宝石と、偽りの神々を象った神像を並べていった。置物のように小さな彫像だったので金の量は少ないが、宝石は様々な種類があり、これだけでも小さな集落が数か月の間、食事に困らない生活が送れるほどの量だった。
『つまり……』と、クルフィンは煙を吐き出す。
『お願いとは仕事のことだな?』
アリエルはうなずいて、それから意を決して言った。
「これを使って兄弟と仲間のための道具を造ってもらいたいのです」
クルフィンは四つの眼でじっとアリエルを見つめる。落ち窪んだ瞳はメラメラと燃えているようで、今にも煙が噴き出しそうだった。
『若き塵の子の頼みだ……良いだろう』
「ありがとうございます」
アリエルは胸に手をあて、丁寧に頭を下げた。
『畏まる必要はない、わたしは石になり損ねたモノだからな』
すでに口癖になっている言葉を口にしたあと、クルフィンはゆっくりと長い腕を伸ばし、六つの指がある手で宝石や金の彫像を確認する。
『それで、塵の子は何を求める』
アリエルが口を開こうとすると、クルフィンは何も言わずに手を差し出した。青年はその手にそっと自分の手を重ねた。石に近きものの大きな手は、ひび割れた岩のように硬い皮膚に覆われていたが、思いのほか温かく、嫌な感じはしなかった。
『豹人の姉妹と……小さき戦士のためのモノか……』
クルフィンは煙を吐き出しながら息をつく。〈ペドゥラァシ〉との対話には多くの言葉を必要としない、かの種族は生物の思考や感情を読み取る能力があるからだ。
石に近きものが気難しい種族だと言う者もいるが、多くの場合、対話を試みる側に問題がある。かれらは人々の欲望を嫌悪する。
『姉妹には呪術器を用意しよう』と、クルフィンは言う。『特別な装飾品だ。あの子たちなら使いこなせるだろう。……小さな戦士には、短刀が良いだろう。呪術鍛造のための素材はないが、それでも良いモノが打てるはずだ』
アリエルが感謝の言葉を口にすると、かれは青年が背負う宿命を思い悲しげに微笑んだ。しかし青年には〈ペドゥラァシ〉の表情を読み取る能力がなかった。それはある意味では、幸運だったのかもしれない。
クルフィンはおもむろに腕を伸ばし、炉のなかに手をいれる。アリエルが困惑していると、かれの皮膚に存在する無数のひび割れが真っ赤に発光するのが見えた。そしてかれは手ごろな彫像を握りしめる。すると不純物だけが砂のように指の間からサラサラと落ちて、赤熱した小さな球体だけが残される。
あれが呪術器の材料になるのだろう。アリエルは作業台に残された球体を見つめていたが、やがて友人たちを待たせていることを思いだし、クルフィンに声を掛けてから鍛冶場をあとにした。