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詰め所から出ていこうとすると、雨まじりの冷たい空気のなかに血の臭いが漂っていることに気がつく。それは室内に横たわる襲撃者のモノではなく、雨粒と一緒に室内に入り込んでいた。暗がりのなか、篝火の微かな灯りが揺らめき、濡れた石畳に影を落としている。その影に違和感を覚える。
目を凝らすと、それが兄弟たちの死体だと分かった。彼らの瞼は虚ろに開かれ、もう二度と閉じることはない。顔面に刻まれた恐怖と驚愕の表情が、最後の瞬間の苦悶を物語っているようだった。首が横に裂かれ、胸にも深い刀傷があり、彼らの周囲には黒ずんだ血溜まりが広がっていた。
襲撃者たちは影のように忍び寄り、見張りに立つ兄弟たちをひとりずつ排除していた。ソレはあまりに巧妙な手口で、誰ひとりとして敵の接近に気づくことがなかったようだ。兄弟たちの無残な死体を目にして、アリエルの胸に冷たい怒りが広がる。青年は瞼を閉じ、兄弟のために祈りの言葉を口にしたあと、冷静に状況を見極めようとする。
想定していたよりも深刻な事態になっていることは明らかだった。敵は砦に侵入する経路を熟知しているだけでなく、見張りに立っていた兄弟たちを見事に殺害していた。警備の甘さを突かれた形で……というよりも、内通者の存在を疑うべき手際の良さだった。
砦内に敵を手引きした裏切り者がいるかもしれない、その事実は、事態をより深刻なモノにするかもしれない。いずれにしろ、砦の防衛は大きく揺らいでいて、敵がこの機に乗じて更なる襲撃を仕掛けてくる可能性があった。砦内に潜む脅威に対し、今後どう立ち向かうのか迅速に決断しなければならなかった。
アリエルは冷静さを取り戻しながら、もう一度〈念話〉を使ってルズィと連絡を取ろうと試みた。しかし耳に届くのは森に降る雨の音が誇張されたような雑音ばかりだった。敵の呪術師が砦内に潜んでいることは明らかだった。呪術が妨害され、兄弟たちとの連携が絶たれている。
「敵は内部にいる……」アリエルは自らに言い聞かせるようにつぶやく。
目の前の現実を受けいれ、冷静な判断を下さねばならなかった。砦の守備を再編し、敵が大規模な攻撃を仕掛けてくる前に侵入経路を遮断しなければいけなかった。しかし砦の要所をめぐりながら、兄弟たちに警告している余裕はなかった。
ラライアにそのことを話すと、彼女は毛皮のマントを脱ぎ捨てながら柱の陰に入り、白銀のオオカミに姿を変えた。そして耳をつんざくような遠吠えが聞こえた。これで砦周辺にいる戦狼だけでなく、砦内の塔で休んでいる者たちも襲撃に気づいてくれるだろう。
アリエルはラライアの首筋を撫でたあと、その背に乗り、兄弟たちの遺体に敬意を払うように頭を下げて静かにその場をあとにする。
襲撃者たちの標的にされる可能性がある総帥の塔に向かう必要があった。何としても暗殺を未然に防がなければならなかった。今ここで総帥が倒れてしまえば、兄弟たちの士気に影響するだけでなく、敵が攻め込む隙を与えかねない。
「急ごう」
アリエルはラライアの背にぴったり身体をつけると、つめたい夜雨に濡れる広場を駆け抜けていく。周囲には瓦礫が散乱しているが、ラライアは速度を落とすことなく器用に避けていく。ふたりを監視している侵入者が近くに潜んでいる可能性があったので、周囲の動きに細心の注意を払い、一瞬たりとも気を抜くことなく進んでいく。
雨にけぶる視界のなか、石造りの威容がぼんやりと浮かび上がる。塔の頂上には灯りがついていたが、やはり見張りに立つ兄弟の姿は見えなかった。
塔の入口に近づくと、ラライアが低い唸り声を上げながら立ち止まる。敵の気配を感じ取ったのだろう。アリエルはオオカミの背から降り立つと、ザザの毛皮から鋸歯状の刃が特徴的な剣を取り出した。すると影の中から数人の敵が姿を見せた。かれらが手にする鋭い刃が篝火に反射し、冷たい光を放つ。
そして襲撃者たちは問答無用で一斉に攻撃を仕掛けてきた。守人のように全身に黒衣をまとう異質な戦士で、表情を隠すように顔さえも黒布で覆っていた。暗部に所属する戦士なのかもしれない。彼らは影のように足音を立てることなく近づいてくる。
アリエルは少しばかり身体を斜めにして、腰を落としながら剣を構える。そして敵の動きを見極めながら刃に呪素を流し込んでいく。赤黒い刀身は瘴気を立てながら、鋸歯状の刃をさらに凶悪なものへと変化させていく。
敵が飛び込んでくる直前、どこからともなく鋭い矢が飛んでくるのが見えたが、それは青年の周囲に吹く風によって防がれる。しかし敵は護符の使用を想定していたのか、一瞬の躊躇もなく鋭い刃を振り下ろした。アリエルは身を屈め、刃に向かって踏み出すようにして前に出ると、敵の一撃を躱すと同時に懐に飛び込む。
そして生物じみた凶悪な刃を横薙ぎに振るう。それは敵が身につけていた鎖帷子もろとも腹部を横に引き裂いてみせた。赤黒い血液とともに内臓がこぼれ出る。戦士は呻き声を漏らし、腹部を抱えるようにして膝をつくが、アリエルは容赦しなかった。そのまま返す刀で首を刎ねると、接近してくる別の戦士と対峙する。
しかし青年が見ていたモノは、敵がつくり出した幻影だった。すぐに横手から刃が迫ってくるが、青年は紙一重のところで攻撃を受け流す。が、足元の泥濘に足を取られて態勢を崩す。敵は絶好の機会とばかりに刀を振り上げる。が、その刃がアリエルに向かって振り下ろされることはなかった。
闇の中から飛び込んできたラライアに腕ごと頭部を咬み千切られ、その場にくずおれる。頭部を失くした身体は痙攣し、鋭い牙で咬み切られた箇所からは、心臓の鼓動に合わせるようにドロッと血液が溢れ出る。
さすがに戦狼との戦闘経験はないのか、襲撃者たちはオオカミの巨体に恐れと戸惑いを見せる。ラライアは襲撃者たちの恐怖を見透かすように低い声で唸ってみせると、そのまま敵に向かって駆け、その無防備な喉元に食らいついていく。敵は必死に抵抗するが、オオカミの力強い顎には敵わなかった。喉を引き裂かれ、次々と倒れていく。
アリエルも息をつく暇もなく、暗闇から襲い掛かる敵と戦い続けていた。篝火の薄明りのなかで刃と牙が閃き、血液が飛び散っていく。敵は一瞬の隙を見つけ、青年の背後に回り込むが、振り向きざまに鋸歯状の刃を突き立てられることになった。獣の牙を思わせる刃に骨を砕かれ、命を奪われていく。
暗がりから矢を撃ち込んでいた襲撃者に〈氷槍〉を放ったときだった。広場の向こうから呪術がもたらす凄まじい衝撃音が轟き、眩い光が暗闇を切り裂くのが見えた。その一瞬の閃光は、夜の闇に砦の輪郭をハッキリと浮かび上がらせるほどだった。
どうやら砦の各所で戦闘が行われているようだ。豹人の姉妹が〈雷槍〉を放っているのかもしれない。仲間たちが襲撃者を発見して戦闘を繰り広げているのか、あるいは大規模な襲撃が行われているのか。無数の疑問が脳裏をよぎるが、考えている余裕はなかった。アリエルとラライアは目の前の敵を殲滅することに全力を注いだ。
鋸歯状の刃で敵を切り裂く。血しぶきが舞い、泥濘のなかに倒れ込む敵の呻き声が聞こえる。ラライアも鋭い爪で敵を切り裂き、喉元に食らいついてく。白銀の体毛は雨と返り血に濡れるが、容赦なく敵を仕留めていく。
襲撃者たちの殲滅を確認すると、アリエルたちは塔の外階段に足を向ける。オオカミの巨体で木製の階段を破壊しかねなかったが、ラライアはすでに人の姿にもどっていたので問題はなかった。
ふたりは白い息を吐きながら階段を駆け上がる。塔の頂上に近づくにつれて、空気が張り詰めていくのを感じる。すると突然、上方から衝撃波が放たれた。アリエルはいち早く呪素の気配を感じ取ると、ラライアの身体を抱きしめるようにして壁の窪みに身を隠す。直後、外階段の一部が爆散する。木材の破片が飛び散り、瞬く間に階段が崩壊していく。
「クソっ!」
思わず悪態をついたあと、アリエルは身を乗り出すようにして暗い空を見上げる。つめたい雨に顔をしかめると、暗闇の中で異様な光が揺らめいているのが見えた。敵対者の呪素が微かに見えていた。そこにまたしても衝撃波が放たれる。すぐに身を隠すが、いつまでも同じ場所に留まっているわけにはいかなかった。
抱き合うようにしてすぐ目の前に立っていたラライアと視線を合わせたあと、敵の気配を感じ取った場所に向かって数発の〈氷槍〉を撃ち込み、すかさず斜め上の階段に向かって飛ぶ。そのまま階段に必死にしがみつくと、すぐに身体を引き上げる。
上方に向かう階段はかろうじて崩れていなかったが、グズグズしている余裕はなかった。氷を生成して半壊していた階段を補強する。呪素で形成された氷はすぐに崩壊してしまうが、環境を利用して素早く氷を形成できるので、ほとんど呪素を消費することがなかった。
「こっちだ、ラライア!」
軽い身のこなしで飛び込んできたラライアを抱きとめると、次々と衝撃波を撃ち込まれ破壊されていく外階段を猛然と駆けあがっていく。




