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遺跡を制圧したあと、アリエルは仲間を連れて〈境界の砦〉に帰還することにした。底知れぬ洞窟の奥には未だ多くの秘密が隠されていたのかもしれないが、深い闇に沈み込む地底世界は混沌の化け物が支配する領域であり、準備もなしに近づくことは危険だった。暗い縦穴は人の存在を拒むように不気味な静けさに包まれている。
一行が遺跡を出ると遺跡は濃霧に包まれていき、その姿は見えなくなった。まるで生き物のように霧は遺跡の石壁を這い上がり、瞬く間に古代の建築物を覆い隠してしまう。遺跡を包み込む濃霧は、あるいは古代の人々が残した呪術的な仕掛けだったのかもしれない。
この場所が秘匿され、守人にすら存在が知られていなかった理由は分からないが、名の知れぬ神――あるいは、それに近い存在を祀ることを目的として建てられた建物であるなら、このまま隠されていたほうがいいのかもしれない。処理せずに放置してきた敵の死体も、いずれ大地に還るだろう。
遺跡が深い霧にのみ込まれながら見えなくなっていく様子を見届けたあと、青年は神々のための祈りの言葉を口にして、そして待機していた仲間たちに合図をして砦に帰還する準備を整えさせた。
それから数時間後、一行は戦闘で疲れ切った身体を引きずるようにして森のなかを歩き続けていた。アリエルは泥と返り血に汚れた仲間たちの顔に浮かぶ疲労を見て、敵対的なの部族に対して、守人という組織があまりに無防備で準備不足だったことを改めて認識した。
守人が森の守護者として敬われていたのは過去のことだったが、まさか敵対する組織があらわれるようになるとは考えもしなかった。守人が罪人を受け入れている所為でもあるのかもしれないが、それが原因だというのなら、あまりにも身勝手ではないのだろうか。罪人であれ、何であれ、守人は命を危険に晒しながら混沌と対峙してきたのだから。
背後から微かな物音が聞こえると、アリエルは考えを中断して移動に専念することにした。洞窟から逃げ延びた敵の残党が近くに潜んでいるかもしれない。移動の間、あちこちで激しい戦闘の痕跡が見られた。折れた槍や刀、血まみれで放置された戦士の下半身、そして駄獣ヤァカの死体に群がる昆虫。その多くは混沌の化け物の仕業なのだろう。
霧に覆われた森のなか、砦に続く道は一層険しくなり多くの危険を孕んでいた。森の木々は高くなり、その枝葉は空を覆い尽くし、ただでさえ薄暗い道をさらに暗くしていく。目の前には深い茂みが広がり、その奥に何が潜んでいるのか分からないという不安がつねに付きまとうことになる。
苔生した大樹の根に覆われた岩場を慎重に歩いて、時折立ち止まり、周囲の音に耳を澄ませながら進んだ。枝を踏みしめる音、風に揺れる葉の囁き、遠くで鳥が鳴く声。すべてが緊張を高める要因になっていた。
守人のザイドは遺跡で死んだ兄弟の装備を回収したあと、何か思うことがあったのか、ずっと黙り込んだままだった。
かれが何を考えているのかアリエルは興味があったが、あえて訊ねることはしなかった。戦いに参加せずに、兄弟を守ることなく逃げ回っていたことを後悔しているのは明らかだった。しかし己の過ちを認める勇気すら持ち合わせていないのかもしれない。青年と視線が合うと、ザイドは不機嫌そうに舌打ちをしてみせた。
敵の野営地を迂回しながら移動する必要があったので、想定していたよりも多くの時間をかけてしまったが、それでも無事に砦にたどり着くことができた。
砦の姿が遠くに見えるようになると、兄弟たちから攻撃されないように〈念話〉を使い、連絡を取り合いながら拠点に近づく。石造りの堅固な壁が霧の中から浮かび上がり、彼らを迎えるかのように立ちはだかる。戦場から逃れてきたアリエルたちにとって、そこは唯一の安息の地だった。
防壁の周囲に展開していた守人や戦狼の姿を見ながら、一行は砦内に入る。高く聳える石壁の上には弓を持った数人の兄弟が立ち、鋭い視線で敵の動きに警戒している姿が確認できた。アリエルたちがいない間にも、砦に対して何度か襲撃が行われていたが、威力偵察だったのか大規模な戦闘に発展することはなかったようだ。
訓練所として利用されていた広場まで行くと、青年は仲間たちに指示を出し、つぎの戦いに備えて休息を取るように命令した。アリエルに指図されたことが気に入らなかったのか、ザイドは青年のことをきつく睨んだが、何も言わずに兄弟たちと広場を離れた。
その広場では、訓練に使われていた木製の標的が片付けられていて、数人の世話人が戦闘で散乱していた武器や矢を拾い集め、鎧を修理し、傷ついた仲間の手当てをする姿が見られた。
そのうちのひとりが出迎えに来てくれると、アリエルは洞窟で回収していた装備を預けた。年老いた世話人は丁寧に装備を受け取り、手際よくそれを点検していく。泥と血にまみれた鎚矛や革鎧が、あの遺跡での戦闘を思い出させた。しかし世話人は動じなかった。その目で数えきれない戦場を見てきたのだろう、かれの顔には深い傷跡が刻まれていた。
洞窟で回収していた巻物や書物はアリエルが個人的に調べるつもりだったので、〈収納空間〉に入れたままにしていた。これらの情報は襲撃者たちとの戦いにおいて、おそらく役に立たないモノだったが、遺跡や〈転移門〉に関する重要な手がかりになるかもしれないので、しっかりと保管しておく。
それからアリエルは戦闘を指揮していたルズィに会うため、総帥の塔に向かうことにした。広場から塔に続く回廊には無数の戦士たちの亡骸が放置されていたが、任務の間に世話人たちが片付けてくれていたのか、死体を見ることはなかった。それでも足元の石畳は血に濡れ、蠅が群がる肉片や臓器をあちこちで目にすることになった。
青年はひとりで総帥の塔に行くつもりだった。豹人の姉妹にも休息が必要だと思ったからだ。彼女たちは呪術師として優秀なだけでなく、白兵戦においても全力を尽くして戦っていて、今は体力を回復させることが必要だった。世話人に使用できる塔がないか訊ねると、ラライアたちのために用意された塔があることを教えてもらった。
その塔の前で姉妹たちと別れると、アリエルは総帥の塔に向かう。塔の外壁に沿って築かれた木造の階段を見つめたあと、溜息をつきながら上り始める。階段は年月に蝕まれていて、足を踏み出すたびに軋む。相変わらず霧が立ち込めていて、冷たい空気が肌を刺すように吹き抜けていく。
やがて重厚な大扉の前に立つ。青年は一瞬躊躇ったが、すぐに力強く扉を押し開けた。扉の向こうは古い石造りの部屋になっていて、壁に無数の武器が飾られているのが目につく。錆びついた大剣や混沌の化け物のツノ、そして古代の鉄鎧が、これまで守人が辿ってきた歴史の一部として保存されていた。
その部屋の中央では、古参の守人たちと立ったまま相談していたルズィの姿が見られた。皆、疲労の色を隠しきれずにいたが、戦いを諦めた雰囲気は感じられない。アリエルが部屋に入ると、全員の視線が一斉に向けられた。
「戻ったか」
壮年の守人がつぶやくように言うと、青年はコクリとはうなずいて、それから数枚の地図が置かれた机に近づく。
「任務は無事に完了した。ついでに襲撃者たちが利用していた〈転移門〉も閉じたから、敵の増援を心配する必要はないと思う」
守人の多くは〈転移門〉の存在を知らなかったが、アリエルが身につけていた革鎧に鏃が食い込んでいるのを目にして、それがどれほど困難な戦いだったのかを理解した。〈幻翅百足〉の外殻が使用された鎧は、通常の矢では傷をつけることすらできない。であるなら、呪力が付与された強力な矢で攻撃されたことになる。
だが誰もねぎらいの言葉をかけることはしなかったし、アリエルも気にしていなかった。それよりも敵の襲撃に対処するため、すぐに別の行動に移る必要があった。




