45
アリエルは薄闇のなかに立ち尽くしたまま、短刀の柄を握りしめ、漆黒の色合いを帯びた刀身を見つめていた。少々乱暴に扱ったが、その刃には一片の傷もなく、蛇の鱗を思わせる模様が綺麗に浮かび上がっているのが見えた。それは不気味なほどに冷淡だったが、同時に美しくもあった。
青年は顔を上げると、静かに息を整えながら周囲を見回した。篝火のぼんやりとした炎が揺らめくなか、地面に横たわる無数の死体が目についた。蛮族の戦士たちは戦闘の混乱を引きずるように、驚きと困惑の表情を浮かべたまま無残に倒れていた。刀で斬り裂かれ、手足は切断され、身体は炎に焼かれていた。
多くの戦士が手足を欠損し、内臓が露出したまま血溜まりのなかに倒れ込んでいた。すぐ近くに横たわっていた死体に視線を向ける。若い戦士の首は横にパックリと裂かれていて、何が起きたのかも理解していないような表情を浮かべていた。
彼の上半身には大きな火傷があり、革鎧は焦げ、肉が焼け爛れていた。そのすぐそばに倒れていた戦士の腹部は大きく裂かれ、腸が地面に散乱していた。その口元には血泡が浮かび、最後の息を吐き出した痕跡が残されていた。
辺りには死臭だけでなく、吐き気を催す糞尿の臭いも漂っていて、ひどく不快な場所になっていた。そこには守人の亡骸も横たわっていた。ザイドと一緒に行動していた兄弟だろう。乱戦のなか、背後から蛮族の槍に胸を貫かれて息絶えていた。油断していたのか、それとも未熟だったのかは分からない。
そもそもアリエルには、その兄弟の顔にさえ見覚えがなかった。南部遠征のさいに砦に送られてきた罪人なのだろうか。名前すら知らなかったが、兄弟のために祈りの言葉を口にした。
敵の増援を阻止するための戦いだったが、あとに残されたのは破壊と死だけだった。あるいは、この戦いには正義も名誉もなかったのかもしれない。
洞窟の奥から冷たい風が吹きつけると、鉄臭い血の臭いが鼻を突く。篝火の煙が立ち昇り、暗い縦穴のなかに消えていく。静寂が広がり、戦いの喧騒は跡形もなく消え去った。アリエルは抜き身の短刀を腰に差すと、姉妹の無事を確認しながら重い足取りでその場を離れた。
そして得体の知れない環状遺物――〈転移門〉に近づいた。すでに呪術師は息絶えていて、門の内側で発生していた空間の歪みは消失していたが、周囲には依然として呪力の影響が残されていた。濃い瘴気が漂い、死の影がそこに居座っているかのようだった。
短い石段を上り、石積みの門の前に立つ。それはもう機能していないはずだったが、邪悪な気配に全身の鳥肌が立つのが感じられた。〈混沌の残り香〉とも形容される濃い瘴気の所為なのかもしれない。いずれにしろ、やるべきことをやって、すぐにこの場を離れたほうがいいだろう。
さっと周囲を見回すと、腰ほどの高さの石柱が並んでいるのが目に入った。それが門を操作するための仕掛けであることはすぐに理解できた。それらの石柱には古代の言葉と月の満ち欠けを表す模様が刻まれていた。そのひとつに触れると、冷たく、それでいて滑らかな石の感触が伝わる。
アリエルは深呼吸すると、意を決し、少しずつ呪素を流し込んでいった。石柱に刻まれていた言葉や模様が微かに青白い光を発するのが見えたが、気にせず呪素の操作に専念した。少しでも油断すれば、体内の呪素をすべて吸い出されてしまいそうで、つめたい汗をかいた。青年の手は模様の表面をなぞるように動き、古代の装置と密接につながっていく。
やがて青年は頭のなかに門の鍵を描いていく。心象によって形作られた鍵を手に取ると、慎重に石柱のくぼみに挿入した。光り輝く鍵がピッタリと嵌り込む。慎重に鍵を回すと、静寂の中にカチリと小さな音が聞こえる。すると〈転移門〉の周囲に漂っていた瘴気が徐々に消失していくのが感じられた。
門の利用者を制限するための試みだったが、どうやら思い通りの結果になったようだ。石柱に刻まれていた古代の言葉が鮮やかに発光したかと思うと、徐々に光が弱まり、やがて消えていった。
これからはアリエルの血を介した呪素がなければ、どれほどすぐれた呪術師であっても、この門を利用することはできなくなった。アリエルは石柱から手を離し、振り返ることなく後退した。〈転移門〉の前に立ち尽くしていると、ノノとリリがとなりにやってくる。
門を閉じるという目的は果たしたが、その代償として多くの命を奪うことになった。後悔はしていなかったが、気持ちのいい行為でもなかった。憂鬱そうな表情を見せるアリエルを心配して、そばに寄り添ってくれた豹人の姉妹に感謝したあと、青年は敵の情報を手に入れるために周囲を調べることにした。
この広大な空間は襲撃者たちの野営地としても利用されていたようだ。篝火の近くには天幕が張られ、戦士たちが休息していた痕跡がいたるところで見られた。焚き火を囲んで食事していた様子や、戦闘のさいに持ち出そうとした装備品が地面に散乱していた。
篝火の明かりを頼りに天幕の中を確認していく。しかし粗末な寝具と毛皮が無造作に積まれているだけだった。手分けして別の天幕を確認していると、木箱に収められた巻物を見つける。いくつか手に取って確認すると、古代の文字がびっしりと書かれていることが分かった。遺跡に〈転移門〉とともに残されていた遺物なのかもしれない。
文章を解読することはできなかったが、〈転移門〉に関する情報が得られるかもしれないので、すべて回収していくことにした。大きな要塞にいけば、古代の言語に精通した学者に会って解析を頼めるかもしれない。
しかし襲撃者たちに関する情報は何も得られなかった。この野営地は増援との合流地点でしかなかったのだろう。やはり敵の本陣でなければ重要な情報は得られないのかもしれない。仲間たちもそれぞれ手分けして周囲を調べていたが、目立った成果はなかった。
ノノとリリは〈呪霊〉をつかい、呪素の痕跡をたどってくれたが、彼女たちの鋭い感覚でも何も見つけられなかった。戦いに参加しなかった守人のことも気になったが、言い争いを避けるために、あえて相手にすることはしなかった。
炎に照らし出される守人たちの疲れ切った表情が目に入る。彼らもまた、砦に対する襲撃のなかで戦場の悲惨さと残虐さに直面してきたのだろう。卑怯者、あるいは臆病者だと決めつける必要もない。〝彼らは生き残るための最善の選択をしたに過ぎない〟のだから。アリエルはそう自分に言い聞かせることにした。相手にする必要はないのだと。
今は敵の情報を手に入れて、すぐにこの洞窟から離れることが先決だった。もう敵の増援を心配する必要はないが、瘴気と血の臭いは地の底に潜む〈混沌の化け物〉を呼び寄せるかもしれない。
アリエルは深呼吸して気持ちを落ち着かせたあと、敵の装備を手早く回収していく。蛮族の戦士たちには武具が支給されていたが、貴重なものは何もなかった。戦士たちが持参していた粗末な武器も確認できたが、戦闘の激しさに耐えられるような質ではなかった。
蛮族の戦士たちは、使い捨ての駒のように使い潰される運命にあったのかもしれない。襲撃を裏で操っている者たちにとって――それが誰であろうと、戦士たちの命は取るに足らないものでしかなかった。全滅しても構わないという冷酷な意図が透けて見えた。むしろ、反抗的な部族を消し去ることで、反乱の芽を潰すことを狙っていたのかもしれない。
アリエルは周囲を見回しながら考える。〈転移門〉を通ってきた部隊には、兵站の役割を担う者や食料などの物資が確認できなかった。長期的な作戦を考えていなかったのは明らかで、戦士たちの命はただの消耗品だった。彼らは守人と戦わされることも知らず、ただ命令に従って戦場に送り出されたのかもしれない。
戦士たちの無残な死体が足元に散らばるなか、アリエルはその事実に対する怒りと哀れみを感じた。無意味な暴力と死の連鎖が続くこの森で、どれほどの犠牲を払わなければならないのだろうか。この戦いで流された血は、森での過酷な生存競争のためではなく、無情な権力者たちの思惑によって流された血だった。
蛮族の戦士たちも家族や仲間を守るために戦っていたはずだ。しかし、その想いは無残に踏みにじられ、暗く冷たい洞窟で無意味な死を迎えることになった。彼らの命が奪われた真の理由を知ることはできないが、この戦いを指導した者に対して、アリエルは胸の内に憎しみに似た感情が芽生えるのを感じた。




