41
アリエルは見張り櫓を使い敵本陣の監視を行っていたが、しばらくすると姉妹と交替し、短い仮眠を取ることにした。〈境界の砦〉から派遣された守人たちが到着するのは、早くても日が昇るころになるだろう。それまで青年は休息をとることにしたが、妖しげな気配に気がついて目が覚めた。
霧が立ちこめる夜の森は冷たく静まり返っていたが、何か不穏な気配が感じられる。青年はゆっくりと身体を起こし、鋭い視線で周囲を見回した。夜の霧の中に何かが紛れ込んでいる。まだ陣地内に設置した罠は反応していないため、それがどのような存在なのかは分からないが、得体の知れない気配が青年の背筋を冷たく撫でていく。
遺跡内に侵入したのが何者なのかを調べるため、アリエルは慎重に動き出す。足音を立てずに茂みに埋もれた石畳を進み、崩れた神殿の壁に身を潜める。月明かりが霧に乱反射して薄ぼんやりと輝くなか、青年はさらに警戒を強めた。
夜の霧に覆われた遺跡は、しんとした不気味な静寂に包まれている。倒壊した石造りの建物が樹木の根に覆われ、紫の葉を持つ巨木が月明かりを受けて微かに光を発していた。地面に半ば埋もれていた人顔像も、月明かりに照らされて恐ろしげな影を落としていた。
突然、遠くから微かな足音が聞こえた。アリエルは瞬時にその方向に視線を向け、息を潜めながら敵の正体を見極めようとしたが、霧のなかに潜んでいて確認することはできない。ひたひたと裸足の足音が響くなか、何かが石畳を削るような鈍い音が聞こえてくる。
暗闇のなか、肌を刺すような緊張感が張り詰める。青年は視覚と聴覚を研ぎ澄ませながら神殿の陰から出ると、一歩一歩、音が聞こえる方角に向かって慎重に進んでいく。霧が濃くなり、視界がますます悪くなるなか、自らの心臓の鼓動だけが妙に大きく聞こえる。
アリエルは侵入者の正体を探るため、静けさを破らないように注意しながら進み続けた。夜の冷気と不気味な気配が、青年の背に重くのしかかる。ずっと遠くから聞こえる風の音が不安を一層かき立てていく。
異変が起きたのは、その妖しげな気配にもう一歩のところまで近づいたときだった。遺跡の外縁部から低い囁き声が漏れ聞こえ、アリエルは身を低くして音の発生源を探る。足元の濡れた草がひんやりと冷たく、夜の霧は濃く立ち込めて視界を奪う。青年は状況を把握するため、静かに来た道を引き返すことにした。
嫌な緊張感が肌に張りつくなか、遺跡内に敵の斥候が侵入してきたのが分かった。遠くから微かな足音と、金属が擦れる音が響いてくる。アリエルはその音に耳を澄ませながら、崩壊した柱の陰に身を潜めて豹人の姉妹と連絡を取る。彼女たちも敵の侵入に気がついているようだったが、無用な戦闘を避けるため〈念話〉で合図するまで待機してもらう。
木々の間に射し込む月明りが蛮族の姿を浮かび上がらせていく。戦士たちの動きはよく訓練されていて、警戒しながら進んでいることが分かる。
アリエルたちの存在に気がついたとは思えなかったので、ただ偶然に通りかかっただけなのかもしれない。しかし間が悪かった。彼らもまた妖しげな気配に気がついているのか、その足取りは重く、不安が表情にあらわれているようだった。
数人の蛮族によって構成された斥候部隊も、アリエルたちと同じように遺跡内を慎重に探索していく。彼らの目は暗闇に慣れていて、微かな草の動きに反応するほど敏感だった。隊長と思われる大男は、鋭い目つきで周囲を見回し、手にした長槍を構えている。その背後には筋骨隆々とした蛮人たちが控え、鋼鉄の武器が月光に鈍く輝いていた。
アリエルは息を潜め、敵の動きを静かに見守る。遺跡の中の静けさが一層深まり、木々の間に吹き荒ぶ風の音すら聞こえなくなる。その間にも霧はさらに濃くなり、戦士たちの影をぼんやりと浮かび上がらせていく。
もし斥候部隊が彼の存在に気づけば、ここでの戦闘は避けられなくなる。しかし今はまだ隠密行動に徹する必要があったし、陣地を構築したことも知られてはいけなかった。青年は蛮人たちの隙を突いて、別の倒壊した建物の陰に移動した。そこで息を潜め、敵の動きを静かに見守る。
斥候部隊のひとりが足元の枯葉を踏みしめ、森の静寂を破る。アリエルもその音に反応し、妖しげな気配を感じていた方角に素早く視線を向けた。すると何かが音に反応して、霧のなかで一斉に動き出すのが見えた。
戦士は気がついていないのか、手斧を握り締めたまま慎重に歩いていた。他の戦士たちも妖しげな気配に引き寄せられるように暗闇のなかを進んでいく。その背後に不吉な影が接近するのが見えた。夜の森は、その緊張感に満ちた瞬間をただ冷たく見守っていた。
霜のおりた葉がさらさらと音を立て、夜の冷気が森の静けさを一層際立たせる。その音に戦士のひとりが振り向くのが見えた。彼の目の前には月明りに浮かび上がる濃霧だけが存在しているように見えたが、実際には不可視の何かが潜んでいたのだろう。その戦士の眉がわずかに動き、警戒の色が顔に浮かぶ。
突如、戦士の首が横に裂かれ、大量の血液が噴き出すのが見えた。鋭利な刃物で切り裂かれたかのように、彼の首筋から血煙が舞い上がり、月光に照らされて赤黒く輝く。戦士は目を見開き、驚愕と苦痛の表情を浮かべながらドサリと倒れ込む。彼が身につけていた金属の胸当てが石畳に触れる音が霧の中で鈍く響く。
しかしそこで奇妙なことが起きる。すぐ近くにいる彼の仲間は、誰ひとりとしてその音に反応しなかったのだ。そもそも仲間が倒れたことにも気づいていないようだった。
戦士が倒れた瞬間、霧がさらに濃くなり、まるでその場の光景を覆い隠すように広がっていくのが見えた。そうして霧は斥候部隊の視界を完全に奪い、戦士の死体も見えなくしていく。その場にいた者たちは、霧の中で何が起きているのかを把握できず、ただ不気味な静寂の中に取り残される。
アリエルは息を止めながら死体が消えていく様子を見守っていた。異様な緊張感が肌を刺すようにまとわりつき、心臓の鼓動が速まる。やはり何者かがこの霧の中に潜んでいる。青年は毛皮から剣を取り出し、敵の動きに備える。見張り櫓の上では、豹人の姉妹が呪術の準備をしながら、青年に危害が及ばないように注意深く状況を見つめていた。
相変わらず夜の森は深い闇と霧の中で不気味な静寂に包まれていた。遠くで微かに聞こえる木々のざわめきが、不安や緊張感を抱かせる。霧の中に潜む何者かは、次の標的を狙っているのか、動きを見せることはない。しかしその存在は感じ取れる。たしかにソレはそこに――霧のなかに潜んでいるのだ。
月明りのなか、無数の影が揺れ動いている。遺跡の古い柱や倒壊した建物の残骸が、暗闇の中で不気味な形を浮かび上がらせる。その中を、敵の斥候たちが慎重に進んでいく。誰もがその場の異常な雰囲気に気付きながらも、霧の中で何が起こっているのか完全に理解できないまま歩き続けていた。立ち止まることが怖いのだろう。
霧の中で不気味な影が動くのが見えた。氷まじりの風が吹きつけるなか、その影は静かに、しかし確実に遺跡内を歩いていた戦士たちの背後に忍び寄る。
そしてひとり、またひとりと戦士が倒されていく。それはありきたりな現象であるかのように、ごく自然に、無慈悲に行われた。戦士たちは首を裂かれ、胸を貫かれながら一瞬のうちに霧の中にのみ込まれていった。彼らの断末魔の叫びすら聞こえてこない。誰ひとりとして声をあげる間もなく絶命していった。
アリエルもまた、奇妙な気配が背後に忍び寄るのを感じていた。冷たい吐息を耳元に感じとり、その存在が背後にいることを確信させた。しかしその得体の知れない何かは、じっと身を潜めていた青年を見逃すかのように、彼のそばを離れていった。青年は血の凍るような恐怖のなか、ただ息を潜め、動かずにその存在を見送った。
そして森に静寂が戻ってくる。しかしそれは今までの静寂とは異なっていた。森そのものが息をひそめているかのような重苦しさは消えていた。そしてあの得体の知れない気配は、霧を伴って森の奥深くに去ってしまった。霧が薄れていくなか、アリエルはゆっくりと周囲を見回したが、そこには何も残っていなかった。
蛮人たちの死体さえも、霧とともに消え去っていた。まるで彼らが最初から存在しなかったかのように、その痕跡すら消されてしまった。アリエルは剣を握り締めたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
遠くからフクロウの鳴き声が聞こえ、つめたい風がそっと頬を撫でるまで、青年は動くことができなかった。それは森に潜む異次元の存在、あるいは死そのものだったのかもしれない。




