06
すでに昼食の時間が過ぎているからなのか、食堂に守人たちの姿はなく、暖炉の側で談笑する世話人を数人見かけるだけだった。世話人たちは食堂に入ってくる〈黒の戦士〉を目にして眉をしかめたが、そのなかにアリエルの姿を見つけると、すぐに昼食を用意すると声を掛けて調理場に向かった。
境界の砦で〈世話人〉と呼ばれる人々は、基本的に守人の親族にあたる人物で、砦で過酷な任務に就く守人たちの身の回りの世話を行っている。かれらの仕事は多岐にわたり、毎日の食事を調理してくれる者や、衣類の洗濯や毛布の交換、砦の掃除などを担当する者たちがいる。その他にも駄獣の世話や、物資を管理している者たちがいる。
もちろん世話人は無償で働いているわけではない。働きに応じて組織から少額の金銭と、村に残してきた家族が生活できるだけの物資などが支給されている。
まるで出稼ぎ労働者のように、かれらは砦の近くにある村からやってきて交替で仕事に就いている。砦から村までは歩いて三日ほどの距離があり、砦にやってきた世話人の多くは基本的に数か月の間、守人たちと一緒に砦で生活することになる。だからなのか、世話人と親しくなる守人もいて仕事環境は決して悪くない。
しかし守人の栄光は過去のモノだ。今では名誉を重んじることのない犯罪者や無法者の集まりに成り下がっているため、世話人の多くは男性で、女性や子どもが砦に働きにくることはない。過去に女性たちを強姦したり、女性問題を発端とした兄弟同士の揉め事で殺人に発展したりと、悲惨な事件が頻繁に起きていたので、それを防ぐためにも必要な処置だった。
ちなみに兄弟同士の喧嘩であれば、数日の間、地下牢に放り込まれる程度の罰で済むが、世話人を傷つけてしまう、あるいは兄弟を手に掛けてしまった場合――情状酌量の余地がある者を除いて、周辺一帯で最も危険とされる〈混沌の領域〉が存在する〈獣の森〉を監視する任務に就かされ、砦に戻ってくることが許されない。
そして多くの場合、かれらはそこで悲惨な最期を迎えることになる。殺人を重い罪と思わない非道徳的な無法者の集団に対して、あまりにも厳しい罰に思えるが、こうでもしなければ境界の砦の秩序が保てなくなるのだ。
黒衣を身につけたアリエルが長椅子に座ると、ウアセル・フォレリは彼と向かい合うようにして椅子に座る。青年を護衛していた〈黒の戦士〉は無言で彼の背後に立ち、周囲に厳しい目を向ける。
砦は比較的安全な場所だったが、〈黒の戦士〉は仕事に妥協することがない。かれらは自分たちに与えられた役割を忠実に遂行することを求められ、それを実行する能力を持っていた。
その戦士たちの厳しい目に緊張しながら世話人が料理を運んでくると、アリエルは世話人に感謝の言葉を口にしたあと、骨付き鶏肉を手づかみで食べ始めた。とにかく腹が空いていて、食欲をそそる香りに我慢ができなかった。
友人の様子をにこやかに眺めていたウアセル・フォレリの前にも、木皿が並べられていく。彼は料理に口をつけるつもりはなかったが、礼儀を重んじる青年は世話人の厚意を受けることにした。彼は神々に対して感謝の言葉を口にしたあと、ナイフと金属製の古びたフォークを使いながら、香辛料で味付けされた腸詰を切り分けていく。
それを見たアリエルは眉を寄せ、それから肉汁でベタベタになった自分の手を見つめる。
「君、ここは世界の果てだぜ」と、ウアセル・フォレリは肉を味わいながら言う。「誰かの目を気にして、お上品に食べる必要なんてない。もちろん、僕の目だって気にする必要はないんだ」
青年の言葉にアリエルは肩をすくめ、それから薄汚れた雑巾を使って適当に手を拭いたあと、ナイフと歯が欠けたフォークを手に取る。ウアセル・フォレリにナイフの使い方を教わっていたが、その手つきはぎこちない。やがて諦めたのか、自分のやり方でナイフを使い始めた。
「ところで」と、アリエルは深紅の瞳を明滅させる。
「大事な話があるんだ」
「わかっているさ」ウアセル・フォレリは微笑み、それから温かい蜂蜜酒が入った木製の器を手に取る。「でもその前に、戦から無事に戻ってきた親友のために乾杯をしてもいいかい?」
「もちろん」
アリエルが器を手に取ると、ウアセル・フォレリは目の高さまで器を掲げる。「偉大な戦士の帰還に」それから青年は酒をぐっと飲み干した。
「間抜けな戦士の帰還に」アリエルはムスっとした表情で酒を喉の奥に流し込んだ。
「ずいぶん自虐的だね。なにか嫌なことでもあったのかい?」
「〈神々の遺物〉は見つけられなかったんだ」
青年は注意深く周囲を見回してから言った。
「ねぇ、君。その話題は別の場所で話したほうがいいと思わないか」
「どうして?」
「複雑で込み入った話題だからだよ。僕たちの密かな企みが知られたら、どうなると思う」
「たしかに……」と、アリエルは料理に視線を落とす。「遺物のことは商人たちの間でも噂になっていたから、油断してた」
「その噂なら僕も聞いたよ」ウアセル・フォレリは食堂に入ってきたルズィのことを、鋭い視線で追いながら言う。「遺跡を調査したときに同行していた商人から情報が漏れたみたいだね」
「らしくないな」と、ふたりの側にやってきたルズィが蜂蜜酒を注ぎながら言う。「そんな簡単な間違いを犯すなんて、まったくお前らしくない」
「僕も人の子だよ。間違いくらい犯すさ」
「人の子ね……」ルズィは薄笑いを浮かべて、それから言った。
「けど、その間違いの代償は高くついたみたいだ」
「ああ、失敗したことは認めるよ」と、ウアセル・フォレリは溜息をついた。「まさか僕の隊商に首長の密偵が紛れ込むなんて、想像すらしていなかったよ」
その言葉を俺が信じると本気で思っているのか? ルズィは酒の器を傾け、表情を隠しながら思った。優秀な行商人と戦士を森のあちこちに派遣して、首長の軍にも劣らない情報網を持つ〈黒い人々〉が、そんな簡単な間違いを犯すはずがない。
けれどそれは、この場で言い争う話題でもなかった。たしかに遺物に関する話題は砦で話すには繊細な問題で、些か耳が多すぎる。
ルズィは強いて笑顔を作ってから言った。
「でもとにかく、首長が本気で遺物を探していることは分かった」
「そうだね」ウアセル・フォレリは自然な笑みを作り、ルズィの言葉に返事をした。「それに、これで遺物が存在していることは証明できた」
「証明……というと?」
「首長は強力な呪術師を抱えている。そしてかれらの多くは名家の出身で、森の秘密を抱えている家もある」
「そいつらが首長の遺物探しに協力していると?」
「ああ、間違いない」
「でもどうして今なんだ?」
「それは分からない」ウアセル・フォレリは頭を横に振ると、綺麗に切り分けられた腸詰を口に放り込む。
ふたりの話を黙って聞いていたアリエルは、蜂蜜酒をチビチビ飲みながら、とにかく肉で腹を満たしていく。檻に入っているときには、肉や野菜が入っていない汁物しか飲ませてもらえなかったので空腹だった。そして空腹ほど恐ろしいものはない。食べられるときにしっかりと食べないと、守人として任務を遂行するのは難しい。
ルズィはしばらくの間、アリエルがげっ歯類のように頬を膨らませる様子を見ていたが、やがて思い出したように言った。
「そう言えば、娼館のことを聞いたぞ」
「耳が早いんだね」と、青年は褐色の綺麗な手で酒を注ぎながら言う。
「ここは辺境だからな、守人は娯楽に飢えているのさ」
素っ気なく答えるルズィを見ながら、青年は表情の見えない笑顔で言った。
「村の娼館に手を加えて、僕たちだけで〝大事な話〟ができる場所を設けたんだ。これから必要になると思ってね」
「村で若くて綺麗な女を見るようになったって聞いたけど」
「ああ、君の興味はそっちか」
「ほかにどんなことに興味を持てと?」
ウアセル・フォレリは肩をすくめた。
「さっそく君たちを僕の娼館に招待しようと考えていたんだ。聖地で何を見てきたのか、非常に興味がある」
「そいつは嬉しいお誘いだけど」と、ルズィは本気で落ち込みながら言う。
「俺たちは砦に戻ってきたばかりだから、あと数週間は休みがもらえない」
「そのことなら心配しなくても大丈夫」と、青年は肉を頬張るアリエルに向かって微笑みながら言う。「君たちを僕の護衛につけてくれるように頼んだんだ」
「大将は真面目な人だ。そんなことを許すはずがない」
「物資と引き換えに許可してくれたよ」
「聞いたか、エル!」と、ルズィは今日一番の笑顔をみせた。
「久しぶりに女が抱けるぞ!」
「ねぇ、君」ウアセル・フォレリは溜息をついた。
「ほかに考えることはないのかい?」