36〈剥ぎ取り〉
薄暗い森のなか、アリエルとラライアは林立する木々の間を駆け抜けていく。かれらに与えられた任務はふたつ。襲撃者たちの本隊を見つけ出すこと、そして瘴気を放つ化け物の死骸を焼却すること。このふたつの任務を素早く達成するため、オオカミは静寂を破る一陣の風のように森のなかを疾走していた。
日が昇り始めるとともに気温が上がり、腐敗した死骸に群がる蠅や得体の知れない昆虫が目に入るようになっていた。肉塊に群がる蠅の羽音が耳に残り、腐臭が鼻を突く。〈虫除けの護符〉を使用していたにも拘わらず、小さな羽虫が容赦なく襲いかかり、鼻や口に飛び込んできた。
そのたびにアリエルは顔をしかめ、手で払いのけていたがあまり効果はなかった。仕方なく首に巻いていた布を使い口元を覆う。微かに染み付いた汗と血の臭いが鼻孔を刺激するが、羽虫の侵入を防ぐためなので我慢する。そうしてオオカミの背中で姿勢を保ちながら森の奥へと進んでいく。
木々の間を縫うように走るラライアの動きは優雅で、地面を蹴る音はほとんど聞こえない。足音すら敵に気取られることなく、彼女はひたすら目的地を目指して進んでいた。日が高くなるにつれて森の中は湿度を増し、蒸し暑さが一層感じられるようになった。
いくつもの異界の領域が交錯する〈獣の森〉では、気候は狂ったように変わり続け、季節の概念が失われていた。気温や湿度が変動するなか、そこで活動する生物も多様化していた。木々の間を進むアリエルたちの目に映るのは、季節を問わず活動する爬虫類や昆虫の群れだった。
地面を這う小さな昆虫は非常に危険で――親指の爪ほどの小さな昆虫でも触れることは避けなければいけない。多くの場合、人々を死にいたらしめる毒を有しているからだ。噛まれてしまえば、その毒は瞬く間に血液を腐らせ、じわじわと苦痛を与えながら死に導く。毒の作用は残酷で、犠牲者は激しい苦痛の中で命を落とすことになる。
樹木の幹に擬態する蜥蜴も同様だ。その身体は緑の苔に覆われていて、一見すれば樹皮と見分けがつかないし危険性はないように思えるが、その鱗に触れるだけで毒が皮膚に浸透し全身に行き渡る。筋肉の痙攣と呼吸困難、そして寒気の中でゆるやかな死を迎える。
枝葉に群れる毛虫もまた、見逃せない危険な存在だった。身体中に生えた細い毛には猛毒が含まれていて、触れただけで強烈な痛みと炎症を引き起こす。毛虫に触れた箇所は爛れ、ひどい場合には高熱で命を落とすこともある。とくに人間は素肌をさらしていることが多く、毛皮や鱗で覆われている豹人や蜥蜴人と異なるため、非常に危険な存在になっていた。
通常の生物は極彩色の体表で危険だと警告してくれていたが、混沌由来の生物の多くは地味で、見つけることすら困難だった。そのため、どんなに小さな生物でも決して無視することはできなかった。
ラライアも昆虫の危険性について熟知しているので、昆虫が大量発生している場所を注意深く避けながら進んでいく。アリエルは彼女の背に乗り周囲を警戒しつつも、呪素の痕跡を探していた。
風が木々の間を吹き抜け、遠くから怪鳥の鳴き声が聞こえるなか、ラライアは吐き気を催す腐敗臭を嗅ぎ取る。数時間前に殺した〈幻翅百足〉の死骸を見つけたようだ。
茂みの向こうに化け物の巨体が横たわっているのが見える。頭部が破裂し、身体は異様な角度でねじれていた。すでに腐敗が進んでいて、黒ずんだ血液と腐敗液が地面に広がっていた。その周囲には微かな瘴気が漂い、濃紫色の煙が立っているように見えた。
このまま放置すれば瘴気は森の生態系を更に歪め、新たな化け物を生み出す温床になるかもしれない。早急な対処が必要だった。アリエルはラライアに感謝したあと、その背から飛び降りて周囲に目を配った。死骸を焼却するためには、まず瘴気を払わなければならない。
青年は〈気配察知〉の能力を使いながら、慎重に周囲の状況を確認する。異様な静寂のなか、危険な生物や敵の気配は感じられなかった。しかしいつ何が起こるか分からない戦場では、一瞬の隙が命取りになるので、警戒しながら死骸に近づく。
砦を出るときにノノに手渡されていた〈護符〉を取り出すと、慎重にムカデの化け物に接近する。周囲には親指大の蠅が飛び交い、その羽音が不気味さを助長していた。アリエルはその異様な光景に眉をひそめつつも、黒光りする外骨格に手を伸ばし、〈浄化の護符〉を貼り付けていく。
やがて護符は青白い炎に包まれ、淡い光を発しながら瘴気を払っていく。護符が次々と灰に変わり、瘴気が薄れていくことを確認すると青年はホッとひと息ついた。
すでに死骸の焼却作業を始めても問題がなかったが、青年はムカデの死骸から貴重な素材を回収することにした。蠅が群がる巨体を解体するのは大変な仕事だったが、上手くいけば利用価値のある部位を入手することができる。ラライアに周囲の警戒を続けるように頼んだあと、青年は蛮人の死体から回収していた小刀を取り出す。
ムカデの黒光りする外殻は堅固な鎧のようだった。その表面に注意しながら触れると、冷たい感触が指先に伝わる。この外骨格は、太刀の一撃や強力な呪術さえも弾いて無効化していたので、鎧だけでなく、斧の刃など装備の素材として活用できるかもしれない。硬い外殻の隙間に小刀を突き刺し、肉に切れ込みを入れていく。
短剣の刃が外骨格の隙間に食い込み、微かな音を立てながら薄皮が切り裂かれていく。少しずつ剥ぎ取られていく外殻の下からは、腐敗が進んだ黄土色の肉が露出し、鼻をつく強烈な悪臭が漂ってくる。アリエルは顔をしかめながらも手を止めず、外殻を一枚一枚丁寧に剥ぎ取っていく。
その過程で腐敗液が溢れ出し、手にまとわりつく。液体は粘り気があり、呪術によって手の表面を保護しているにも拘わらず、焼けるような痛みを感じた。
化け物を解体するために使用していた小刀の刃もすぐにダメになり、そのたびに回収していた別の小刀を使う必要があった。死肉に群がる昆虫も厄介で、羽虫で視界が覆われることもあった。
素材になる部位を剥ぎ取る作業は時間がかかるだけでなく、手間もかかる。しかしそれだけの価値がある。青年は丁寧に外殻を剥ぎ取り、〈呪術器〉でもある水筒を使い、付着していた血液や肉片を洗い落していく。そのうちのいくつかは驚くほどの厚みがあり、まともに戦っていたら倒すことすら困難だったと感じるほどだった。
その殻を積み上げたあと、ムカデの翅に目を向けた。これらの翅は〈幻翅百足〉が狩りをするさい、獲物に奇妙な幻を見せ、その精神を操るために使われる器官だと知られていた。であるなら、呪術の効果を付与する素材としても使えるかもしれない。青年は翅の根元に短剣を当て、慎重に斬り取っていく。
半透明の翅は光にかざすと微妙に色が変化する。胴体から切り離すさい、翅の基部から薄い体液が滲み出し、その液体が地面に滴り落ちるたびに、かすかな光を放つのが見えた。翅だけでなく、体液にも秘密があるのかもしれない。青年はその不気味な美しさに一瞬心を奪われたが、すぐに作業に集中して体液も瓶につめて回収する。
それから回収した部位を丁寧に束ねて〈収納空間〉に放り込んでいく。それが終わると、全身に呪素を循環させるための心臓にも似た重要な臓器を回収する。すでに結晶化していたソレは膨大な呪素を含んでいて、赤色の綺麗な宝石にも見えた。これで必要な作業は終わった。粘液にまみれた小刀はダメになっていたので、他のモノと一緒に焼却する。
解体作業を終えると、焼却するための準備に取りかかる。アリエルはルズィやリリのように炎の呪術は得意ではなかったが、〈呪符〉を使うので、問題なく焼却することができるだろう。その〈呪符〉は非常に高い温度を瞬間的に発生させるので、ムカデの死骸を完全に焼き尽くすことができる。
ラライアに声をかけたあと、数枚の〈呪符〉を死骸に貼り付けていく。薄い紙なので、化け物の血液でダメにならないように適切な箇所に貼り付ける必要があった。それが終わると深呼吸して、手のひらに呪素を集め、そっと〈呪符〉に触れた。つぎの瞬間、〈呪符〉が青白い光を放つようになり、やがて激しい熱を伴う炎が爆発的に生じていく。
その炎は瞬く間にムカデの死骸を包み込み、腐敗した肉と臓物を猛烈な熱で焼き尽くしていった。炎の中で割れた外殻が黒く焦げ、肉が炭と化していく。辺りには悪臭が立ち込め、黒煙が立ち昇っていく。しかし焼却が完全に終わるまで見届けなければいけなかった。
アリエルはその場に静かに立ち尽くしていた。化け物の死骸が燃えていく光景に彼は安堵していたが、すぐにつぎの行動に移らなければいけない。
腰に吊るした水筒に手を伸ばして栓をひねると、冷たい水が勢いよく流れ出た。その水筒は〈呪術器〉なので、大気中の水分を集めて大量の水を確保できる仕組みになっていた。戦場では貴重なモノで、ある意味では生死を分ける道具でもあった。
清水が泥と血液に混じりながら流れていくのをじっと見つめる。水は冷たく、その清涼感は青年の疲れた心を癒やしてくれる。しかし汚れは頑固に指先にこびりついている。手をこすり合わせ、爪の間に入り込んだ血と泥を落とそうとするが、汚れはなかなか取れなかった。血に濡れた手を濯ぐのは難しい。
適当に身体を清めたあと、煙で鼻がダメにならないように距離を取って待ってくれていたラライアと合流し、つぎの任務に移行することにした。




