04
いつからか繰り返し同じ夢を見るようになった。
硬い床に寝そべって瞼を閉じていると、魂だけが底無しの暗闇に向かってストンと落ちていくような感覚がした。その場所は冷たくて暗い、どこまで行っても果てのない空間だった。けれどそれが錯覚だということも理解していた。
アリエルは自分自身が〈境界の砦〉の地下牢で横になっていて、黒光りする甲虫が餌にありつこうと身体の上を這いずり回っていることも、半透明の翅を持った臆病な昆虫の羽音が近づいたり遠ざかったりしていることもしっかりと分かっていた。
けれど夢とも幻ともつかない曖昧模糊とした意識に、どこからか漂ってくる現実味を帯びた死臭だけは、牢獄に満ちる暗闇に溶け込んで夢のなかにまで潜り込んでくるような気がした。
その夢は止めどなく流れる川のように、様々な感情を運んできては、静かに通り過ぎていった。けれどアリエルにはその感情に向き合う能力はなかった。その感情が意味することも分からなかったのだ。
流れと共にやってくる感情を捕まえようとして、青年は慌てて水面を覗き込む。だけどそのときには、すでに見知った感情は存在しない。物悲しい喪失感だけが流れている。
だからアリエルは夢を見るのが嫌いだった。
夢には行き場のない気持ちが渦巻いている。慈しみや悲しみ、そして怒りで胸を焦がす憎しみと共に郷愁が溢れる。そういった感情は、夢が去ったあとにも心のずっと深い場所に留まり、ふとした瞬間に心を震わせる。
そして青年は行き場のない感情を抱いたまま、暗く冷たい世界を彷徨うことになる。けれどその感情すらも、硬く冷たい鉄格子で隔てられた外の世界に彼を連れ出してくれることはなかった。籠のなかの小鳥のように、あるいは森に根を張る樹木のように、それらの感情はどこまでも無力だった。
いつも決まって同じ夢を見る。登場人物は同じで結末も変わらない。でも、あの瞬間に感じる喪失感や、無力で何もできない自分自身に対して抱く絶望感は変わることがない。
『行かないでくれ』と、感情の昂りと共に涙が溢れて声が震える。
『まだ伝えたいことがあるんだ』
扉を背にした女性は優しく微笑むと、躊躇いをみせながらアリエルの頬にそっと触れる。それは指先に止まった蝶のように儚げで、今にも壊れてしまいそうなほど弱々しい。
『何も心配する必要はありません』と、彼女は悲哀に満ちた声で言う。
アリエルは言葉が話せず、瞬きだけで答える。それを見た彼女は微笑み、それから何かを口にした。でも彼女の声は彼の耳に届かない。彼女が重たい扉の向こうに消えると、重々しい音と共に扉が施錠される。
いつも同じ夢を見る。
夢のなかでは多くのことが変化する。時代や場所、彼女の姿も変化した。髪の色や瞳の色も、肌の色も変わる。でも〝結末〟だけは、どうしても変えることができなかった。
暗くて狭い部屋の先に大きな扉が見える。扉の向こうからは、人の悲鳴や金属が擦れる音が聞こえてくる。でも彼女の最後の言葉だけは聞こえない。そしてアリエルの声も彼女には届かない。
扉が閉まると、アリエルは追いすがるように何度も扉を叩く。彼女の名前を叫びながら、何度も何度も扉を叩く。でも目が覚めると、彼女の名前はおろか、彼女との記憶もどこかに消えてしまう。理由は分からなかったが、彼女のことを想うと青年はひどく悲しくなった。そして手の痛みが何日も残ることになる。だから彼女の夢はもう見たくなかった。
■
「エル、起きろ……おい、アリエル。いい加減に目を覚ませ」
聞き慣れた声で瞼を開くと、蝋燭の弱々しい灯りに照らされた薄暗い天井が見えた。
「どうしたんだ」と、青年は上半身をゆっくり起こしながら言う。
「何を慌てている」
「そりゃ慌てるさ、今日は商人が砦にやってくる日だ。忘れたのか?」
「商人……〈黒い人々〉のことか?」
「そうだ。連中の気配を感じなかったのか」
黒髪の青年はそう言うと、ニヤリと口の端に笑みを浮かべる。そのさい、彼の金色の瞳が薄闇のなかで微かに発光するのが見えた。
ルズィの言葉にアリエルは頭を振りながら答えた。
「忘れたのか、俺は呪術の流れを阻害する特殊な合金でつくられた檻のなかにいるんだ。黒い人々の気配どころか、自分の血に宿る力すら、まともに使うことができないんだ」
「呪術封じの檻がなんだって言うんだ。いいからさっさとそこから出てこいよ」
「無理だ。地下牢を管理しているツナヨシがいないと、ここから出られない決まりだ」
「ったく、真面目な奴だな……」と、ルズィは舌打ちする。
「真面目も何も、鍵がなければ檻から出られないだろ」
アリエルの言葉に彼は眉を寄せ、それから素っ気無く言った。
「ここで待ってろ、ツナヨシを捜してくる」
「ああ、俺は〝どこにも〟行かないよ」と青年は苦笑する。
鉄格子に触れないように注意しながら、ルズィが薄暗い通路を駆けていくのを眺める。それから青年は凝り固まっていた筋肉をほぐすように、ゆっくり身体を伸ばしていく。狭い檻のなかでは身体を伸ばして眠ることもできないので、目覚めたあとに柔軟運動を行うのが日課になっていた。
運動を終えようとしていると、重たい足音が聞こえてくる。ルズィは人間の平均的な戦士よりも背が高いが、彼のとなりでノシノシと歩いていた大男は、ルズィよりもずっと大きな身体を持っていた。
鉄格子の間から通路を覗き込むと、赤黒い肌を持ったツナヨシの姿が見えた。かれは森で栄えた〈最初の人々〉と〈古の妖魔〉に連なる〝土鬼〟と呼ばれる種族で、額に生えたツノと肌色以外は、普通の人間とほとんど変わらない容姿をしているが、蜥蜴人よりも大きな身体に逞しい筋肉を持っているのが特徴的だった。
「おい、ツナヨシを連れてきたぞ」
ルズィがそう言うと、ツナヨシと呼ばれた大男は腰に吊るしていた鍵束を弄りながら檻に近づいてくる。
土鬼には強力な呪術を使いこなせるだけの能力が備わっているが、ツナヨシは例外だった。彼の運動能力と筋肉に勝るものはないが、呪術だけは別だ。かれは身体能力を一時的に強化する呪術すら苦手としていた。それが関係しているのかは分からなかったが、呪術封じの檻に触れても身体機能に障害が発生することはなかった。
ツナヨシは大きな手で鉄格子を掴むと、ゆっくりと檻を開いていった。
「エル、でろ」と彼はしゃがれ声で言う。
「ありがとう、ツナ。ところで、腕の調子はどうだ?」
「まだいたむ。でも、だいじょうぶ」
「そうか……でも無理するなよ」
この砦で奴隷のように働かされている守人たちのほとんどが、一度は世話になる地下牢の管理を任されているツナヨシは、生来の才能とも思えるほどに気立てが良く、甲斐甲斐しく皆の世話を焼いてくれている。
しかしときにはそれが裏目に出ることもある。見習いたちの護衛として〝狩り〟に同行していたツナヨシは、見習いのひとりを庇って腕にひどい怪我を負っていた。幸いなことに、砦には治癒士がいるので大事に至らなかったが、これからはツナヨシのことも気にかけなければいけないと思うような出来事だった。
「エル、からだ、あらえ。すこし、におう」
ツナヨシの言葉に青年は顔をしかめて、それから身につけていたボロ切れに視線を落とした。黄ばんで変色した布からは、たしかに嫌な臭いが漂っていた。
「そうだな。これから商人に会うんだから、せめて身体を清めないといけない」
「そこ、みずおけ、ある。ちゃんとあらえ」
「ああ、わかった」
ツナヨシに感謝したあと、ルズィを連れて狭い部屋に入っていく。部屋の隅には樽のように大きな水瓶が並び、木製の桶が浮かんでいるのが見えた。
「どうして俺も一緒に身体を洗うんだ」と、ルズィは黒衣を脱ぎ捨てながら言う。
「ルズィも商人に会って話を聞くんだろ?」
アリエルはそう言うと、木製の桶で水をすくい身体にかける。
「そうだけど、俺はお前のように檻に入ってなかった」
「でも砂まみれだ」
「訓練してたんだよ。それより、ラファが責任を感じていたぞ」
「別に気にしなくてもいいのに。あの馬鹿に手を出したのは俺の意思だ」
「その馬鹿は頭を割られて、この数日、まともに話をすることすらできなくなっていたけどな」
「てっきり死んだかと思ったよ」
「本気で言ってるのか」
ルズィはアリエルを睨んだが、彼は水につけた布で身体を拭きながら平然とした顔で返事をした。
「ああ、たとえ兄弟でも、言っちゃいけないことがある」
「女たちのことを言われたのが、そんなに気にいらなかったのか」
「彼女たちは娼婦なんかじゃない」
思い出しただけでも怒りがこみあげてきたのか、アリエルは耳を真っ赤にする。目の前で家族を殺されて神殿の地下に閉じ込められて、奴隷のような扱いを受けていた彼女たちの境遇を知っているからこそ、彼は怒っていたのだろう。けれどそれは兄弟たちに関係のないことだった。
「そうだ。娼婦じゃない。でも、だからって兄弟の頭をかち割る理由にはならない」
親友の言葉にアリエルはムスッとした表情で黙り込むと、年相応に不貞腐れてみせた。
それを見てルズィは思わず溜息をついた。孤児は他の子どもたちよりも精神的に成熟するのが早いと言われているが、それは間違っていないのだろう。かれらは過酷な世界で生きるために成長を強いられるのだ。
それは思慮深い一面を持つアリエルも同様だった。しかしそれでも彼は経験の浅い子どもでしかなかった。ときには感情を制御できなくなる。
そして厄介なことに、彼は大人たちよりも優れた戦闘能力を持ち、そして呪術の扱いに長けていた。武器を手にした無邪気な子どもほど恐ろしいものはない。それが精神的に不安定な子どもなら、尚のことだ。
「もういいから、ちゃんと身体を洗え」