18
アリエルたちは鬱蒼とした密林の奥深くに入り込み、襲撃者に注意しながら歩を進めていた。戦場になった森の中では、あちこちに敵の無残な死体が横たわり、その姿は凄惨で陰鬱な光景をつくりだしていた。
ここでは鳥や昆虫の鳴き声すら聞こえてこない。森は背筋が冷たくなるような静寂に支配され、その中に何かが潜んでいるような重苦しい空気が漂っていた。呪術師との戦闘のあとだからなのか、異常なほど神経が昂っているのかもしれない。
苔生した木々の間を縫うように進むうち、豹人の姉妹は薄闇のなかに得体の知れない存在が潜んでいる気配を感じ取る。警戒心を強めながら進むと、木々の向こうに影がひとつ、またひとつとあらわれ始めた。敵の斥候が――あるいは暗部の人間が近くまで来ているのかもしれない。彼女たちは武器を構え、その影の正体を確かめようとする。
けれどすぐにアリエルに止められる。姉妹は知らなかったが、近くに〈先兵の風穴〉と呼ばれる危険な領域があるようだ。森に漂う血肉の臭いに引き寄せられた食屍鬼が、近くまでやってきているのかもしれない。その多くが〈混沌の領域〉から際限なく這い出てくるため、刺激しないように通り過ぎることが得策なのだと聞かされる。
『こちら側の世界に干渉する混沌の化け物ですか……』
ノノは顔をしかめたあと、青年の指示に従い別の道を進む。
戦闘の最前線になっていた場所を歩いていると、戦士たちの怒りや怨念が瘴気のように周辺一帯に満ちているのが感じられた。死体の顔には苦悶の表情が残り、残忍な戦いの痕跡が全身に刻まれていた。森に生息する混沌の化け物の仕業なのだろう。辺りには錆びた鉄の臭いが立ち込めていて、その中で死者の声が響いているような錯覚がする。
アリエルはその身に宿る力を利用して、戦士たちの〝魂の残滓〟とも呼べるモノを取り込んでいく。拷問され無残に殺された女性と異なり、そこに横たわる戦士たちは自ら望んで戦闘に参加し、守人の砦を攻撃したのだ。どれほど残酷な結果になろうとも、彼らに慈悲を与えるつもりはなかった。
豹人の姉妹には死者の怨念や怒りによって形成されたモノは見えなかったが、アリエルはソレに向かって手を伸ばし、〈死者の影〉を引き寄せるようにしてその身に取り込んでいく。それらの虚ろな影は、生者の存在しない闇の領域へと導かれていく。そして螺旋階段の間に並べられた石棺が、その魂を受け入れるための唯一の器となる。
青年の意志によって〈死者の影〉は石棺の中に閉じ込められ、そして憎しみと怒りを孕んだまま解放されるその時がくるのを待つことになる。
ふと奇妙な物音が茂みの奥から聞こえるようになる。最初は微かな物音だったが、それは徐々に大きくなっていく。アリエルたちその音に注意を向け、慎重に物音が聞こえてきた方向に進む。やがて茂みの向こうに無数の黒い影が見えた。それらの影は戦士たちの死体の周囲に集まり、その死体をクチャクチャと貪り食っているようだった。
ソレは人よりも大きな身体を持つ猿に似た化け物で、黒みがかった茶色の体毛を血に染めながら、戦士たちの死体を解体しているように見えた。興奮しているのか、恐ろしい牙を剥き出しにして、死体の間を跳ね回りながら骨を砕いている姿も見られた。
獣の赤い眼は飢えと凶暴性に満ちていて、この森では敵対する部族だけでなく、自然そのものが脅威になることを改めて思いしらされる。その猿に似た化け物は、夜の闇に潜んで獲物を待ち伏せる習性を持っていた。知能が高く、拾った武器を使うこともあれば、獲物を捕らえるために罠を仕掛けることもある。人間にも引けを取らない狡猾な生物だ。
しかしそれよりも厄介なことは、その化け物が〈混沌の領域〉からやって来たということだ。彼らは大気中の呪素を体内に取り込み、それを全身に循環させ、肉体を強化する術を生まれながらにして身につけていた。そのため、森に生息する野生の捕食者よりも遥かに手強い相手となっていた。
また月明かりのない夜に活動することが多く、知識を求めるかのように人の脳を好んで食べることでも知られていた。その恐るべき外見と凶暴性は、〈獣の森〉で監視任務を行う守人の脅威になっていた。
その守人たちの間で〈闇猿〉として知られる個体はとくに危険で、漆黒の毛皮が全身を覆い、その毛並みは光を吸収しているかのように暗く底がない。通常の個体よりも身のこなしが俊敏で力強く、その赤い瞳には凶暴さだけでなく知性すら感じさせた。
基本的に群れる生物なので、戦闘は避けたほうがいいのかもしれない。アリエルはそう判断すると、茂みのなかを慎重に進みながら化け物の群れから離れていく。が、そこで群れに異変が起きる。死体を貪っていた数十体の化け物のうちの何体かが、死体の取り合いになり、突如として凶暴な本性を剥き出しにする。
荒々しい咆哮が木々の間に木霊するなか、毛むくじゃらの獣は力任せに死体を引き裂いて、骨を割って中の髄を啜り取る。それが気に入らないのか、生温かい内臓を口にしていた別の獣は千切れた腕を投げつける。そうして意味のない争いが始まった。実際のところ、それは必要のない争いだった。死体ならいくらでも手に入るのだから。
食料を巡る争いの中で、生々しい血の臭いが空気中に充満し、腐臭が鼻を刺激するようになる。それぞれが死体の一部を持ち帰ろうとして、死体に齧りつき、鋭い爪や牙で互いを傷つけていく。荒れ狂う争いの中、死体はゆっくりと皮膚を剥かれ、肉を引き裂かれ、まだ生温かい内臓が引きずり出されていく。
血しぶきが飛び散るなか、凶暴な〈闇猿〉たちが不吉な赤い瞳を明滅させながらやってくると、争っていた個体を攻撃するようになる。その狂気に満ちた殺し合いは、悲劇的な幕引きを迎えることになった。獲物を取り合っていた最後の一体が倒れ、その呼吸が止まると、森は静寂に包まれていく。しかしこの静けさは、さらなる恐怖を予感させた。
争いを終わらせた〈闇猿〉は、己の牙で殺した仲間の身体を貪り始めた。漆黒の体毛は血に濡れ、糸を引く血液が滴り落ちていく。この狂気に満ちた光景を目にしながら、アリエルたちは安全な場所まで移動する。その間も〈闇猿〉は死体を傷つけ、ドロドロした液体にまみれていく。
森の奥深くでは、つねに生存競争が渦巻いているのだという事実を痛烈に感じ取ることができた。死と暴力が支配するこの森で仲間たちが直面しているであろう困難を思うと、アリエルはますます焦り不安になっていく。
ベレグとラファは優秀な守人であり、ある意味では化け物を狩る専門家でもあったが、それでも戦闘の影響で興奮していた化け物の群れを相手にするのは無理がある。砦を襲撃していた蛮族の戦士たちが流した大量の血は、化け物をより凶暴に、そして危険な存在に変えていた。
そのふたりが最後に目撃された場所に到着したが、周囲には大量の死体が残されているだけで、ふたりを追うための手掛かりは見つけられなかった。激しい戦闘が行われたのだろう。守人の遺体だけでなく、戦狼の巨体が横たわっているのも確認できた。強力な呪術師が戦闘に参加していたのかもしれない。
薙ぎ倒された木々の間を歩いて地面が隆起した場所まで歩いていくと、地走りの死骸を見つける。その巨体は凄まじい力で捩じ切られたかのようにして引き裂かされていた。やはり手練れの呪術師がいたのだろう。
そもそも広範囲に亘って〈念話〉を妨害するような大規模な呪術が使われているのだ。呪術師の精鋭部隊が戦闘に参加していても何もおかしくない。手分けしてベレグたちの手掛かりを探していると、ノノの〈気配察知〉が怪しげな動きを捉える。




