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アリエルは瞼を閉じると、〝静水のように〟心を落ち着かせ、そして目を開いて呪術師の攻撃に備える。敵は突風のように迫ってきていたが、かれは精神を研ぎ澄ませ、深紅に明滅する鋭い瞳で敵の動きを追っていた。
そして青年は上段に剣を構えたまま、その時が来るのを〝ただ待つ〟ことにした。間合いが詰まり、呪術師が攻撃のために枯れ枝のような腕を持ち上げるのが見えた。その瞬間、心臓が激しく高鳴る。そしてアリエルは一切の躊躇いなく、上段にかまえていた剣を振り下ろした。
鋸歯状の刃が空を斬り裂き、呪術師の頭部が縦に切り裂かれるのが見えた。しかし手応えはなく、生温かい血液が飛び散ることもなかった。敵は霧のように霧散し、アリエルの目の前から消えた。どうやらそれも〈幻影〉だったようだ。
だが、アリエルには敵が身にまとう呪素の流れが見えていた。その直後、本物の呪術師が姿を見せた。その手には黒い刀身を持つ小刀が握られ、切っ先は青年に真直ぐ向けられていた。それは呪術師らしからぬ速さと、正確さを備えた一撃だった。しかしアリエルは焦ることなく、素早く反応して見せた。
かれは敵の攻撃を躱すと同時に、自身の剣を敵の刃に合わせた。力強い一撃で攻撃を弾き返して見せると、すかさず一歩前に踏み込んだ。アリエルの動きは鋭く、呪術師の首めがけて振り下ろされる刃は目にもとまらない速さだった。
その一撃は敵の命を確実に断つためのものであり、呪術師が〈幻影〉をつくり出す余裕も与えなかった。しかし刃が敵の首筋に接触する瞬間、青年は奇妙な違和感を覚えた。
そして何か巨大な力に刃を押し返されるような感覚に戸惑う。呪術師の身に宿る膨大な呪素が、剣の動きを阻害しているのかもしれない。その直後、青年は凄まじい衝撃波を受けて後方に吹き飛ばされてしまう。それはまるで、膨大な呪素が四方八方に向かって破裂するような感覚を与えた。
アリエルは撥ね飛ばされるように周囲の樹木や岩に身体を叩きつけられ、体中に鈍い痛みが走る。そして地面に激しく背中を打ち勢いが止まると、彼は呼吸することができず苦痛に悶える。
それでも呪術師の攻撃が止まることはなかった。敵はアリエルに向かって突進しながら〈火球〉を撃ち込んでいく。燃え盛る炎の球体が空中を舞い、青年に向かって次々と飛んできて爆散していく。その業火のなか横に転がるようにして――あるいは蛮族の死体を盾にしながら数発の〈火球〉を避けていく。
激しい炎が青年のすぐそばをかすめ飛び、熱気が肌を焼き焦がすようだったが動きを止めることはしない。全身の痛みに耐え立ち上がると、敵に向かって飛び込むようにして間合いを詰め、一気に剣を振り下ろす。が、再び刃を打ち弾かれてしまう。まるで手練れの戦士を相手にしている感覚だった。
呪術師は膨大な呪素をまとっていて、それは彼の身体能力を飛躍的に向上させているようだった。筋力や反応速度が通常の人間のものとは比べ物にならないものになっていた。
その激しい攻防のなか、アリエルは一瞬の隙をついて後方に飛び退く。そして、ひと息に三枚の手裏剣を敵に向けて打った。手裏剣は速く、そして標的に向かって正確に飛び、胸部や肩に突き刺さっていく。しかし敵は痛みを感じていないのか、猛然と突進してくる。青年は呪術師の勢いを抑えることができず、再び敵の攻撃に耐えることしかできなかった。
薄闇のなか、呪術師の手から白い光が走るのが見えた。肩に突き刺さっていた手裏剣をこちらに向かって放ったのだろう。アリエルはそう判断すると、精神を研ぎ澄ませ、光を弾きあげるように剣を振るう。高い音が鳴り響いた瞬間、ゾクリとする寒気に全身が襲われる。
すぐに呪術師に視線を戻すと、土で形成されていく槍のようなモノが見えた。それは岩のように硬化し、こちらに向かって放たれようとしていた。その呪術の槍は、アリエルが使用する〈土の矢〉よりも遥かに強力な呪力を帯びていて、致命傷になりかねない攻撃になることは明白だった。
アリエルが咄嗟に身を躱した直後、地面が爆ぜて砂煙が立ち昇るのが見えた。が、敵の呪術の威力に驚いている余裕はない。すぐに別の槍が形作られ、アリエルに向かって次々と撃ち込まれていく。青年は攻撃を避けながら敵に向かって迅速に飛び込もうとするが、呪術師は風を操るように片手を大きく振ってみせた。
木々の枝葉が揺れたかと思うと、突然凄まじい突風が吹いてアリエルは吹き飛ばされる。すぐに体勢を立て直すが、そこに岩のように硬化した槍が次々と飛んでくる。
青年は呪術師が放つ攻撃を避けていくが、それらの呪術が樹木に直撃し幹が爆散するたびに、鋭い木片が大量にバラ撒かれ、毛皮で守られていないアリエルの手足に突き刺さっていく。呪術師の攻撃によって荒れ狂う密林は、痛みと血の臭いが混ざり合い、まるで地獄のような場所に変わっていく。
痛みに耐え、血を流しながら攻撃を避けていた青年は、投石部隊から奪っていた〈治療の護符〉を取り出すと、とくに出血のひどい傷に押しあてる。木片が突き刺さったままだったが、残念ながら治療に専念する余裕はなく、それは止血のための応急処置でしかなかった。
青年が必死に攻撃を避けながら治療を続けている間も、呪術師からの容赦のない攻撃が行われていた。敵はアリエルにも引けを取らない膨大な呪素を保有しているようだったが、それはあの邪悪な儀式によって得た力なのだろう。敵が呪術を使用するたびに、かれが手に持っていた小刀が赤黒い輝きを帯びていくのが見えていた。
まず手始めに、まるで蛇のように左右にうねる刃を持つ奇妙な小刀に対処しなくてはいけないのかもしれない。アリエルは攻撃を避けながら〈遠見〉の呪術で敵の動きを見極めていく。その〝眼〟は深紅に明滅し、夜の森を徘徊する夜の狩人を思い起こさせた。
その間も、呪術師は余りある膨大な呪素を巧みに操り、〈火球〉や〈土の槍〉を撃ち込んでいく。アリエルは樹木や岩石を利用して攻撃を防いでいくが、敵の呪力は圧倒的であり、それに対抗し続けるのは容易なことではなかった。それでもアリエルは息を切らしながら動き続ける。不運にも槍の直撃を受けた蛮人の死体が爆散し、血の雨を降らせていく。
青年の心臓は激しく鼓動し、額からは汗が流れ落ちていく。しかし決して臆することなく、攻撃の機会がやってくるのを待ち続けていた。時間が経つにつれ、密林は死の臭いと炸裂する呪術の轟音で満たされていく。
アリエルを仕留めきれないことに業を煮やしたのか、呪術師は赤子を抱くようにして両手の間に膨大な呪素を集めていく。その呪素の量は今までとは比べ物にならないもので、ハッキリと目に見えるほどの発光体が形成されていくのが見えた。
深い密林の中に混沌の気配が立ち込めるようになると、ますます両者の緊迫感が高まっていく。まるで地底から噴き出した混沌が、呪術師の周囲を包み込んでいくかのような幻が見えるほどだった。その異常な力の放出によって、周辺一帯の大気や草木が揺さぶられていくのが見えた。
そして呪術師が眩い光に包まれながら呪術を撃ち込もうとした瞬間、豹人の姉妹が放った〈氷槍〉が呪術師に直撃するのが見えた。蛮人の戦士を始末したあと、急いで駆けつけてくれたのだろう。
氷柱を思わせる氷の塊が死人めいた細い身体を貫いた瞬間、そこではじめて激痛に歪んだ老人の表情がフードの奥に見えた。しかし呪術師は脇腹を貫かれ、片腕を失いながらも、まだ戦意を失っていなかった。
それは生に対する執着というより、なにか焦燥感に駆られているような奇妙な感覚を抱かせた。耐え難い痛みにも拘わらず、老人は怒りに満ちた目で青年を睨みつけ、再び呪術を準備する。が、アリエルもただ黙って見ているわけではなかった。呪術師に向かって飛び込むと、首筋に正確無比な一撃を叩き込んだ。




