14〈終わりなき使命をもつもの〉
不吉な風が吹き荒び、アリエルの頬を突き刺すように通り過ぎていく。大樹は空高く枝を伸ばし、青藍に輝く葉で空を覆い隠している。けれど枝葉はゆっくりと動いていて、音はほとんど聞こえてこない。ただ泥濘のなかを進む不快な足音だけが耳元に届いていた。
暗部だと思われる刺客を排除したあと、アリエルたちは〈気配察知〉の能力を駆使しながら森に潜む脅威に近づいていた。それは呪力に満ち溢れた存在であり、その身に帯びている呪素は膨大で、近づけば近づくほどに圧倒的な存在感に気圧されてしまうほどだった。
これほどの呪素を操作できるのだから、標的の呪術師に間違いないのだろうとアリエルは考えていた。
豹人の姉妹は息を潜め、身を低くし、ゆらゆらと尾を揺らしながら慎重に標的に近づく。〈影舞〉を応用した足運びは静かで、ほとんど無音で敵に察知されることはない。この緊迫した瞬間、森の静寂はアリエルたちを包み込み、時間がゆっくり流れているようにさえ感じられた。
人の背丈ほどある大樹の根に身を隠すと、複雑に絡み合う根と暗闇がアリエルたちの姿を覆い隠していく。青年は息を潜め、木々の間からやってきた標的の姿を確認する。しかしそこにあらわれたのは、完全に予想外の存在だった。
それは大熊にも似た体躯を持つ巨大な獣だったが、全身が鷲の羽を思わせる艶やかな羽毛に覆われていた。それは青と白の混じり合った不思議な色合いで、羽毛が暗い森の中で不気味に浮かび上がり、遠目からでも風になびいているのが見えた。
背には一対の巨大な翼があり、その巨体に見合う力強いものになっていて、飛行能力を備えていることは明らかだった。身体を支える四肢は太く筋肉質で、鋭くて黒い爪が見えた。ソレは鳥と熊の足を組み合わせたような形状をしていて、岩や樹木をしっかりと掴むことができるようだった。大樹の幹に爪を立てて登ることもできるかもしれない。
尾は長くしなやかで、高い場所に登ったり、飛行中に姿勢を制御したりするのに役立つのだろう。その異様な姿は、見る者にある種の畏怖と恐怖を抱かせた。ノノとリリは黙り込んでいて、その生物に見つからないように、気配を消すことに専念しているようだった。
森に射し込む光芒のなかに奇妙な獣が立つと、その身体に無数の刀や槍が突き刺さっているのが見えた。武器の多くは錆びついていたが、今でも呪力をまとっているのか、光に反応して脈動するように輝いているのが見えた。
獣の姿はおどろおどろしく、〈食屍鬼〉のように生命力を感じさせない。だが、もっとも奇妙なことは、その獣に頭部がないことだった。首から切断されていたのだ。それでもなお、膨大な呪力をまとった獣は、森の生命を脅かし、大気を歪ませるほどの力を放っていた。
それは得体のしれない存在だったが、同時に、どこか神秘的な気配すら感じられるようだった。そしてそれはひどく奇妙な感情を抱かせる。その場から逃げ出すべきか、恐怖に大声を出すべきか、それとも手を合わせて祈るべきなのか……とにかくひどく混乱してしまう。
アリエルは無意識に恐怖を感じて震えていたが、それでも獣から目を離すことができなかった。獣は人の胴体ほどの太さがある枝を踏み砕きながら、泥濘のなかをゆっくりと歩いていた。頭部は存在しないが、何かしらの能力を使い周囲の空間を認識して感じ取ることができるのだろう。動きに一切の迷いが感じられなかった。
そこでアリエルはふと、〝首無しの獣〟について書かれた書物を読んでいたことを思い出す。それは終わりなき獣であり、古代の神話に根付いた存在だった。
曰く、獣は古の神々に仕えるため、不死の力を与えられた存在なのだという。しかしそれは祝福などではなく、ある種の〝呪い〟だと書かれていた。獣の物語は神秘的でありながら、恐ろしいものであり、数年前に目にした書物だったにも拘わらず、青年の記憶に深く刻み込まれていた。
獣は〈テュクゥ〉の名で知られた戦士だった。かつて森の守護者であり、混沌の存在から森の民を守っていた〈守人〉でもあった。かれは秩序に連なる英雄として部族に愛されていたという。
森の守護者としての驚異的な能力を持ち、風や大地、自然を操る力に長けていた。テュクゥが頭部を失った理由には諸説あるが、部族の伝承によれば神々の試練を受け、その結果、頭部を失ってしまったと語られていた。しかし、それでもテュクゥの呪力はそれを補って余りあるもので、今も森を彷徨っていると信じられていた。
その獣は超自然的な存在であり、目的は混沌を排除すること、そしてあらゆる悪意から森を守ることなのだと。しかし青年が手にした書物には、別の理由が記されていた。
テュクゥの名で知られた戦士は、神々の戦士として森を守護していた。しかしある日、かれは守るべき部族に裏切られ、襲撃を受けて殺された。それを哀れに思った神々に力を与えられて復活したのだと。
そのさい、神々は彼に選択を迫った。しかし初めから選択することなどなかった。神々は与えたいモノしか与えないのだから。
『不死の力を手に入れ、森を永遠に守り続けるか』
『それとも、これからも定命の者として森の守護者に戻るか』
『あるいは、この場で命を終わらせるか』
テュクゥは迷うことなく森と自然を守り続ける使命を選んだ。かれは人間の世界に――裏切りと復讐の世界にウンザリしていたのだ。そこで神々はテュクゥに〝不死の力〟を授け、人と二度と交わることがないように、その姿を獣に変えた。
偉大な戦士は獣の姿に変わり、より強大な力を手に入れることができた。しかしその身体には無数の刀や槍が突き刺さったままであり、切断されて持ち去られた頭部も失われたままだった。そして〝終わりなき使命をもつもの〟テュクゥが誕生したという。
アリエルは獣について知っていることを思い出しながら、腐臭漂う泥濘に身を隠し、息を潜めていた。巨木の間からテュクゥの巨体が見えると、息を止めた。獣は不気味な姿で森を徘徊し、その身にまとう呪力は濃くて、近くにいるだけで呼吸が苦しくなるほどだった。
青年の周囲には、テュクゥに惨殺されたと思われる戦士の死体が横たわっている。蛮人たちは為す術なく無残に倒れ、血にまみれた汚泥のなかに埋もれている。その多くが鋭い爪で切り裂かれていて、内臓が露出していた。表情は恐怖と苦痛で歪んでいて、目は大きく見開かれている。不用意にテュクゥに接近し、そして最後の瞬間を迎えたのだろう。
戦士たちの死体にはナメクジめいた軟体動物が群がっていて、べちゃべちゃと這い回っている。死肉を食らう醜悪な腐肉動物でもあり、見ているだけで怖気立つ。その生物の群れは死の臭いに引き寄せられたのだろう。
アリエルは震える唇の間からゆっくり白い息を吐き出し、脅威が通り過ぎるのを静かに待った。青年はテュクゥに太刀打ちできないことを知っていた。この瞬間が彼の最後になるかもしれないことも理解していた。だから神々に祈ることしかできなかったのかもしれない。
ソレは〈獣の森〉で徘徊する最悪の悪夢だった。その存在を知る者は限られていたが、たしかに青年は死の領域に足を踏み入れていた。知らず知らずのうちに森の奥深く、守人すら足を踏み入れない場所に来てしまったのかもしれない。
どれほどの時間が経ったのだろうか、瞼を開いてゆっくりと顔を上げると、テュクゥの存在感そのものが消え去っていて、森の雰囲気が一変していることに気がつく。
巨大な存在が遠ざかり、その膨大な呪力だけが尾を引いているように感じられた。殺気を帯びていた空気は、つめたい静けさに包まれていた。木々の間に風が吹き抜け、枯葉が静かに舞い上がるのが見えた。そこでようやくアリエルたちは息をつくことができた。
ノノとリリは疲れ切った精神を休めるように瞼を閉じる。この遭遇は、あるいは剣を手にした戦いよりも過酷なモノであり、ある意味では生死をかけた闘いだったのかもしれない。しかしアリエルたちは何とか生き延びることができた。そして遠ざかる気配とは逆方向に、べつの反応があることに気がついた。今度こそ標的を見つけたのだろう。




