06
予期せぬ戦闘のあと、大気中に漂う呪素の微妙な変化を感じ取ったのか、ノノとリリが慌てた様子で駆けつけてくる。アリエルは彼女たちを驚かせてしまったことを謝罪し、それから〈混沌の化け物〉による襲撃が行われたこと、そしてそれを何とかひとりで撃退できたことを報告する。
豹人の姉妹は川のそばに積み上げられた化け物の死骸を見て驚くが、同時にアリエルの戦闘能力の高さに感心する。しかし相変わらず炎の呪術は苦手なのか、かれに頼まれて死骸を焼却することになった。
『しょうがないな』
リリはお姉さんぶりながらそう言うと、〈火炎〉の呪術で死骸を焼き払っていく。川のそばに腐肉を好む生物や昆虫の姿は見られなかったが、血と臓物の臭いに引き寄せられるかもしれないので、さっさと処理してしまうのが正解だろう。
それから交替の時間までアリエルはひとりで見張りを続けることにした。姉妹はアリエルに休んでもらいたがっていたが、戦闘のすぐあとだったので、気持ちが昂っていて眠ることも身体を休めることもできそうになかった。
それから一時間ほど、青年は見張りをしながら大気中に漂う呪素を体内に取り込み呪力の回復に努めた。それは呪術を制御する訓練にもなるので、暇があれば呪素を操ることを癖にしていた。そこでアリエルは普段よりも多くの呪素を体内に蓄えられることに気がついたが、それと同時に、絶えず呪素を消費していることに気がつく。
どうやら右腕の呪いの侵食を――あるいは感染の症状が進行することを抑え込むために、ほとんど無意識的に呪素を取り込んでいるようだった。それは体内に蓄えている呪素に比べればごく微量なモノだったが、つねに頭に入れておかなければいけないことだと考えた。呪素の消費量が増えることは、呪いの侵食を早めることになりかねないと想像したからだ。
実際のところ、アリエルにはそれがどのようなモノなのか分からなかった。〈災いの獣〉に関連する何らかの〝呪い〟もしくは〝祟り〟であることは想像できたが、ハッキリとしたことは何も分からなかった。あの〝人食い部族〟に詳しく話を聞かなかったことが悔やまれるが、あの奇妙な場所に長く留まることも、今さら戻る気にもなれなかった。
やがて見張りの交替の時間になると、アリエルは野営地に戻り、焚き火のゆらゆらと揺れる炎を見ながら短い眠りについた。それは眠っているのか、それとも起きているのかも分からない曖昧とした時間だったが、それでも頭をスッキリさせるには充分な眠りだった。
数時間後、一行は地上の森につながる〈境界の砦〉を目指して、再び暗闇に支配された地底を移動することになった。
暗闇のなか、呪術の照明が幽かな光を放ち、広大な空間を薄暗く照らし出していく。その光が数え切れないほどの岩の塊を浮かび上がらせ、周囲に不気味な影を投げかける。かれらの目の前には、かび臭い通路を塞ぐように、足元に大量の岩が転がっている。その大きな岩の間をくぐり抜けながら進む。
おそらく頻繁に落石や落盤が起きているのだろう。壁面には過去の崩落から生じた亀裂や傷跡が目立ち、恐ろしいまでの現実味をもって迫ってくる。ここで落盤に巻き込まれたら、生き残るのは難しいだろう。その暗い道を進むたびに、地底の環境は変化していくことに気がつく。
濡れた壁面からは水が滴り落ち、その音が静かな空間に響く。不気味な沈黙が支配するなか、一行は警戒心を強めながら進んでいく。周囲の岩の影が不気味な気配を感じさせ、暗闇のなかで不可思議な造形を浮かび上がらせる。時折、遠くで岩が崩れる音や不気味な響きが聞こえてくるが、さすがに慣れてしまうのか、徐々に反応しなくなる。
それでも、それらの音は地底が生きているかのような錯覚を与えていた。暗闇のなかを進むにつれて時が経つのも忘れ、一行はただただ前に進むしかなかった。地上に近づくにつれて、危険な生物が出現する可能性は低くなるが、地底そのものが危険な環境になっているので緊張を緩めることはできなかった。
地底の暗闇に向かって複数の支洞が続いているのが見えた。足元に広がる亀裂や崖から落下しないように注意しながら目印を頼りに進む。岩肌からは冷たい冷気が漂い、嫌な気配が肌を撫でるように通り過ぎていく。壁から突き出た尖った岩が道を遮るようになり、移動できる場所も限られてくる。
一行は互いの身体を縄で結びつけて、咄嗟の状況で協力し合える状況をつくり出す。もしものとき、それが生死を分ける大切な命綱になると信じて。そうして彼らは互いを支え合いながら暗闇を進む。各々が足場を確保し、安全な場所に向かって移動する。何度か足元の地面が崩れて、地響きのような音を立てて底無しの暗闇に消えていくのが見えた。
空洞を抜けて迷路のように入り組んだ坑道を進む。十分ほど掛けて狭い空間を抜けると、明かりのなかに無数の動物の骨が浮かび上がってくる。その骨は泥に半ば埋もれていて、白い骨が不気味に覗いている。それらはさまざまな形をしていて、その骨がどのような動物のものなのかを推測することは難しい。
それは極めて珍しいことだったが、地上の洞窟に迷い込んだ野生動物が、何らかの理由で地底までやってくることがあった。死に至る原因も多岐にわたり、その死骸が洞窟に残されることも稀だったが、アリエルは何度か見ていたので驚くこともなかった。
不気味な呻き声が聞こえてきたのは、シカのツノを思わせる細長い物体を手に取ったときだった。アリエルは動きを止めて、周囲に目を走らせた。すると、また微かな呻き声が聞こえた。その呻き声は骨が散らばる空間の先から聞こえてきていた。
突発的な戦闘を想定して慎重に、そして警戒しながら近づくと、守人と醜い化け物の死骸が横たわっているのを見つける。生々しい血液で地面はヌラヌラと濡れ、手足を欠損した死骸が泥の中に散らばっていた。子どもほどの背丈しかない化け物の死骸は血溜まりの中に横たわり、腐肉食の昆虫が群がっていて、吐き気を催す光景をつくりだしていた。
先ほどから聞こえていた呻き声の正体は、死にきれずに生きたまま昆虫の餌になっていた化け物の声だった。足元に転がっていた手製の槍を拾いあげると、化け物の首に突き刺して止めを刺す。錆びついた刃が肉に食い込む瞬間、鼻孔から血にまみれた昆虫が飛び出すのが見えた。
地面に横たわる多くの化け物は、醜く歪んだ死に顔をしていて、身体のあちこちに斬り傷や矢が撃ち込まれた傷痕が確認できた。死体の周りには、ここで行われた戦いの激しさを物語るように無数の刀や矢が散らばっている。すでに一度見た光景だったが、今回のソレは、前回のソレとは少しばかり様子が異なっていた。
そこで息絶えていた守人のひとりに、アリエルは見覚えがあった。それほど親しくはなかったが、古参の守人で、それなりの実力がある壮齢の男性だった。彼だけが暗闇でも発光するアナキツネの毛皮で仕立てられた白いマントを羽織っていたので、すぐに見分けがついた。しかし周囲に倒れている者たちには見覚えがなかった。
最近になって砦に連れてこられた罪人だろうか。アリエルは周囲を見回して、それから義兄弟のそばで膝をつく。そして短い祈りの言葉を口にしてから、使えそうな装備を回収していく。
感傷に浸ることなく黙々と装備を回収していく姿は冷たいように感じるかもしれないが、アナキツネの白いマントは貴重な代物だったので、地底に放置していくことは考えられなかった。それに、兄弟たちの死には慣れていた。それがルズィやラファだったら、別の反応をみせたかもしれないが。
刀は折れて使いモノにならなかったが、矢は問題なく使える状態だったので、見つけしだい回収していく。毛皮の〝収納庫〟には余裕があったし、貴重な護符を所持している可能性もあったので、革袋も念入りに調べていく。
『砦から逃げてきたのでしょうか?』
ノノの質問に青年は迷うことなくうなずいた。
「憶測でしかないけど、身を守る術を知らない新人を逃がそうとした可能性がある」
地底にも逃げ場はないが、安全地帯になっている野営地で嵐が過ぎ去るのを待とうとしたのかもしれない。
ノノは足元に転がる守人の死体を一瞥して、それから言った。
『やはり、このまま砦に向かうのは危険だと思います』
「たしかに危険だと思うけど、ルズィやラライアたちの状況を確認しなければいけない。それにもう少し砦に近づけば、〈念話〉が使えるかもしれない。俺たちがどうするのかを決めるのは、かれらと連絡を取ったあとでも遅くないはずだ」
不安は尽きないが、砦に行くよりほかない。使えそうな物資を回収すると、一行は砦を目指して移動を再開した。幸いなことに迷うこともなかったので、もうすぐ目的地に到着できるだろう。




