02
その生物は地底の闇と温もりのなかで生まれるという。
それは世界に渦巻く多種多様な感情が途方もない時間をかけて濾過され、純粋な憎しみだけが堆積してつくられた深い闇のことだ。
森で生きる人々は、混沌の怪物が夜な夜な人間の子どもを攫い、暗い洞窟に連れ去ることで誕生した生物だと信じているが、その姿はあまりにも醜悪だった。
薄闇の向こうから姿を見せたのは、子どものような小さな身体を持つ人型の怪物だった。光のない世界で生きてきたからなのか、その生物の体表は半透明の乳白色で、血管の位置や脂肪、そして内臓が透けて見えるほど透き通り、華奢な身体に不釣り合いなほど大きな頭部を持っていた。しかしそこに目のような器官は備わっていない。
それは長い期間、暗闇のなかで生きてきた所為で退化して失われてしまったのではなく、文字通り瞳がなく、過去に存在していた痕跡も残っていなかった。不揃いの牙が覗く恐ろしい口は異様に大きく、化膿した傷口のように耳元までぱっくりと開いていた。
長く先の尖った耳は、花に集まる小妖精の耳にも似た造形をしていたが、それは邪悪で可憐さは存在しない。また肌はヌメリのある粘液で覆われていて、全身に体毛は一切生えていなかった。
「あれが混沌の先兵だな。生きた個体を見るのは初めてだけど……本当に子どもみたいじゃないか!」ロンはそう言うと、マントを大きく広げ腰の刀を抜いてみせた。「若様、あいつは俺が片付けます。安全な場所まで下がっていてください」
グロテスクな姿をした怪物が奇声を上げながら駆けてくると、ロンは両手で刀の柄を握った。そして素早い動作で踏み込むと、重い刃を振り下ろした。それは薄闇に青白い閃光を残して小さな怪物の胴体を両断した。
上半身から飛び散る内臓と、ドロリとした膿のような体液がロンの顔を汚した。しかし青年は興奮しているのか、地面に横たわる怪物の胴体に何度も刃を突き刺す。
「見ましたか、若様! 所詮、こいつらは人間の相手にはならないんですよ――」
そこまで言ったあと、ロンは痛みに悲鳴をあげることになった。彼が右肩に視線を向けると、そこには黒曜石にも似た鋭い穂先をつけた槍のようなモノが突き刺さっていた。その原始的な武器はロンが着込んでいた高価な革鎧を軽々と突き破って、貫通してみせたのだ。
青年の悲鳴が洞窟の壁に反響して松明が地面を転がると、炎の明かりで怪物が一体、そしてもう一体と暗闇から姿をあらわすのがハッキリと分かった。それを見た年配の男と自称商人は荷物を捨てると、なんの躊躇いも見せることなくその場から逃げ出した。
しかしすぐに別の小さな怪物が投げつけた槍が太腿に突き刺さり倒れ込んだ。鋭い穂先は、いとも簡単に男たちの皮膚を裂いた。無数の怪物は数日ぶりに餌にありつく獣のように、地面で痛みに呻いていた男たちに圧し掛かり、その身体に咬みついて衣類ごと肉を引き千切っていく。
その凄惨な光景を目にした名家の坊ちゃんは逃げるのを諦めると、覚悟を決め、一度も使用したことのない太刀を抜いて怪物の群れに立ち向かうことを選択した。しかしそれは間違った選択だった。彼は数体の小さな怪物を殺してみせた。しかしそれだけだった。
すぐに取り囲まれてしまうと、怪物が手にした原始的な槍で何度も突き刺され傷つけられて、痛みと苦しみにもだえながら地面に這いつくばることになった。
激しい痛みの所為でしゃがみ込んでいたロンは、坊ちゃんを助けようとして立ち上がった。けれど何もかも遅かった。暗闇から飛びかかってきた怪物がロンの頭部を丸呑みにして、鋭い牙を立てながら頭蓋骨を咬み砕いていく。
そのたびに怪物の口からは粘度の高い血液が零れ、ロンは身体を痙攣させた。そしてそれはロンが死ぬまで続けられた。恐怖と痛みに動けなくなっていた名家の坊ちゃんは、暗闇の向こうから飛んできた槍を側頭部に受けると動かなくなった。
いつの間にか最後のひとりになってしまったアリエルは、しかし冷静に怪物に対処する。背後を取られないように、そして囲まれてしまわないように常に動いて、手にしていた鈍ら刀で怪物の身体を両断していった。
子どものようにも見える怪物のなかには、黒曜石に似た不思議な素材で造られた簡素な鎧で身を守っている個体もいた。その怪物の鎧に向かって刀を振り下ろすと、刃は簡単に欠けて、そしてついに砕けてしまう。
アリエルは使い物にならなくなった刀を怪物に投げつけると、名家の坊ちゃんが落とした太刀を拾い上げて戦闘を継続した。もっとも、彼にできる事と言えば、終わりの見えない殺し合いを一心不乱に続けることだけだった。
暗い洞窟の奥深くで繰り広げられた戦闘は、混沌によって生み出された生物の内臓と体液、そしてグロテスクな死骸を積み上げるようにして続けられる。
アリエルは刀身に絡みついていた臓物と血液を払うと、後方に飛び退いて投げつけられた槍を避け、突進してきた怪物の胸に刃を突き刺そうとした。しかし刃先がつぶれていて、怪物が着こんでいた防具によって刃が砕けてしまう。
けれどその小さな怪物は人間の子どもほどの体長しかない。そのまま力任せに刀を押し込むと、怪物は地面に背中を打ち付けるようにして倒れ込んだ。その隙を逃さず、アリエルは怪物の頭部に折れた刀を突き刺した。
群れの中心的な役割を担っていた個体が死ぬと、それを見ていた群れは怖気づいて怯んでしまう。その僅かな時間を利用して、年配の男が手放していた荷物から長弓と数本の矢を拾い上げると、怪物どもに向かって次々と矢を射る。
暗闇を切り裂きながら進む矢音が洞窟の壁に反響するたびに、怪物は苦痛の声をあげながら倒れていった。形勢が不利になったと分かると、その場に残っていた怪物はアリエルに向かって適当に槍を投げつけ、背中を見せるようにして逃げ出す。
小さな怪物は群れで行動するときには脅威になるが、単体で行動しているときには驚くほど臆病な生物になる。青年はすぐに矢をつがえると、逃げ出した怪物の背中に向かって矢を放つ。一体でも逃がしてしまえば、この場所に守人がいることを他の混沌の生物に知られてしまう。それだけはなんとしても避けなければいけなかった。
矢がなくなるころには、恐ろしげな沈黙と、そして醜い怪物の死屍だけが残されることになった。アリエルは息を整えると、土埃を払い、死んでしまった男たちの装備を手早く回収した。怪物が近くに潜んでいる可能性があるので、武器の回収を優先する。
それが終わると、怪物の死骸に突き刺さっている矢を回収していく、矢が折れている場合もあるので、すべて使えるわけではないが、怪物に対して有効な手段を活用しないわけにはいかない。
アナキツネのマントも忘れずに回収していく。無限階段の偵察に向かうときには、暗闇で微かに発光するマントが重宝される。混沌の生物は光を嫌う性質を持っていて、それを身につけているだけで戦闘を回避できることもあるので偵察のさいには必需品だった。それに加えて〈境界の砦〉は物資に乏しい、貴重な装備を放って砦に帰ることはできない。
「あとは……」
青年は松明のあかりに浮かび上がる死体を見ながら溜息をついた。
ひとりになっても任務は遂行しなければいけない。責任ある守人である以上、無限階段の偵察任務を放棄することはできない。
足元に視線を向けると、あの子どものような小さな怪物が使用していた槍が目に付いた。持ち手にはしっかりした枝が使用されていて、穂先には石器のようなモノがついている。それは森の人々が使用する刃物のように鋭利だったが、鉄というよりも、やはり黒曜石の破片のように見えた。
しかしアリエルが槍を拾い上げると、穂先だけが液状化して地面に零れ落ちる。混沌の怪物が所持する武器の多くは、森の人々には扱うことはできない。
それはある種の呪術によって刃物として存在している。だから混沌の影響がなくなると、状態を維持できなくなり消滅してしまう。驚異的な呪術だったが、それを再現できる者はいないという。
けれどアリエルは液状化した穂先を回収できないか考え、適当な瓶のなかに液体を詰めることにした。呪術に影響されやすい液体なら、なにかしらの使用用途があると思われるからだ。それから青年は思い直し、目的地に向かう前に一旦安全な場所まで引き返すことにした。
安全地帯に待機している守人に死んだ者たちの装備を預けて、身軽になったら任務を再開すればいい。地面に横たわる無数の死体を一瞥したあと、アリエルは暗闇に向かって歩き出した。
見習いたちの背嚢と毛皮のマントを背負いながら、ひらすら暗闇のなかを進む。青年は松明を手にしていなかったが、彼の眸には洞窟の壁面に残された複雑な模様までハッキリと映っていた。その瞳は赤く明滅し、暗闇にぼんやりとした光の尾を残していく。
目の前に広がる闇は深く、そして悪意に満ちている。




