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アリエルは〈混沌喰らい〉の力を使って化け物を咬み殺すたびに、全能感にも似た何か形容しがたい感覚に包まれていくことに気がつく。身の内に湧き上がる力に魅了され、その高揚感に酔いしれていく。
それは青年の心を蝕み、彼の精神すら支配していくようだった。異能は驚異的な力を与え、戦いのなかで絶対的な優越感を感じさせ、そして虜にしていく。
それはまるで神話や伝説に登場する英雄、あるいは神々に近き存在になれたような感覚を与えてくれる。青年はその感覚にただ身を委ね、その絶大な力を与えてくれる異能に心を奪われてしまう。しかし、その絶対的な力に酔いしれる一方で、〈混沌喰らい〉が肉体に変化を与えていることにも気がついていた。
力による圧倒的な支配が、同時に青年を悪しき〈混沌の領域〉に引き寄せている危険な能力でもあることを肌で感じていた。異能の力は甘い誘惑と共に、深い闇を携えながら青年の足元に這い寄ってきていた。このまま力に身を任せることもできた。しかし青年は別の道を選ぶ。
なぜ、そうしたのかは分からない。けれど、そうすべきだと確信していた。
異形の化け物が一体残らず倒れたことを確認すると、アリエルは〈身代わりの護符〉を取り出し、黒い羽に覆われようとしていた右腕に押し当てる。その瞬間、世界から音が消えたような奇妙な感覚がした。周囲の光景がぼやけ、まるで時間が止まったかのような異様な静寂に包まれる。
そして力を使うたびに青年の耳元で囁かれていた言葉が聞こえなくなる。厳密に言えば、それは声ではなかったのかもしれない。しかし精神に作用するような威圧的でありながら、青年の内なる欲望や恐怖を刺激し、彼を混沌の中へと引きずり込もうとしていた囁き声だったことは間違いないのだろう。耳鳴りのように続いていた何かが消えてしまったのだ。
上等な白い紙で作製されていた護符は、徐々に黒く染まり始める。暗黒に満ちた穢れが護符を侵食していく。それは瞬く間に原形が保てなくなり、灰に変わるようにして崩れていく。すぐに別の護符を押し当てるが、結果は同じだった。しかしノノとリリが青年にまとわりつく穢れを〈浄化〉していくと、徐々に腕に変化が見られるようになった。
右腕を覆っていた黒く艶のある羽は一本ずつ、ゆっくりと抜け落ちていき、ソレは砂のように細かく崩れ、やがて大気の中で霧散していく。舞い落ちる花びらのように美しくもあり、同時に不気味な存在でもあった。
黒い羽が消え去ると同時に、アリエルの腕そのものも変化していく。異能の影響で変色していた箇所が徐々に元の肌色に戻りつつあった。鉄紺から自然な肌色へと変わる過程で腕が浄化されて、自然の生命力が身についていくようにも感じられた。けれどその変化は肘までだった。相変わらず前腕には鱗状の模様が残り、爪や肌の色が戻ることはなかった。
あるいはそれは、これまで混沌を滅してきた〝善なるもの〟を屠ってしまったがために受けた呪いなのかもしれない。
いずれ呪いによって自分自身も〈災いの獣〉に成り果てるのだろうか。アリエルはひどい眩暈と吐き気に苛まれながら、ふと目を閉じた。そして、これは逃れることのできない呪いなのだと考えた。けれど、それが悪意のある呪縛であったとしても、彼にはソレを受けいれることしかできなかった。
だが決してソレが〝罪〟なのだとは考えなかった。どのような宿命によって、かつての〝善なるもの〟を屠ることになったのかは定かではないが、それが己の運命だったのだろう。であるなら、その呪いを受諾しなければいけない。たとえ、いつか呪いによって身を滅ぼすことになったとしても。
結局のところ、〈災いの獣〉は失われてしまったのだ。だからそれがどのようなモノであったとしても、折り合いをつけなければいけなかった。異能を抱えることに対する不安や恐れはあった。青年は恐るべき能力を制御できるのかどうか疑問を感じていたが、その力がもたらす利益や可能性に目を向けるように努めた。
事実、〈混沌喰らい〉の異能を使うことで、アリエルは強大な力を手に入れ〈境界の守人〉として困難な状況に立ち向かう術を入手していた。
青年は自らの肉体に宿る異能――ある種の呪いとでも呼べる力と共に生きていくことを受け入れる。この決断は青年の精神に大きな変化をもたらす。それまで感じていた異能に対する不安や怖れ、そして拒絶の念が徐々に失われ、新たな力を受け入れる覚悟が芽生えていく。
……だが、本当にそうなのだろうか。青年は豹人の姉妹によって浄化されていく腕を見つめながら、〈混沌喰らい〉に対する疑念が心のなかで渦巻いていくのを感じる。
異能が自分のモノになったのか、そしてその力が本当に制御できるモノなのかについて考えると、どうしようもない不安に襲われる。異能が危険であること、呪いに取り込まれる可能性があることを考え、それが悪しき混沌に変わる可能性も頭に浮かぶ。
今もあの囁き声に心が操られているのではないかという不安に襲われ、全身に鳥肌が立つほどの恐怖に襲われる。
ちらりとノノとリリの横顔を見つめる。混沌に取り込まれて〈災いの獣〉に変化したとき、仲間に危害を加えないと断言できるだろうか。いや、おそらく仲間にも被害が出るだろう。あれはそういう性質の生き物だった。ありとあらゆるものを憎む獣だったのだ。
それなら、と青年は精神を集中し、複雑に入り組んだ地下迷宮のなかに意識を沈み込ませていく。彼以外に立ち入ることのない暗く深い死の世界だ。しかし、どうも様子がおかしい。なにか、自分以外の存在が近くにいることを感じた。それは決して珍しいことではなかったが、何かが青年の心に焦燥感にも似た感情を与えていた。
青年は暗闇に目を凝らすが、つめたく濡れた黒い石壁が見えるだけで、ソレの気配は感じられない。でも確かに足音が聞こえる。青年は壁に手をつけながら螺旋階段を下りていく。
途中、暗闇に沈み込む広大な空間につづく大扉が開いているのが見えた。仰ぎ見るほど高い鋼鉄の扉の先には、数え切れないほどの石柱に天井を支えられた広大な空間がある。
青年は暗闇から聞こえてくる微かな足音を追うように扉の隙間に身体を捻じ込み、暗く冷たい大広間を歩いた。石から削り出された大樹の幹を思わせる石柱と、石材が敷き詰められた床はガラスのように磨き上げられていて汚れひとつない。等間隔に並べられた石柱の間を歩いていると、小人になった気分になる。
そこでアリエルは立ち止まる。奇妙な違和感を抱いたのだ。これまでこの世界について深く考えてこなかったが、これは本当に〝神々の血を継ぐもの〟としての能力なのだろうか。この暗黒の世界は――そこまで考えたときだった。血に濡れた足跡が暗闇に向かって続いているのを見つける。
呪術の照明を灯すと、赤黒い血液に濡れた地面が青白い光の中に浮かび上がる。視線を上げていくと、そこに巨大な石棺が鎮座しているのが見えた。派手な装飾はないが、滑らかな表面に黄金が散りばめられていて、呪術の照明に反応して煌々と輝いているのが見えた。
石棺に触れると、どこからか石を擦るような鈍い物音が聞こえてきた。ハッとして周囲を見回すと、石蓋が僅かに開いていて、その隙間から黒い羽に覆われた獣の腕が見えた。
ああ、そういうことか。青年は自分の考えが間違っていなかったことに気がついた。死者たちの思念、あるいは魂とも呼べるモノを捕えていた棺に穢れを封印する。それはいつか〈混沌〉で満たされ、暗黒の世界に溢れ出るかもしれない。
しかしそれまでは、青年が〈災いの獣〉に変わることはないだろう。アリエルは石棺の蓋に手をかけると、それをゆっくりと閉じていった。




