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炉のなかで薪がパチパチと爆ぜる音に耳を澄ませていると、族長が立ちあがるのが見えた。彼女は黒曜石めいた眸でアリエルを見つめたあと、彼についてくるように言う。青年は不安そうに豹人の姉妹や照月來凪と視線を交わしたあと、族長のあとを追うために立ち上がる。
そのさい、炉を囲むように座っていた若い呪術師たちの姿が目に入る。親族の生皮を身にまとい、人の骨で作られた装身具を身につけ、衣類はなく、灰が塗りこまれた肌は変色し腐敗の兆候が見られた。
まるで数日の間、そこに放置され続けた遺体のような雰囲気があったが、あの奇妙な体験をするまでは――忘れられた森で獣と戦うまで、彼らは普通に生きていたので、これほど腐敗が進んでしまっている理由は分からなかった。その奇妙な違和感にアリエルは不安を覚えずにはいられなかった。
とにかく、小屋のなかに立ち込める奇妙な暗闇に入っていく。ひんやりした暗闇に足を踏み入れると、女族長の妖艶な背中が闇のなかに浮かび上がっていることに気がついた。闇に包まれた奇妙な空間の中で、彼女だけが不思議な美しさを放っている。その妖艶な背中は、つめたい夜の闇のなかで踊る炎のように魅力的に見え、アリエルはその美しさに引き込まれていく。
族長の存在は暗闇の中にいても明確に感じられ、その姿は神秘的で蠱惑的だった。彼女の皮膚は灰色がかった薄青色で、月明りに照らされた夜空を思わせ、その肌は星々の輝きを宿しているかのような幻想的な輝きを放っている。率直に彼女の美しさを例えるなら、暗闇の中で満ち欠けする月のようだった。きっと森の神々ですら嫉妬するのだろう。
だが、いつまでも見惚れているわけにはいかない。アリエルは小屋の奥に足を進めながら不自然な暗闇に疑問を抱くようになる。小屋はそれほど広くなく、通常なら数歩で壁に行き当たるはずだったが、どれほど歩いても小屋の端が見えてこないのだ。それを意識した途端、不気味な静寂と共に小屋の中が無限に広がっているような錯覚を抱く。
ふと振り返ると、アリエルは自分が立っていた場所すら見失っていることに気がつく。小屋の入り口に掛けられた毛皮や、炉で揺れる炎、そして奇妙な呪術師たちの姿も彼の視界から消え去ってしまったようだった。どこかで別の次元につながる空間に迷い込んだのだろうか、不安とともに奇妙な暗闇の中で道を見失ってしまう。
けれど振り返ると、夜空の月のように淡い輝きを放つ族長の背中が見えた。青年は意を決し歩き出す。どこに向かっているのか、そして自分が迷い込んでしまった場所が分からず不安だったが、暗闇のなかで立ち止まっているわけにはいかなかった。
アリエルは無意識にすぐとなりを歩いていた仲間に視線を向ける。そこに照月來凪や豹人の姉妹がいることは分かったが、彼女たちの気配は希薄で、まるで幻影を見ているような不思議な感じがした。手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、息づかいや足音さえ聞こえてこないのだ。そこでハッとして自分自身の手や身体に視線を向ける。
どうやらおかしいのは彼女たちの姿だけではないようだ。アリエルは手のひらを透かして見えていた暗闇をじっと見つめたあと、そっと指先に触れてみた。それは幽霊のように、触れてしまうだけで霧散してしまう不安定なモノではなく、たしかに実体としての触感があった。
そこで青年は〈転移門〉に侵入しているときに感じた奇妙な感覚を思い出す。その異様な空間に彼の身体は存在しているが、それと同時にどこにも存在していない。次元の狭間とも呼ばれるような〝どこにも属さない空間〟に立っている所為で、かれの存在そのものが――あるいは、アリエルという概念が不安定になっているのかもしれない。
黒色の虚無に埋め尽くされた空間で、青年は果てのない暗闇にすっぽりと包み込まれてしまったような感覚に陥る。やがて肉体すら闇の中に溶解し、魂すら消滅してしまうのでないのか。気がつけば不安よりも恐怖心が大きくなっていた。
やがて暗闇のさきに微かな光が見えてきた。そして終わりは唐突にやってくる。気がつくと暗闇を抜け出していて、暖かい日の光が射し込む森の中に立っていた。その奇妙な光景に青年は戸惑う。集落にいたときには陽が落ちたばかりで、森は深い暗闇のなかに沈み込んでいた。なのに、ここでは日の光が燦々と降り注いでいる。
不可思議な現象が青年の感覚を狂わせ、記憶そのものを書き換えているようにも感じられた。あの暗闇から抜け出た瞬間、次元の狭間を彷徨い歩いていたときに感じていた身がすくむような恐怖は消えていた。陽光が木々の紅い葉を透かして射し込み、小鳥の囀りが心地よく聞こえてきた。
アリエルが肩越しに背後を振り返ると、白い幹を持つ木々に囲まれるようにして、ぽっかり口をあけた暗い洞窟の入り口が見えた。その光景は青年が眉をひそめるほど不自然なものだった。あるいは、地中から這い出てきた巨大なモグラが残した竪穴にも見えたが、それほど巨大なモグラが現実に存在しているのか疑問だった。
その変化に不安を感じていたのは青年だけではなかった。豹人の姉妹も驚愕と困惑の入り混じった表情を浮かべながら周囲を見回していた。どのようにしてこの場所にたどり着いたのか、そして、なぜこのような場所にいるのか、すべての出来事が謎に包まれていて答えを見つける足掛かりすらないような状況だった。
そこに族長がやってくるのが見えた。彼女のとなりには、小屋に残してきたはずの呪術師が立っていて、その手に小さな壺を運んでいるようだった。それはひどく汚れていて、粘度のある黒い液体がベッタリとこびり付いている。
ある程度の距離まで近づくと族長は立ち止まるが、病的に痩せ細った呪術師はそのままアリエルの目の前まで歩いてきて、その壺を青年に差し出す。それは紫黒に染まる液体で満たされていて、眩暈がするほどの濃い呪素を帯びていた。
アリエルは困惑し、不安の表情を浮かべながら差し出された壺のなかを覗き込む。彼にはその液体が何なのか、そして何のために使うモノなのか見当もつかなかった。
「それも〈災いの獣〉を屠った狩人が手にできる権利のひとつ」
族長の言葉に青年は困惑する。それに気がついているようだったが、族長は敢えて説明せず、ただ壺のなかに手を入れるように促す。
「境界の守人にとって、〈混沌喰らい〉の能力は何ものにも代え難い力になる。さぁ、恐れる必要はない。死してなお、その身を捧げてくれた獣とともに混沌を狩るため、あらたな力を手に入れなさい」
言葉そのものに強制力があるのか、青年は族長の言葉に従い得体の知れない液体に手を入れることに決め、粘度の高い液体のなかに右腕を慎重に沈めていく。肘のすぐ下まで液体に浸かったときだった、強烈な痛みが襲いかかる。鋼の刃で神経に直接触れられているかのような、つめたくて鋭い痛みが全身を駆け巡っていく。
なにも考えられず、その場に立っていることもできず思わず両膝をつくが、痩せ細った呪術師はしっかりと壺を持っていて、一滴も液体を零すことがなかった。
その激しい痛みに耐えながらも、アリエルは指先に触れるものの存在を感じ取ることができた。生き物のように液体が爪のあいだから指に侵入して、皮膚の間を這いずり、肉を引き裂きながら動いている気がした。
そして何か言い知れない異次元の力が体内に無理やり侵入していく感覚がしていた。それはまるで魂が別の次元に触れ、その異能が彼の神経を走り抜けていくような感触だった。それとも、底無しの暴力に晒されている気分だ。もはや自分自身が何を考えているのかも分からなかったが、でもとにかく、それが過ぎ去るまで耐えるしかなかった。




