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悪夢から覚め、剥離していた精神が身体に馴染むまでの僅かな時間、アリエルは茫然と荒地に佇んでいた。自分が何者なのか、そしてそれまで何をしていたのか思い出してくると、その紅い眸にゆっくりと光が戻ってくる。
やがて青年は足元に広がる粘液質の液体に気がつく。それは黒く淀んでいて、ドロリと腐りきった沼のようにも見えた。その液体の表面に泡が立つと、ゴボゴボと音を発しながら鼻を突く刺激臭が立ち込めるようになる。青年はすぐにその場を離れようとしたが、粘液質の液体が足に絡みついていて、まともに歩くことさえできなかった。
そこでアリエルは衣服を身につけていないことに気がつく。守人の存在証明とも言える黒衣は跡形もなく消えていて、黒染めのブーツも消失していて裸足だった。足元のヌメヌメとした嫌な感触を直に感じていたのは、ブーツを履いていなかったからなのだろう。
だが奇妙なことに、かつての戦友であり〝青の黄昏〟の異名で知られていたザザから受け継いだ黒毛皮のマントだけはしっかりと羽織っていた。
アリエルは気がついていなかったが、族長イスティリシから預かっていた結晶が砕けたさいに発動した〈古の呪術〉によって、かれが黒い獣に変異しようとしたとき、神々の言葉が刻まれたマントも肉体の一部として取り込まれていた。だから破れず、また破壊されることなく残されたのだろう。
そこで青年はハッとして両手を見つめ、それから自身の顔や身体に触れていく。かれは思い出したのだ、あの想像を絶する痛みと苦しみ、そして肌が腐り落ちていく瞬間のことを。だが意識の消失と覚醒のあと、まるですべてが嘘だったかのように、かれの肉体はもとの状態に戻っていた。
赤黒い血液と共に失われたはずの皮膚に変化はなく、折れていた手足の骨も元の状態に戻っていた。もちろん、肌は黒い毛皮に包まれていなかったし、オオカミのように鋭い牙も生えていなかった。
あの瞬間あそこで何が起きたのか、もはや青年には理解することができなかった。だが、ひとつだけ確かなことがある。戦狼のラライアのように、どこか別の次元にある肉体をこの世界に召喚したのではなく、呪術によって肉体を無理やり変異させられたのだと。
身体の内側から破裂してしまうような痛みや、骨が折れて砕けていく音は錯覚などではなく、現実に起きたことなのだ。そしておそらく、と青年は異臭を放つ粘液質の液体に視線を向けながら考えた。あれが〈災いの獣〉の成れの果てなのだろう。人喰い部族の憎悪と怨念によって発動した呪術は、かれらの敵を屠り、その仇を討つことに成功していた。
つめたい風が吹くと、毛皮のマントが半ば生きているかのように青年の背中ではためいた。アリエルはそのマントに包まると、すっかり荒廃してしまった忘れられた森に視線を向けた。地面に穿たれた大穴があちこちで見られ、木々は倒れ、炎と黒煙が立ち昇っている様子が確認できた。戦闘の余波で森に大きな被害を出してしまっていたのだ。
青年に戦いの記憶はなかったが、森を破壊したのが自分自身だったことは理解していた。我を忘れ怒りに身を焦がし、憎しみのままに〈災いの獣〉に襲い掛かった。
その所為で森は焼き尽くされ、美しい景観が損なわれてしまった。けれど、森はいずれ本来の姿を取り戻すだろう。古の神々が残した戦いの痕跡すら森のなかに埋もれてしまい、人々の記憶からも消え去り、伝承や書物のなかにしか存在しなくなってしまったように。
しかし――あの美しい獣はどうだろうか。その身に混沌を取り込み過ぎてしまったがために異形に変質し、おそろしい穢れを宿してしまった白い獣は、果たして本来の姿を取り戻すことができるのだろうか。……いや、きっとその瞬間はもうやってこないのだろう。
アリエルはそっと瞼を閉じると、森に尽くしてくれた美しい獣のために祈りの言葉を口にした。どのような崇高な存在であっても、死の運命から逃れることはできないのだから。
名の知れぬ獣は、森の部族に災いをもたらす存在になってしまったが、それはこのような哀しい最期でなくてはならなかったのだろうか? 大地に残された黒々とした体液は瘴気に変わり、つめたい風に吹かれながら霧散していく。そして獣が存在していたことも、やがて忘れられてしまうのだろう。
けれど感傷に浸っている余裕はない。アリエルは地面に落ちていた守り刀を拾いあげ、刃が欠けていないか確かめたあと、毛皮の〈収納空間〉に保管した。大切なモノなので、失くすわけにはいかない。
それから周囲を見回しながら仲間たちの姿を探した。しかしその痕跡すら見つけられない。地面に転がる岩石や泥を避けながら歩いていると、戦いのなかで失くしてしまっていた両刃の剣を見つける。
ひどい状態だったので呪素を流し込んで刃を修復しようとしたが、相変わらず刀身は鋸歯状に変化していて元の状態には戻らなかった。白い獣の血液と鋼が混ざり合っているようだった。まだ普通に使えるので、回収して毛皮の〈収納空間〉に放り込む。いつ補給を受けられるのか分からない状態なので、いつものように使い捨てにはしない。
けれど仲間を見つけることはできなかった。すぐ近くで戦っていた豹人の姉妹すら見つけられなかった。名前を叫んでも返事はない。もしかしたら、あの獣との戦いに巻き込まれて致命傷を負ってしまったのかもしれない。嫌な考えが浮かぶと、途端にそのことが頭を支配し、実際に起きているように思えてしまう。
今もどこかで助けを求めているのかもしれない。そう思ったらいても立ってもいられなくなって駆け出す。が、どこを捜せばいいのかも分からず、不安ばかりが募る。
異変を感じたのは、ちょうどそのときだった。青年は意識が徐々に混濁していくのを感じた。何も考えられなくなってしまっていたのだ。手足の力は抜け、その場に両膝をついてしまう。だが、不思議と嫌な感じはしなかった。項垂れるように地面を見つめていると、前方に淡い光が灯るのが見えた。それは暖かな光だった。
そう、それはまるで焚き火のような……焚き火?
ゆっくり顔をあげると小さな炉と、ゆらゆらと揺らめく炎が見えた。その炉には見覚えがあった。意識がハッキリしてくると、炎の向こうに人喰い部族の族長イスティリシの姿が見えた。
すぐに自分自身の状態を確認するが、身体に異常はなかったし、失くしていたはずの黒衣も身につけていた。悪い夢でも見ていたのだろうか?
思い出したように両刃の剣を取り出して刃を確認するが、そこには鋸歯状の刃が確かに存在していた。それなら、あれは現実に起きたことなのだろうか。周囲に視線を向けると、小屋にいることが分かった。いつの間にか集落に戻ってきていたようだが、どうも小屋の様子がおかしい。
小さな炉を取り囲むようにして座っていた呪術師たちの顔は血に染まり、目や鼻、口から大量の血を流した状態で絶命しているように見えた。灰にまみれていた肌は腐ったように変色し、複数の裂傷からは気色悪い体液が噴き出していた。
そしてそれはひとりだけではなかった。呪術師のなかには、ひどい火傷で皮膚が墨のように黒く炭化している者もいた。そのとなりには、中途半端に焼けた所為で筋肉が収縮し、膝を抱えるように蹲っている者もいた。とにかくそれは悲惨な光景だった。まともな遺体はひとつもなく、生きている呪術師はひとりだけだった。
その様子に豹人の姉妹や照月來凪も驚いているようだった。アリエルは彼女たちの顔を見て安心したが、それと同時に呪術師たちの様子にも動揺していた。
「驚くようなことでもないだろう」
呪素で紡がれる族長の言葉は微かに大気を震わせる。
「お主らが自らの役割を果たしてくれたように、かれらも己の役割を果たした。それだけのことだ」
「かれらの役割とは……?」
族長はじっとアリエルの顔を見つめて、それから質問に答えた。
「かれらはあの戦いで死んでしまった者たちの身代わりになった。だが気にする必要はないだろう。そうなることは決まっていたのだから」
もはや何がどうなっているのか理解できなかったが、とにかく質問することにした。
「自らの命を犠牲にすることで、我々のことを救ったのでしょうか……?」
青年の質問に彼女は首を横に振った。
「誰かを救うつもりなんてなかった。ただ目的が果たされるように己を犠牲にした」
そこまで言うと、族長は黒曜石めいた眸でアリエルを見つめた。
「さて、ここからは報酬の話をしよう」




