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炉の炎が族長の顔に陰影を落としていた。謎めいた種族の族長イスティリシは、長く艶のある黒髪をさらりと揺らし、そっと瞼を閉じる。その美しく厳かな表情は、一瞬にしてその場の雰囲気を変えていく。
「アリエル、私だけの〝輝ける神の子〟にして、神々の森の守護者よ。我が部族は〈災いの獣〉の恐怖にさらされている。闇を払いし者として、どうか我が部族に力を貸してくれ。かの〈災いの獣〉は我らの森に忍び寄り、邪悪な影を投げかけている。その〝魔物〟を蹴散らし、我らの安寧を取り戻してほしい」
イスティリシの目は大きく見開かれ、黒曜石を思わせる漆黒の瞳は深淵なる知識を秘めているかのようだ。彼女の言葉は大気を震わせ、呪素で紡がれる言葉で部族の戦士たち圧倒していく。ノノとリリも膨大な呪素に気がついているのか、警戒するように長い尾を腰に巻き付けていた。
「災いを打ち破り、我が部族を救ってくれ。我らの運命はアリエル、汝とその仲間の手にかかっている」
族長の言葉が心に入り込むように響くなか、イスティリシの目は再び閉じられ、妖しげな微笑みが唇に浮かぶ。彼女の姿は――炎に照らされているにも拘わらず、闇に包まれ、暗黒の中に溶け込んでいくようだった。
するとイスティリシの手のひらに呪素が集まり、眩い光を放つのが見えた。それは瞬く間に炎に変わり、族長の手を包み込んでいく。熱を持たない炎は妖しく揺れ、闇を一掃するかのように燃え上がる。彼女の黒い瞳に炎が映し出され、まるで彼女自身が炎のなかで生を得た精霊のような、どこか妖艶な雰囲気に包まれていく。
「我が手に宿る深淵なる炎の力よ、神の子に力を与え〈災いの獣〉を追い払いたまえ」
イスティリシの声は呪素と共に渦巻き、その言葉が炎のなかに閉じ込められていくように感じられた。やがて炎は青から鮮やかな紫色へと変わり神秘的な光を放ちながら、ゆっくりと小さな水晶を形作り、彼女の手のひらで輝く宝石へと変化していく。
その水晶は美しい輝きを放ち、彼女の手の中で微かに震えていた。そして儀式の終わりを告げるかのように、やがて眩い光は消えていく。部族の戦士は族長の呪術に圧倒され、畏敬の念を抱きながら瞼を閉じ、胸に手をあてながら頭を下げた。
イスティリシは水晶を見つめ、まるで凍り付いたかのように、水晶のなかに閉じ込められた炎の揺らぎを感じていた。異次元の呪術が封じ込められているかもしれない。その炎の揺らぎを見つめているだけで得体の知れないものたちの、あるいは太古に実在した〝偉大なるもの〟たちの暗くて、底知れない意識が流れ込んでくるような感覚に陥る。
「この水晶には〈災いの獣〉を打ち破るための秘術が込められている」
彼女の声は、いくつもの声が重なり響いているかのように聞こえ、神秘的で威厳に満ち、戦士たちは族長の言葉に静かに耳をかたむけていた。
「〈災いの獣〉は領域の狭間に存在する異次元を渡り、この森にやってきた魔物であり、この世界とは異なる理の中で生きている。かの魔物を打ち倒すには〈終わりなき炎〉の力が必要だ。アリエルよ、この水晶を用いて、汝の手で〈災いの獣〉を討ち果たしてくれ」
イスティリシがそっと手を握り、ふたたび開いたときには、水晶は白銀の鎖にしっかりとつながっていた。精巧な細工が施された白銀の首飾りは、エルシアの手の中で光を受け、月明かりを宿しているようだ。
彼女がその首飾りを手にアリエルに近づくと、彼は自然と頭を下げた。森の守護者としての使命と、その意味を思い出したかのようだった。青年の表情には自信があらわれ、使命感に満ちていた。
その気持ちが込み上げてくる理由は分からなかったが、守人としての役割を果たせることに、何かしら感じるものがあったのかもしれない。ふたりの様子を見守っていた豹人の姉妹は、そこに奇妙な呪素の痕跡を見いだしていた。けれど、そこでどのような呪術が使われたのかまでは分からなかった。
イスティリシはそっと微笑み、繊細な手つきで青年の首に白銀の鎖を掛けた。その首飾りはアリエルの首元に優雅に収まり、彼女の指が触れると、まるで呪素に呼応するように静かに震えた。
それから族長は青年に顔を寄せ、彼の耳元で優しく囁いた。
「それでは、またあとでゆっくり話そう」
アリエルは困惑し、彼女が口にした〈災いの獣〉について訊ねようとした。しかし有無を言わせない迫力に気おされ、質問することができなかった。
彼女はそのまま護衛の戦士たちを引き連れながら出ていった。彼女の背中は炉の炎に照らされ、まるで炎の一部であるかのように揺れているように見えた。彼女がいなくなると、何処からか宴会の始まりを告げる笛と太鼓の音が聞こえ、人々の喜びと獣退治の成功を願う声で満たされていく。
人々は〈災いの獣〉からの解放と、異界の旅人であるアリエルたちの勇気に乾杯し、祝福の音を奏でていた。宴会の雰囲気は一気に賑やかさを増し、集落の人々は心から楽しんでいるようだった。燃え盛る炉の周りには、様々な料理が並び、その香りが広がっていた。部族の者たちは笑い声を響かせ、仲間たちと楽しく酒を飲み始めた。
昆虫を使った独特な料理や、見たこともない野草を使った料理が戦士たちに振舞われていく。色とりどりの器に盛り付けられ、美しく飾りつけられた料理が、未開の地にいるとは思えない華やかな光景をつくり上げていた。
広場では火が焚かれ、肉が焼かれ調理されているのか、次々と肉料理が運ばれてくる。子どもたちは興奮気味に、大人たちに交じって食事を楽しんでいた。
とくに熱々の肉や香り高い汁物が子どもたちの舌を喜ばせていた。笑顔に彩られた顔が、炉の明かりに照らされて、温かく親密な雰囲気に包まれていた。やがて聞きなれない歌と踊りが披露され、部族のなかで一体感と幸福感が広がっていく。
けれど青年は目の前に並ぶ料理に手をつけることができなかった。でもそれは昆虫を使った料理や、得体の知れない肉が並んでいたからではなかった。アリエルは何か別の違和感を覚えていた。その違和感は豹人の姉妹や土鬼の武者、そして照月來凪も感じていた。
彼女は顔をしかめるのを我慢し、失礼にならないように酒が注がれた器を手に取る。けれど決してそれを口に入れようとはしなかった。何かがおかしい。それは人喰い族の集落にいるからというわけではなく、料理そのものからも奇妙な印象を受ける。果物の甘い匂いのなかに腐臭が混ざり合っているような、名状しがたい感覚に悩まされる。
アリエルがノノとリリに声を掛けようとしたときだった。彼を案内してくれた女戦士がやってきて、〈災いの獣〉について説明するため、別の小屋に移動することを告げる。青年が立ちあがると、彼女は豹人の姉妹を見つめる。
どうやら今回は彼女たちも話し合いの場に連れていくようだ。広場に出ると、すでに日が落ちていて、空は黒みがかった深みのある青に――瞑色に染まっているのが見えた。
広場には焚き火が用意されていて、そこでは人に似たモノも焼かれていて、その周囲で戦士たちが槍を手に踊る姿が見られた。ある種の恍惚状態なのか、男女ともに衣服を脱ぎ捨て、汗を掻き奇声を上げながら踊っていた。
「こっちだ」
女戦士の言葉で本来の目的を思い出すと、彼女のあとについて歩いた。広場をあとにすると、瞬く間に暗闇に包まれていく。しかし女性は暗がりでもしっかりと見えているのか、立ち止まる様子は見られなかった。ノノが照明になる発光体を浮かべると、眩しそうな表情を見せるほどだった。
やがて目的の小屋に到着する。広場からは笛や太鼓の音が微かに聞こえてきていたが、辺りは静まり返っていて、フクロウと昆虫の鳴き声が聞こえてくるだけだった。




