Ariel
真の恐怖とは、人間が自らの想像力に対して抱く恐怖だという。
あの瞬間――鋭い刃が頬をかすめたとき、青年が感じていたのは死に対する恐怖そのものだった。
部族間の戦について語られるとき、とくに凄惨な戦の話をするときには、戦士たちの手で実際に行われた事と、そこで行われたように見えた事を区別するのは困難になる。戦場でのあらゆる行動が戦士たちの興奮と怒り、そして憎しみと歓喜によって脚色されてしまっているからだ。
明確な殺意と共に振り下ろされた太刀の切っ先は、残像となって網膜に焼きついて離れなくなる。人々は恐怖から逃れようとして、きつく瞼を閉じるが、肉を斬り裂いて飛び散る鮮血を忘れることはできない。
不意に戦友が殺されたとき、戦士たちはその現実から目を逸らそうとする。そして真実を否定するように、古の神々に祈りながら戦友の亡骸を見つめる。
そこで戦士たちが見る光景は、彼らが受け入れたい〝現実〟と、彼らが受け入れられない〝真実〟とで混在してしまう。そこで多くの物事が見逃され、そして損なわれてしまう。だからあとになって思い出そうとするとき、ありもしない戦場の出来事が、あたかも真実のことのように語られてしまうのだ。
いつしか虚構は現実の重みを身につけ、実在した出来事として語られるようになる。人々の熱狂や悪意、そして願望によって真実が歪められてしまうのだ。
真っ白な雪原を染める鮮血のように、耐え難い恐怖は戦士たちの現実をゆっくりと侵食していく。そうして真実そのものが作り話のように思えてしまう。けれど戦場で行われる多くの蛮行は変えることのできない真実でもある。それは悲惨で残酷な現実だ。
恐ろしい速度で振り下ろされた刃を間一髪のところで避けたあと、青年は敵対者の手首に斧を叩きつける。皮膚を裂いて肉を抉り、骨が砕ける嫌な感触が伝わる。肉に深く食い込んで動かなくなった斧を諦めると、敵対者が手放していた太刀が地面に触れてしまう寸前に掴み取り、そのまま彼の喉に突き刺す。
刃を引き抜いた瞬間、薄汚れた皮鎧を着た戦士は驚いたような表情を見せながら喉元を押さえるが、水が沸き立つような嫌な音を立てながら血液が噴き出してしまう。戦士は痙攣するようにビクリと身体を震わせたあと、前屈みになってバタリと倒れる。
これは現実の出来事だ。
と、背後から別の敵対者が咆哮しながら猛然と駆けてくるのが見えた。咄嗟に太刀を構える。が、ヌメリのある血液に濡れた柄の所為で、刀を取り落としてしまいそうになる。
振り下ろされた刃が眼前に迫る。恐怖に身体が強張る。けれど横手から飛んできた槍が敵対者の脇腹に突き刺さると、戦士は痛みに顔を歪め、思わず動きを止めてしまう。
その隙を突いて敵対者の胸部に刃を突き刺す。けれど樹脂を使って繊維を幾層にも重ねて接着した強度のある鎧は、なまくらの刃を通さない。すぐに手掌の中心に柄頭をあてると、押し込むようにして刃を深く突き刺した。
嫌な感触だ。と、青年は思う。
けれど、これも現実の出来事なのだろう。
おびただしい量の血液を吐き出す敵対者の目を睨みながら、太刀を引き抜くと、掩護してくれた戦友に向かって手をあげる。彼はニヤリと残忍な笑みをみせたあと、別の戦士を殺しにいく。
戦闘直後に語られることになる真実を含んだ多くの出来事は恐ろしく、そして残酷だった。ある者は耳を塞ぎ、ある者はそれが嘘だと怒り、ある者は己が信じたい現実を捏造し妄想に没頭する。戦場の真実は、だから人々に受け入れてもらえないし、信じてもらえないのだ。
誰もが耳を傾け、魅了され信じてしまう戦場の出来事があるのなら、我々はまずそれを疑うべきなのだ。真実は誰もが簡単に受け入れられる綺麗事ばかりではない。往々にして嘘のような話が真実であり、筋が通るまともな話が嘘である。
何故ならば、戦場で見られる多くの出来事は生易しい英雄譚などではなく、信じがたいほどの狂気に彩られた現実に他ならないのだから。
風切り音が聞こえると、無数の矢が身体のすぐ近くを掠め飛んでいく。咄嗟に腕を伸ばし戦士の亡骸に突き刺さっていた槍を引き抜くと、さっと視線を動かして樹木の陰に潜んでいた射手を見つける。
そこに躊躇いは存在しない、上半身を捻り、腕を鞭のようにしならせながら槍を投げつける。それは射手の腹部に見事命中すると、その勢いのままに射手を後方に吹き飛ばした。
戦場はこの世界に現出した〝地獄〟だと表現した亜人がいる。彼の言葉は正しい。けれどそれは戦争のほんの一部しか表現していないように思う。なぜなら戦争は、人々の心を――欲望を多分に含んだ生き物だからだ。
戦場には友情があり、怒りがあり、名誉があり、憎しみがあり、殺意があり、愛がある。戦争は人々の悪意の総意によって形作られ、人々の善意によって拍動し、熱情によって生を与えられるモノだ。
けれど本当の戦闘について語られるとき、我々は戦闘の外輪についてしか知ることができない。それは例えば、戦闘のキッカケになった出来事や理由であったり、死傷者の数であったり、互いの思想であったりする。戦場での血腥い出来事は何処にいってしまったのだろうか。
あの狂気に満ちた空間は……あの蛮行の数々は、何時、何処で語られるのだろうか。人々は自ら作り出した凄惨な光景から目をそらし、その惨状に耳を塞ぐ。
そのようにして語られることのない戦場の――地獄の先端に青年は立っていた。
敵も味方も分からない乱戦のなかで、彼は茫然と立ち尽くしている。息は切れていて、吸い込む空気は血液と糞尿の臭いで満たされている。粘度のある返り血で染まった視界は赤く、足元に転がる肉体が味方のモノなのか、それとも敵のモノなのかも判別できない。
怒号が聞こえて視線を上げると、敵対者が斧を振り上げながら駆けてくるのが見えた。すぐに腕を上げようとするが、ひどく気怠い。意識はハッキリとしているのに、疲れた身体は思うように動いてくれない。
すると眼前に迫っていた敵対者の腕が、振り下ろされるはずだった斧と共に斬り落とされ、次いで横から伸びた槍が彼の喉を貫いた。哀れな戦士は糸が切れた人形のように、地面に両膝をつけると驚愕の表情で青年を見つめる。
裂けた喉からは血液が混じった空気が漏れ出る音が聞こえる。戦士は喉を押さえようとして腕を上げるが、そこにあるはずの腕はない。しかしそれは彼にとって、もう意味のないことに思えた。戦士の意識は朦朧としていて、命が尽きようとしていた。
その戦士が手にしていた斧を切断された手から引っ手繰るように取り上げると、背後から迫っていた戦士に投げつけた。予期していなかった攻撃に敵が戸惑いを見せた瞬間、足元に転がっていた拳大の石を拾い上げながら敵の懐に入る。そして戦士の顔面に力任せに石を叩きつけた。
敵対者が倒れると、そのまま馬乗りになって頭部に何度も石を叩きつけた。何度も、何度も、何度も。頭蓋骨がグシャリと陥没して、眼窩から眼球が飛び出す。
青年は口に侵入した返り血を吐き出すと、喘ぐようにして深く息を吸い込む。死を前にして緊張したからなのか、まだ身体が震えている。それから青年は立ち上がると、周囲を見回して敵がいないか確認する。敵対勢力の奇襲で始まった小規模な戦闘は、彼が所属する部族の勝利で終わろうとしていた。
ゆっくり息を整えたあと、青年はすぐ近くに横たわっていた死体のそばにしゃがみ込んで、戦士が握っていた太刀を手に取り立ち上がると、刃についた粘度の高い血液を払う。
森のあちこちから聞こえてきていた叫び声や、騒がしい悲鳴は聞こえなくなっていた。その代り、苦痛を帯びた呻き声や、戦場の現実に打ちのめされた戦士たちの啜り泣く声が聞こえていた。
不意に冷たい風が吹くと、森の奥から霧が立ち込めるのが見えた。小雨に濡れた森がぼんやりと霞んでいる。そこでは何もかもが別の何かの一部のように溶け合い混ざり合っているように見えた。
ちらりと視線を動かすと、雨に濡れた森と泥に浸かる無数の死体が見えた。
結局のところ、青年はどうしようもない地獄の尖端に立っていたのだ。そして彼の不幸は、そこから抜け出す術を知らないことだった。