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アリエルは集落の中心にある広場まで案内されたあと、そこで豹人の姉妹と別れて、族長とやらに会うため別の場所に連れていかれる。青年を案内するのは、ラガルゲに乗っていた女性だけだった。
獣の爪や牙の首飾りや、その特徴的な装いから彼女が狩人だと推測できたが、部族のなかでもそれなりの身分をもつ者なのかもしれない。
集落では多くの戦士や狩人が見られたが、通りで彼女のようにラガルゲに乗っている者は少ない。……というより、ほとんど見かけなかった。ラガルゲと行動している戦士はいるが、かれらは下乗し片手で手綱を引いていた。
そして決定的だったのか、彼女とすれ違うさいに必ず立ち止まり、目線を合わせないように頭を下げる行為だった。
すんなりと集落に案内されたのも、あのふたりに決定権があったからなのかもしれない。つめたい風が吹くと、腐臭と血の臭いが辺りに漂う。アリエルは顔をしかめて、それから舗装されていない通りの先に視線を向ける。足元には泥除けに木の板が敷かれていたが、歩くたびにベチャベチャと音を立てた。
やがて半円形の小屋が見えてくる。厚い丸太で組まれた頑丈な骨組みで、外壁には動物の毛皮や骨が装飾として使われていた。屋根は低く傾斜していて、大きな葉や草が密に敷かれている。
壁の隙間は泥で塞がれていて、風や寒さをしのぐ工夫が見られた。貧相に見える小屋でも、その構造には生活環境に対する深い知恵と工夫が見受けられた。
他の家屋のように、その外観は自然と調和し森に溶け込んでいる。けれど小屋の周囲に柱状の木造彫刻はなく、代わりに石が積まれているのか見えた。それは小屋の土台であり、小屋を囲む壁としても使われているようだった。
女性はラガルゲから下乗すると、豊満な乳房を揺らしながら歩いてくる。背が高く、目線を合わせるために顔をあげる必要があった。もっとも、白目のない不気味な黒い瞳をしていたので、彼女がどこを見ているのかも分からなかった。
「入れ、族長が待っている」
アリエルはうなずいたあと、腰に差していた両刃の剣に視線を落とした。これから族長に会うことになるが、武器の所持に関して何も説明されなかったことが不思議だった。
入り口に近づくと見事な毛皮が掛けられているのが見えた。風に揺れる毛は、獣の優雅で荒々しい美しさを表現しているようだった。アリエルはそっと毛皮をめくり上げ、頭を低くして狭い入り口を通って小屋に入る。
一歩中に入ると、つめたい風が吹き荒ぶ外とは異なり、静寂と暖かさに迎えられる。すぐに竪穴式の住居だと気がついた。中央には暖炉があり、その炎が踊りながら周囲に幻想的な明かりを放ち、無数の柱が立てられた室内を照らし出している。床には大量の毛皮が敷き詰められ、その上に草で編まれた座布団が並べられているのが見えた。
しかし族長らしき人の姿は見えない。不審に思い、室内を見回すと暗がりから女性の声が聞こえる。
「異界の旅人よ、どうぞお座りください」と。
それは部族が使用する共通語だったが、やはり強い訛りがあり、聞き取りづらい独特な発音だった。しかし声に呪素を乗せているからなのか、聞き慣れた共通語に聞こえた。
その声が聞こえた方向に視線を向けると、暗闇のなかに浮かぶ瞳が見えた。それは青い炎のように、ゆらゆらと揺れている。
その眸に見つめられた瞬間、心の奥底にある魂を直視されているような、ひどく奇妙な衝動に襲われる。心をかき乱され、咄嗟にその場を離れてたくなるような感覚だ。
すると背の高い女性が暗がりから姿をあらわす。そこに立っていたのは妖艶な雰囲気を纏う女性だ。彼女の灰色がかった薄青色の肌は、暖炉の炎に照らされて幻想的な輝きを放ち、まるで星々の輝きが宿っているようだった。
人目を惹く整った顔立ちをしていたが、種族の特徴でもある切れ長の大きな瞳は白目がなく黒曜石のように輝き、深淵に見つめられているような不気味な印象を与えた。
彼女から感じる雰囲気は、どこか照月來凪から感じるものに似ていた。しかしそれは、彼女のもつ美しさや妖艶さだけではないのだろう。手を伸ばせば触れられる距離にいる照月來凪と異なり、彼女は目の前にいても触れられないような、手の届かない存在に感じられた。
その女性は見事な毛皮で身を包み、黒い毛皮には白い斑模様があり、素肌の大部分を露出していた彼女の肌色を、より印象的にしていた。野性味すら感じられる姿は、彼女が文明から遠く離れた神秘的な存在であることを象徴しているようでもあった。
暖炉に照らされる黒髪は夜闇のような艶やかだった。彼女から漂う甘い香りが、草木の匂いと混ざり合い、まるで大気に妖しげな魔術が含まれているようだった。
アリエルは彼女の眸を見つめているだけで、その妖艶で野生的な美しさに引き込まれていく。ある種の非現実的な存在感は青年を魅了し、思考力を奪っていくようでもあった。
彼女が歩くと、その身を包み込んでいた薄布が張りつめ、お尻が丸く盛り上がるのが見えた。綺麗な乳房が揺れ、丸みのある引き締まった臀部が強調される。それは若く多感な青年にとって、あまりにも生々しく、そして刺激的な光景だった。失礼のないように視線をそらそうとするが、自然と目が奪われてしまう。
それを見て取ったのか、彼女は甘く蕩けるような微笑を浮かべたあと、頬を赤紫色に染めながら青年に顔を近づける。それから彼女は深い声で問いかける。
「私の名はエル・セイ=イスティリシ。宵闇を這う詩人であり、星々の語り手だ。若き異界の旅人よ、私に名を聞かせてくれ」
彼女の口から紡がれた言葉は、まるで夜に吹く風が木々の間を抜けるような幻想的な響きを持っていた。その言葉は呪術的な、あるいは〝より原始的な呪い〟を帯びていて、空気に呪素の波紋を広げているようだった。
「アリエル」
名乗ったあと青年は口を閉じたが、彼女に気に入られようとしてすぐに口を開いた。どうしてそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。
「境界の守人で、森の守護者だ」
アリエルの言葉に彼女は小首をかしげて、得意げな顔で微笑む。それから夜空の奥深さを連想させるような美しい黒髪を揺らしながら歩いた。彼女の仕草のひとつひとつが青年を魅了し、一瞬で小屋のなかを夢幻の世界に変えてしまうように感じられた。
あるいは、その場にいたのがノノだったなら、幻惑の呪術が使用されたのではないかと疑ったのかもしれない。しかしそこに立っていたのは、まだ女性を知らない若者だった。かれの視線は薄い装束から覗く滑らかな肌や、色素の薄い乳輪に惹きつけられていた。
「教えて、私の〝輝ける神の子〟よ。この忘れられた森で何をしていたの?」
呪素によって意味を与えられる言葉は、古の呪文のように響き渡る。イスティリシの声は優雅でありながらも力強く、その妖艶な魅力が失われることはなかった。彼女の言葉は魔術のように心に入り込み、そこに立っているのがただの女性ではなく、部族の女族長であることを示しているようだった。
彼女が族長だと気がつくと、アリエルは思わず膝をつきたくなった。彼女の膝下に跪きたくなるような衝動に襲われたのだ。だが、そうしなかった。青年の体内に流れる古き血が――神々の血がそれを許さなかったのだろう。
イスティリシが青年に身体を寄せると、彼は緊張しながら答えた。
「いなくなった仲間を捜している」と。
青年の言葉に反応して彼女の黒い瞳が青く発光すると、まるでヘビの眼のように縦に細長い瞳孔があらわれるのが見えた。その瞬間、アリエルは背筋に冷たい戦慄を覚え、思わず剣の柄を握った。彼女はちらりと視線を落とし、青年の手を確認したあと、そっと離れた。
アリエルはひどく困惑していた。彼女の存在そのものに混乱していたし、言い知れない不安を感じていた。