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荒廃した遺跡の至るところからか聞こえてくる獣の唸り声や、魚人の悲痛な叫びに耳を澄ませながら、アリエルはノノが話していたことについて考える。
たしかに光の地図が指し示していたのは、かつて〈空間転移〉が行われた場所なのかもしれない。そして〈転移門〉が思惑通りに機能してくれるなら、行方知れずになった照月來凪を見つけることができるだろう。
光で形作られた地図を注意深く眺めながら、〈転移門〉の鍵でもある腕輪に呪素を注ぎ込んで照月來凪が〈空間転移〉したと思われる遺跡を探す。空中に浮かび上がる古代文字を理解することはできなかったが、呪素が意思を反映してくれていたので、地図を操作すること自体は難しくなかった。ここで重要なのは、集中力を途切れさせないことだった。
やがて彼女が〈空間転移〉したと思われる遺跡を見つける。それは南部の湿原から遠く離れた場所にある遺跡なのか、地図上に正確な位置が正しく表示されなかった。それはアリエルたちを不安にさせたが、ほかに選択肢はなかった。
このまま遺跡にとどまり、魚人の戦士と血に飢えた肉食獣の相手をしながら彼女の痕跡を捜すか、危険な湿原を歩き回りながら手掛かりを探すことしかできなかった。けれどそれだけの危険を冒してもなお、広大な湿原で彼女の痕跡を見つけることはとても困難なことに思えた。
それならば、ただひとつの可能性にかけるしかない。アリエルはそう考えたのだ。青年が心を決めると、ノノは彼の腕輪にそっと触れながら〈転移門〉を操作していく。
彼女の手から腕輪に注がれる力は、青年の呪素と混ざり合いながら、彼女の意思をも反映していく。それは呪術師として並外れた能力を持つノノにとっても難しいことだったが、彼女は〈転移門〉を適切に操作し、空間の歪みを発生させていく。
空間に生じた亀裂から混沌の気配が溢れ出すと、遺跡に潜んでいた獣たちは混沌の瘴気に含まれる力に引き寄せられるように、〈転移門〉に向かって移動を開始する。もはや、この場でぐずぐずしている時間は残されていなかった。アリエルたちは門の内側に発生していた歪みのなかに足を踏み入れた。
一瞬の暗転のあと、静寂のなかに沈み込む半円球状の天井を持つ広大な空間に立っていることに気がつく。壁や床には鏡のように姿が映り込む赤銅色の石材が使われていて、微かな足音さえ響き、ずっと遠くの壁まで反響しているように聞こえた。
その広大な空間は薄暗い闇に包まれていたが、足元の石材が淡い光を帯びていることに気がついた。奇妙なことに、その薄闇の中でもずっと遠くにある壁まで鮮明に見ることができた。篝火や松明の灯りは見当たらなかったが、天井付近には星のように輝く小さな発光体が数え切れないほど浮かんでいるのが見て取れた。それが光源となっているのだろう。
光り輝く発光体は、まるで星々がこの空間に閉じ込められ、幻想的な光を放っているかのようだった。その淡く、ぼんやりとした光が空間を照らし、そこに漂う暗黒を打ち消していた。
高い天井には、複雑で緻密な幾何学模様が彫りこまれていた。それらの模様は楔形文字のようにも見える文字で縁取られている。その複雑な模様は角度と位置を微妙に変えながら、空に浮かぶ星々の位置を正確に描いていることが分かった。いや、確証はなかったが、アリエルにはソレが星空に見えた。
じっと見つめていると、暗黒に満ちた空の秘密が刻み込まれていて、星々が生き生きと動き出すかのような錯覚に囚われる。それらの模様の中には、〈白冠の民〉の遺跡で見られる古代文字や記号に酷似したものが見て取れた。それは周囲の模様と調和が取れるように彫りこまれていて、その空間により一層神秘的な雰囲気を与えていた。
森の神々を祀る神殿なのかもしれない。けれど、その広大な空間には出口らしきものは見当たらない。半円球の天井に沿って、ぐるりと空間を囲む壁には出入り口になると思われる扉は存在せず、窓の類も見られない。世界から完全に隔絶された未知の空間だった。
天井に目を凝らすと、空気を取り込むためにあると思われる給気口がいくつか見受けられた。しかしそれらの狭い穴は天上のずっと高い位置にあるため、翅を持つ小妖精でもない限り、出入り口として使用するのは難しいだろう。
ノノが呪術の照明を使い周囲を照らすと、アリエルたちの姿が磨き上げられた床にハッキリと映り込むのが見えた。足元を注意深く眺めると、床にも複雑な模様が刻まれていることが分かる。それは、そこに立っていることすら申し訳なく思うほど綺麗な模様だった。
背後を振り返ると、〈空間転移〉に使用される門がどこにも見当たらなかった。代わりに、濃い霧が局所的に発生しているのが見えた。その霧は空間を歪ませる薄い膜のようなものに包まれていることが分かった。
たしかにアリエルたちは目的の場所に〈空間転移〉することができた。けれどたどり着いた場所に照月來凪の姿はどこにもなかった。
だが〈白冠の塔〉が存在する〈クヌム〉の領域のように、アリエルが知る物理的な法則が通用しないような異次元に〈空間転移〉したとも思えない。それは確かに彼らが知る世界であり、大気中に呪素が存在することからも、森の外ではないことが分かった。
あるいは、その濃霧が〈転移門〉として機能するのかもしれない。その霧はただの霧ではなく、呪素に満ちていることが分かる。であるなら、この場所に閉じ込められるという心配をする必要はないのかもしれない。アリエルたちは気を取り直すと、手分けして照月來凪の痕跡を捜すことにした。
興味深そうに周囲を見回していたリリは、壁に刻まれていた模様を見に行くことにした。壁に触れると、ひんやりとしていて金属を思わせる滑らかな手触りがした。その壁一面に彫りこまれていた模様を眺めていると、どこからともなく音が聞こえてくる。
いくつもの鈴が鳴らされているようでもあり、金属を打ち鳴らす音にも聞こえた。それは目に見えない光の粒子が奏でる音楽のようにも聞こえた。
その音は荘重でありながらも優雅で、まるで夜空の星々から降りそそいでいるようでもあった。リリはその音に耳を傾けるうちに、異次元の力に触れるような奇妙な感覚に包まれていく。星々が奏でる旋律は、まるで物語の終わり告げているかのように、どこか物悲しい響きを帯びていた。
天井を仰ぎ見ると、荘厳な空間を照らす発光体が結晶に変化していくのが見えた。それは夜空を内部に閉じ込めたかのような、青や赤、そして紫の幻想的な光を放っていた。数え切れないほどの結晶は空間に漂う光を取り込みながら、空中で踊っているように見えた。
リリはその大きな眸で無数の結晶を見つめる。異次元の力がこれらの結晶に宿り、夜空の歌を奏でていると考えた。彼女はその美しい輝きに囚われながら、そこに隠された神秘の一端に触れた気がした。そこには呪素や混沌の瘴気すら霞む力が潜んでいる。その秘密を手にできたら、あるいは世界すらも変えられるかもしれない。
けれどノノに名を呼ばれると、先ほどまで彼女の心を捉え支配していた感情が綺麗に消え去っていることに気がついた。理由は分からなかったが、もう音楽は聞こえなかったし、あの不思議な結晶も見えなくなっていた。それは心に穴が開いたような、奇妙な喪失感を伴った。だけどその喪失感も、姉と話をしているうちに消失してしまう。
リリは気を取り直すと、ノノの言葉に集中する。どうやら彼女はこの空間を〈転移門〉の中間地点だと考えているようだ。この未知の空間を経由して、また別の場所に〈空間転移〉できるのだと。そしてその考えは間違っていなかった。あの奇妙な霧に向かって腕輪を使用すると、別の場所につながる空間の歪みが発生するのが見えた。




