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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 前編
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 暗い湿原を進むアリエルたちは、ふたたび厳しい環境に身を投じることになった。足元は深い泥濘(でいねい)に埋もれ、歩くたびにベチャベチャと湿った音が聞こえる。


 灰色の(みき)を持つ朽ち果てた樹木が湿原にしゃがみ込んでいるように見え、その根元は黒い泥に覆われていた。つねに嫌な腐敗臭が空気中に立ち込めていて、吸い込むたびに気持ちが沈み込んでいくようだった。


 ノノとリリは注意深く〈転移門〉のそばを離れると、耳をピンと立て、遺跡に危険な生物が潜んでいないか調べた。大昔に打ち捨てられてしまった遺跡に人気(ひとけ)はなく、生物の気配も感じられない。


 その遺跡の周囲には背の高い(あし)が群生し、つめたい風が吹くたびに揺れているのが見えた。時折、その音が湿原の静けさを奪っていくように感じられた。


 葦のなかに敵が潜んでいたら、それを先に見つけることは困難だろう。それでも三人は荒廃した遺跡を離れ、葦のなかに足を踏み入れる。ノノとリリはひどく警戒しているのか、長い尾を左右に素早く振っていた。


 葦の間から垣間見える寒々しい景色のなかに、時折不気味な影が潜んでいるように見えて、ひどく不安な気持ちにさせた。リリの感情に反応したのか、上空を飛んでいた猛禽の鳴き声が響き渡る。それは暗く冷たい気配に(おお)われていた湿原の静寂を切り裂いていく。


 周囲の安全を確認しながら歩いていると、異様な風景を目にすることになる。枯れ木が密集している場所に出ると、薄地の白い垂れ幕のようなモノが広範囲に(わた)って樹木に覆い(かぶ)さっている不思議な光景を目にする。反対側が透けて見えるほど薄い垂れ幕を注意深く観察すると、ソレが細い蜘蛛の糸で形作られていることが分かった。


 どうやら大蜘蛛の棲み処が近くにあるようだ。糸が絡まる魚人の死骸が枯れ木の枝から吊るされているのが見えた。


 それも一体や二体だけではない、数え切れないほどの魚人が捕まっていた。〈獣の森〉でも滅多に遭遇することのない人間よりも大きな蜘蛛を相手にしている余裕はなかった。すぐにその場を離れると、ニクバエが飛び交う黒い沼地に近づく。


 底無し沼を横目に見ながら葦のなかを歩く。足元の泥濘が嫌な音を立て異臭が大気に漂い、ノノとリリの敏感な鼻を刺激する。足元から立ち昇る臭いは、死者の息吹のように沼地に満ちていた。草木の朽ちた臭いに腐敗臭が混じり合い空気中に広がり、痛みを伴う刺激臭が鼻を突く。


 それは死骸から噴出する腐敗臭のように嫌悪感を誘い、まるで足元に無数の死体が埋まっているかのような錯覚に(おちい)る。いや、実際にこの沼の底には多くの死骸が埋まっているのだろう。アリエルは顔をしかめたあと、薄布で口元を覆った。


 葦の間から見える灰色に変色した枯れ木と黒い沼は死の象徴のようにも見えた。朽ちた枝は冷たい風に揺れ、カサカサと乾いた音を立てた。それはまるで幽霊の踊り手のように揺れ動き、湿原に不気味な光景を作り出していく。アリエルは足を進めるたびに、湿原に漂う異常な雰囲気に呑まれていく感覚に気がついた。


 青年は立ち止まると、呪素(じゅそ)を帯びて妖しく明滅する眸で周囲を見回す。〈幻惑〉の呪術を得意とする魚人が近くにいてもおかしくないと感じていたのだ。しかしそれすらも青年の錯覚だったのかもしれない。リリが操る巨鳥の眼からも敵の姿は確認できなかった。


 魚人の戦闘部隊によって襲撃を受けていた前哨基地の近くまでやってくると、小さな羽虫が群れをなして飛び交い、周辺一帯を黒く染めているのが見えた。それは悪い兆しだ。ここでは息を吸い込むことも躊躇(ためら)われた。


 遺跡に散らばる死肉の匂いに引き寄せられたのだろう。親指ほどのニクバエが重低音な羽音を立てながら飛び回っているのが見えた。


 ノノはその場にしゃがみ込むと、呪術を使って近くに異常な気配がないか探る。彼女のすぐそばでは奇妙な昆虫が這い回っていたが、〈虫除けの護符〉を使用しているからなのか、それが彼女に近づくことはなかった。


 ノノの呪素によって〝こちら側〟の世界に顕現(けんげん)した小さな半透明の球体が、ゆっくりと宙に浮きあがるのが見えた。それらの〈呪霊(じゅれい)〉には瞳のような器官がついていて、瞼を閉じたり開いたりしながら周囲を観察している様子が確認できた。それは文字通り、ノノの目となって周囲を偵察してくれるのだろう。


 複数の球体が大気に溶け込むようにして姿を消すのが見えた。それからしばらくして、前哨基地の状況が分かるようになる。


 やはり数体の肉食獣が死体を目当てに集まってきているようだ。死体の周りでは何体もの猛獣が死肉をめぐって争い、唸り声を上げていた。死骸の匂いに引き寄せられているのだろう、上空からも牙を剥き出しにした凶暴な獣が徘徊している姿が確認できた。


 リリはお気に入りの猛禽が争いに巻き込まれないように、ゆっくりと高度を上げさせ、遺跡の遥か上空を旋回させながら監視を続けるように指示した。


 足元の湿った石畳が獣の咆哮や唸り声で満たされた遺跡の中に続いていた。その荒れ果てた石畳の上に横たわる魚人の死骸は、ニクバエや昆虫の群れに取り囲まれていた。骨が見えていた死骸からは腐敗臭が立ち込めていて、数え切れないほどのニクバエが歓喜しながら飛び交い、黒い影を作り出している。


 羽虫の黒い影に包まれた死骸を見ていると、死者が再び生を得て動き出すような錯覚を抱かせた。だが、もちろんそれはただの錯覚なのだろう。あの忌々しい蠅に死者を蘇らせる能力はない。


『エル』

 ノノの声が聞こえると、気持ちを切り替える。どうやら遺跡にやってきているのは、死肉を求める獣だけではないようだ。上空から監視を続けていたリリが敵の接近に気がつく。〈赤の魚人〉の戦闘部隊のようだ。ボロ布を身につけ、遺跡で手に入れたと思われる錆びた剣で武装しているが、多くの個体は原始的な槍を手にしていた。


 前哨基地を襲撃した仲間からの連絡が途絶えたことで、別部隊が派遣されたのだろう。厄介な連中だったが、遺跡にやって来ている肉食獣の気を引いてくれるかもしれない。


 半壊した遺跡の陰に身を隠すと、〈転移門〉のそばまで安全に移動できるようになるまで待機することにした。アリエルは不安を抱えていて、恐れが彼の意識を研ぎ澄ませていた。彼はできるだけ用心深くあろうとした。湿原では魂がいとも簡単に身体(からだ)から滑り落ちていくのだ。


 しばらくすると、思惑通りに魚人と獣たちが争う音がきこえるようになった。野蛮な魚人は毛皮に覆われた巨大なイノシシを見つけるなり、問答無用で槍を投げつける。食事を邪魔された獣は怒り狂い、鋭い牙を噛んで突進する。突然のことに魚人は混乱し、そのまま何もできずにイノシシの巨体から繰り出される恐るべき突進を受けてしまう。


 仲間が吹き飛んでいくのを横目に見ながら、魚人の戦士たちは粗末な武器を手に獣たちに攻撃を仕掛ける。自分たちよりも大きなイノシシを複数相手にして勝ち目があるようには見えなかったが、戦うことが本能に刻まれているのだろう。恐れを知らない哀れな魚人たちは無謀な戦いに身を投じる。


 その最中、〈呪霊〉を使って遺跡を探索していたノノが照月(てるつき)來凪(らな)の痕跡を見つける。どうやら彼女特有の――神々の子供たちとも呼ばれる〈始祖〉だけが操れる特徴的な呪素の気配が残されているようだった。


 ノノは注意深く〈呪霊〉を操り、彼女の痕跡を追っていく。森のなかで自然発生する〈精霊〉と異なり、呪素によって仮の肉体を得る〈呪霊〉を操るには、繊細な操作が必要になるため、集中力を切らすわけにはいかなかった。


 やがて照月家の人間が消えたと思われる場所を特定する。アリエルたちはすぐに移動する準備を整える。そして獣たちが魚人の戦士に気を取られている間に、素早く目的の場所まで移動することにした。

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