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砦に対する襲撃を警戒して周辺一帯の警備が強化されるなか、〝影のベレグ〟は少数の守人を連れて〈獣の森〉に向かう。彼に与えられた任務は敵対的な集団の野営地を見つけることだった。前回のように、気がついたら敵の前哨基地が築かれていた、というような事態にならないために事前に捜索を行うことが重要になっていた。
風が吹き荒び、厳しい寒気が身体を貫いていく。かつて昆虫種族の戦士が身につけていた毛皮をまとったアリエルは、監視塔の頂上に立つと、普段よりも邪悪な気配に満ちていた暗い森を見つめる。だが、その気配の原因を見つけることはできなかった。
混沌から這い出た化け物が近くを通ったのかもしれない。青年は白い息を吐き出すと、警戒監視を怠ることなく続けることにした。
襲撃者たちに捕らえられて、激しい拷問を受けていたラファの容体も良くなっていた。顔や身体のあちこちに痛々しい傷痕や内出血による痣は残っていたが、すでに戦闘訓練に参加できるほどの回復を見せていた。幸いなことに、捕らえられていたときのことは何も覚えていないようだった。
襲撃者たちが彼から何を聞きだそうとしていたのか、そしてラファほどの戦士がどうやって捕らえられてしまったのか、と言ったことまで思い出せなかったのは残念だった。しかし痛みや恐怖を思い出して錯乱するよりも、今の状態のほうがずっと良かったので、少年の記憶を操作してしまったことを後悔していなかった。
木々の間を冷たい風が音を立てながら吹いていく。眼下の森に視線を向けると、揺れる枝の間に黒い影が揺れ動くのが見えたが、それが黒狼のモノなのか、それとも群れからはぐれた動物のモノなのか判断できなかった。敵意が感じられないため、その存在は幽鬼のように希薄で、現実に存在しているのかも分からなかった。
長弓を手に取ると、森を見つめながらゆっくり矢をつがえる。けれど矢が放たれることはなかった。得体の知れない気配は亡霊のように消失し、二度とあらわれることがなかった。森に満ちている邪悪な気配の所為で必要以上に緊張しているのかもしれない。アリエルは白い息を吐き出すと、長弓と矢を元の場所に戻した。
ずっと遠くからオオカミの遠吠えが聞こえると、崩壊していた屋根の隙間から空を仰ぎ見て、適当な鳥と意識をつなげる。どうやら〈獣の森〉を捜索していた戦狼のラライアが何かを見つけたようだ。
鳥に適切な指示を出し、森を俯瞰しながら飛ぶ。しばらくすると彼女の姿が見えてくる。どうやらノノとリリが一緒のようだ。
彼女たちは大樹の根元にある洞のなかで何かを見つけたようだ。オオカミの姿になっているラライアが鋭い眼光で暗闇を見つめていると、ノノが照明として機能する複数の発光体を浮かべるのが見えた。その球体状の発光体は夜のホタルのように、ふわりと暗い洞のなかに飛んで行く。
敵意に敏感なリリが警戒している様子が見られなかったので、敵対的な集団を見つけたというわけではないのだろう。枝にとまり周囲を見回すと、艶のある黒い体毛に覆われたクロテンが視界に入る。すぐに呪術の紐を伸ばすと、その小さな動物と意識をつなげる。
おそろしく巨大な大樹を仰ぎ見ていると、ラライアたちが洞のなかに入っていくのが見えた。すぐにあとを追うようにクロテンの意識に働きかけるが、洞の中に脅威になる天敵が潜んでいるのか、なかなか移動しようとしなかった。それでも何度か指示を出していると、彼女たちのあとを追うようにトコトコと駆け出した。
白い照明に浮かび上がる薄暗い洞のなかには数え切れないほどのキノコが群生していて、苔のようにも見える体表を持つ軟体動物が蠢いているのが見えた。それらの平たいナメクジがズルズルと近づいてくると、クロテンは威嚇して体毛を逆立てる。その行動に驚いたナメクジは、苔のような体表を発光させる。
その淡い光に反応して、洞の中に潜んでいた無数のナメクジが燐光を帯びたように明滅し、次々と暗闇のなかに浮かび上がっていく。
淡い青白い光を見て、ラライアたちは足を止めて周囲を見回す。すると彼女たちの足元に無数の骨が転がっているのが見えた。巨獣の骨もあれば、人の骨も確認できる。どうやら捕食者の棲み処に侵入してしまったようだ。
ラライアは鼻をヒクつかせると、低い唸り声を出しながら暗闇を見つめる。すぐにヒタヒタと足音が聞こえてくると、暗闇の中からボロ布に変わり果てた黒衣を身につけた男が歩いてくるのが見えた。しかしどうも様子がおかしい。
腐った肉に剥き出しの骨が見える身体は、全身が菌類に侵食されていて、至るところから赤や青に染まるグロテスクな菌糸と胞子嚢が伸びているのが見えた。
異様に膨らんだ腹部は破裂するようにズタズタに裂けていて、菌糸に覆われた内臓が脈打ちながら煙のような黒々とした胞子を撒き散らしているのが見えた。リリは気色悪い生物の接近にいち早く反応すると、手元に火球を生成し、接近していた生物に向かって放った。
かつて守人だった何かは、接近する炎に反応することなく、そのまま炎に包まれることになった。奇妙なことに、その生物は身体を焼かれながらも足に根が生えたようにその場から動こうとしなかった。痛みを感じていないようにも見えたが、そもそも人間のように自意識があるのかさえ謎だった。
やがて生物の全身が黒くなり、胞子すら飛ばさなくなると、リリは大気中の呪素を制御して炎を消してみせた。それは高い技術と精密な操作を要求される術だったが、リリは難なくやってみせた。呪術によって生み出された青い炎が完全に鎮火するまで五秒と掛からなかった。
炭化し、灰になって崩れ落ちていく菌糸が地面に触れると、苔にも似たナメクジがぼんやりと発光するのが見えた。しかしかつて守人だったモノは倒れることなく、じっと立ったまま動きを止めていた。すでに死んでいたのだから、今さら死んだと表現するのは奇妙なのかもしれないが、それは確かに絶命したように見えた。
ノノの眸が極彩色に輝いて彼女たちの関心が移ると、洞に群生するキノコのそばを離れて彼女たちのあとを追う。どうやらラライアは、その奇妙な場所に放置された巨獣の骨に興味あるようだった。幻想的な燐光のなかに浮かび上がる頭蓋骨に近づくと、人の腕ほどの長さがあるツノをじっと見つめる。
するとラライアの呪素に反応したのか、ツノが青白い光に包まれていくのが見えた。彼女は〈念話〉を使ってノノに何か訊ねたあと、ツノを咥え、頭蓋骨から一気に引き抜いた。加工して何かの素材にするのだろうか。
ノノは水薬やら護符を作成するのが得意で、時間を見つけては植物の採取や動物の皮や骨を収集していたので、その名も知らぬ巨獣の骨も何かの役に立つのだろう。
洞のなかで蠢くナメクジにもノノは興味を示す。彼女がその奇妙な生物を使って何をするのか見に行こうとしたときだった。急に暖かな風が吹いて、暗闇のなかに陽の光が射し込むのが見えた。それはひどく奇妙な現象だった。先ほどまで感じていた身の危険や、ジメジメした雰囲気はなくなり、ホッとするような安心感に包まれていく。
その陽の光のなかで複数のクロテンが追いかけっこしているのが見えた。仲間を見つけたことで安心したのだろう。その光のなかに駆け寄ろうとする。だが得体の知れないキノコが群生する場所にいるのだ。危険だからと制止するが、クロテンは指示に従わず駆けていく。
あと少しで仲間のところにたどり着ける。そう思ったときだった。視界が急に暗くなり、手足が動かなくなるのを感じた。どうやら菌糸にまとわりつかれたようだ。それは蛇のように身体に絡みついて自由を奪っていく。
息が苦しくなり、とうとう地面に倒れてしまう。そして気色悪い菌糸が、ウネウネと蠢きながら口のなかに入っていくのを感じた。
ハッとして瞼を開くと、つめたい風が吹き荒ぶ監視塔に立っていた。どうやら強制的に意識を切断されたらしい。あの奇妙な菌類に幻覚を見せられていたのだろうか。胞子を吸い込んでおかしくなっていたのかもしれない。いずれにせよ、あのクロテンには可哀想なことをしてしまったとアリエルは反省した。




