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地走りに圧し潰され、悲鳴を上げることもできずに殺されていく戦士を横目に見ながら、アリエルたちは洞窟の出入り口に続く通路に向かって駆け出す。けれど闇に潜んでいた別の地走りが姿をあらわすと、その場で身動きが取れなくなってしまう。
篝火に照らされた悍ましい化け物の体表は粘液質の体液にヌラリと濡れていて、痙攣するように微かに震えているのが見えた。そのミミズめいた巨大な化け物が身体の先端についた人間の頭蓋骨を――まるで笑うようにカタカタと鳴らしながら迫ってくる。
ノノは〈雷槍〉を使って混沌の化け物を射殺そうとするが、その手が電光を帯びる前に地走りが猛然と迫ってきて、呪素を練り上げている余裕などなかった。
ヘビが鎌首をもたげるように、化け物は醜い胴体を持ち上げると、それを勢いよく振り下ろして地面に叩きつける。ノノとリリは後方に飛び退くようにして攻撃を避けたが、背後で戦士たちを叩き潰していた別の地走りの接近を許してしまう。
半透明のぶよぶよした気色悪い胴体を叩きつけられると、リリは岩でゴツゴツした地面に何度も身体を衝突させながら、篝火の灯りが届かない暗闇のなかに転がっていく。彼女は手製の〈身代わりの護符〉を使用していたが、これまでの経験上、あの化け物から受ける衝撃を完全に無効化できないことは知っていた。
ノノが〈氷槍〉の呪術で化け物を牽制している間、アリエルはリリのそばに駆け寄る。彼女の意識はハッキリとしていたが、身体中がひどく痛むのか、なかなか立ち上がることができなかった。
アリエルはすぐに彼女の小さな身体を抱き上げると、周囲を見回して脱出するための道を探す。と、そこで青年は不自然な暗がりがあることに気がついた。それは篝火の灯りが届く範囲にあったが、その岩壁の周囲だけに黒い靄のようなモノが立ち込めていて、妙に不鮮明だった。
呪術師が〈幻視〉で何かを隠しているのかもしれない。アリエルはノノに声を掛けると、リリを胸に抱いたまま暗がりに向かって駆けた。周囲からは空間を裂くような破裂音が聞こえていて、血濡れの呪術師たちが血液や内臓を撒き散らしながら死んでいた。
彼女たちはグロテスクな血に濡れていて、場違いに官能的な裸体をさらしていたが、それでも強力な呪術師に違いなかった。暗部の戦士たちと協力できたなら、あるいは化け物を退けることもできたかもしれない。
しかし得体の知れない儀式で血に酔っていて、彼女たちは半ば正気を失っていた。そのような状態では混沌から這い出た化け物の相手をするのは難しかった。
ノノは地走りの隙を突くと、瞬く間に無数の〈石壁〉を形成して一時的に化け物の視界から姿を隠すと、機会を見計らって化け物の背後に〈火球〉を叩きつけた。それは地走りを牽制しているときに、あらかじめ用意していた呪術だった。攻撃を受けた化け物は怒りに振り返ると、背後に立っていた戦士たち攻撃の矛先を向けた。
土に変わり崩壊していく〈石壁〉の間から地走りの標的が変わったことを確認すると、ノノはアリエルの背中を追うように走り出した。
空気をつんざく破裂音に驚いて振り返ると、三体目の地走りが血に濡れた女性たちに襲い掛かっているのが見えた。邪神像から発せられる濃い瘴気に引き寄せられているのか、悍ましい化け物が次々と姿をあらわしていた。
地走りは容赦なく呪術師たちを殺し、人間の腕にも似た無数の器官を使って手足や内臓を拾い、胴体下部にある口のなかに放り込みクチャクチャと咀嚼していた。理由は分からなかったが、ノノにはソレがひどく冒涜的な光景で、森の生命に対する侮辱的な行為に見えた。
「ノノ、こっちだ!」
アリエルの声で気を取り直すと、彼女は神経質に長い尾を振って、それからふたりのもとに駆け寄って妹の状態を確認する。そしてホッと息をついたあと、〈治療の護符〉を使って傷を癒す。リリが自分の足でしっかりと立っていることを確認したあと、アリエルと一緒に黒い靄を調べる。
やはり〈幻視〉に似た呪術が使われているのか、一見すればなんの変哲もない岩壁に見えたが、その黒い靄の向こうに通路が続いていることが分かった。しかしこの先に進むのは、ある種の賭けでもあった。もしも出口がなければ、混沌の瘴気に満たされた暗い洞窟のなかで無数の化け物を相手に、死に物狂いで戦わなければいけなくなる。
けれど四体目の地走りがあらわれて戦士たちに襲い掛かるようになると、もはや悠長に構えているわけにはいかなくなった。ノノが呪術を使って黒い靄を払ったあと、アリエルたちは暗い通路に侵入していった。
敵に追跡されることを避けるため、呪術による照明は使わず、〈暗視〉の呪術を使い暗く足場の悪い通路を移動した。極彩色に輝く瞳と、深紅の瞳だけが暗闇のなかで瞬く。
追跡に警戒しながら移動を続け、地走りの咆哮や呪術師たちの悲鳴がほとんど聞こえてこない場所までやってくると、暗闇の先に焚き火の淡い灯りが見えてきた。どうやら通路の先に人がいるようだ。アリエルたちは音を立てずに移動すると、気配を感じた場所に近づく。すると焚き火を囲んで談笑する男たちの姿が見えてくる。
洞窟の入り口を見張っていた野蛮な部族の戦士たちなのだろう。薄汚れた毛皮を身につけた髭面の男たちは、酒と猥談に夢中になっていて、洞窟の奥深くで繰り広げられている虐殺に気がついていなかった。間抜けな連中に見えるが、呪術に精通していない森の民なら、それが普通なのかもしれない。
『エル、あそこにラファがいるよ』
リリが指差す方向に視線を向けると、少年が横たわっているのが見えた。錆びた鉄の鎖で手足を拘束されていて、酷い拷問を受けていたのか、火傷していて腕の皮膚が赤くただれていて痛々しい傷跡が全身にあることが確認できた。アリエルたちが呪術師に見せられたラファの幻影は、この姿を忠実に再現したものだったのだろう。
少年はぐったりとしていて、ほとんど意識がないように見えた。炎に浮かび上がる髪は汗と血でぐっしょりと濡れていて、目は腫れているように見えた。すぐに敵を排除して、傷の治療をしたほうがいいだろう。
ノノとリリは姿勢を低くして地面に手をつけると、獣めいた動きで闇に紛れ、音を立てずに野蛮な戦士たちに接近する。かれらが姉妹から向けられる微かな殺気に気がついたときには、喉は裂かれていて血が噴出していた。
敵を排除し周囲の安全を確認すると、ラファのそばに駆け寄り〈治療の護符〉を使ってすぐに傷を癒す。意識は戻らなかったが、呼吸が安定したのを確認すると、少年を拘束していた鎖を外す。鉄の鎖を破壊するのに手間取ると思ったが、部族の戦士たちが鍵を持っていたので、すんなり解放することができた。
アリエルはノノに両手剣を預けると、素早くラファを背負う。この状態で地走りに襲われたら厄介なことになりそうだったが、他にどうしようもなかった。けれど風の流れを感じていたので、出口は近いのかもしれない。
それから何度か巡回していた戦士たちに遭遇したが、危険的状況に陥ることなく敵を排除することができた。
出口を見つけ洞窟の外に出ると、近くで野営していた数人の戦士を強襲し排除する。それが終わると、ノノは洞窟の入り口に向かって〈雷槍〉を放ち、天井を崩壊させ、人が出入りできないようにした。本来の目的は敵の殲滅だったが、これで少なくとも、地走りに追われた呪術師たちが逃げるような事態を避けることができた。
相変わらず〈念話〉を使って仲間たちと連絡を取り合うことはできなかったが、ひとまずラファを休ませるため〈境界の砦〉に引き返すことにした。