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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第一章 戦場
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16


 季節を問わず飛び回っている親指ほどの大きさの(はえ)がやってきて、死者の眼球に止まるのが見えた。太った蠅は前脚を(こす)り合わせたあと、大きな複眼で泥に塗れたアリエルをじっと見つめる。次の瞬間、雷鳴のような大音響と共に閃光が(またた)いて、大気を切り裂きながら炸裂し衝撃波で(あた)りを震わせた。


『よう、兄弟。まだ生きてるか?』

 瓦礫のなかに潜んでいたルズィの声が頭のなかで聞こえると、アリエルは口のなかに入った土を唾と一緒に吐き出す。

「ああ、かろうじて生きてるよ」


『なら、さっさとあの呪術師を始末するぞ』

「了解、攻撃はルズィに合わせる。準備ができたら合図してくれ」


 腰に吊るしていた太刀(たち)を抜くと、ノノに渡されていた〈矢避けの護符〉を胸にあてる。茶色い粗紙(そし)が淡い光を放ちながら燃え上がると、それは灰に変わり風に飛ばされていった。質の悪い紙だったが、ノノの呪術が込められているので間違いは起きないはずだ。


 アリエルは深く息を吸い込んで、それからゆっくり吐き出した。緊張しているからなのか、吐き出される空気は震えていた。


「兄弟、今だ!」

 周囲に潜んでいた守人たちが一斉(いっせい)に飛び出すと、呪術師が放った恐ろしい(いかずち)が遺跡群を破壊しながら頭上を通過していくのが見えた。


 兄弟たちが(おとり)になっている間、アリエルは呪術師に向かって全速力で駆けた。途中、草陰に潜んでいた戦士たちが矢を()る姿が見えたが、青年は狼狽(うろた)えない。〝オオカミのように速く、古の獣たちのように力強く〟さながら四つ脚の獣のように駆けていると、眼前に迫っていた矢が不自然に()れていくのを何度も目にした。どうやら護符は期待通りの効果を発揮してくれたみたいだ。


 倒壊した遺跡の瓦礫が小山のように積み重なる場所までやってくると、青白い雷光(らいこう)()びた呪術師の姿が見えた。「子ども!?」アリエルは呪術師の姿に驚いたが、今さら立ち止まるわけにはいかなかった。恐怖の表情を垣間見せた呪術師の間合いにさっと飛び込むと、右肩から袈裟(けさ)がけに斬り下ろし、返す刀で接近してきていた女性の首を斬った。


 鋭い手応えを感じたかと思うと、温かい返り血を浴びて顔を真っ赤に染める。太刀(たち)独特の冴えた切れ味を手に感じたのは久しぶりだった。呪術鍛造された刀ではないが、名のある刀鍛冶が鍛えた業物(わざもの)だったのだろう。


 怒声を上げながら猛然と駆けてくる敵戦士が兄弟たちに斬り殺されていくのを見ながら、アリエルは刃に付着した血液を払い、静かに刀を鞘に収めた。そして、血液を吐き出しながら涙を流していた子どもに視線を向ける。


 彼女が伸ばしていた小さな手の先には、首から血液を流し、目を見開いたまま息絶えようとしていた女性が倒れている。そのすぐ近くには花の絵柄が刺繍(ししゅう)された巾着(きんちゃく)が落ちていて、綺麗にたたまれた包帯と小さな薬瓶が転がっていた。


 ルズィがやってくると、彼は死体をちらりと見て、次にアリエルを一瞥(いちべつ)した。そして血に濡れた刀を鞘に収めると、女性の側にしゃがみ込んで包帯と薬瓶を巾着に放り込んで、それを手にしながら立ち上がる。


「母親にしては若すぎる。その子の姉だったのかもしれないな」

 彼はアリエルの頭に手を置いて月白色(げっぱくいろ)の髪をくしゃくしゃにする。

「許しを()う必要はない。それよりも兄弟たちの命を守れたことを誇れ。いいな、エル。俺たちは守人だ。ここで死ぬわけにはいかないんだ」


 ルズィが立ち去ったあとも、アリエルは姉妹の遺体を見つめながら立ち尽くしていた。


 なにが守人だ。

 森に暮らす人々を救うための力で、守るべきものたちを殺しておいて、なにが守人だ。


 アリエルは怒りのあまり、その血に宿る呪われた能力を解き放って世界のすべてを破壊したい衝動に駆られた。クソったれの世界がなんだ。呪われてしまえばいいんだ。


 でも――青年は叫び出したい気持ちを必死に(こら)え、下唇を噛んで言葉を呑み込んだ。結局のところ、アリエルの手は血に染まっていたのだ。偽善に満ちた正義感を振りかざしたところで、この世界の仕組みを変えることはできない。


 気持ちを冷ますように息を吐き出したあと、青年は周囲を見渡した。兄弟たちに慈悲を与えられる負傷者の(うめ)き声と、数日前の死体にたかる(はえ)の羽音が聞こえた。数百の(はえ)(おお)われた死体は真っ黒になっていて、内臓を()き出しにした死体そのものよりずっとグロテスクな姿を(さら)していた。


 残党狩りを始めて数日、守人は血と泥に(まみ)れながら戦い続けていた。味方部隊は師団長が率いていた本隊と合流するため、すでに〈霞山(かすみやま)〉を離れていた。聖地には四十人にも満たない首長の戦士と守人しかいなかったが、(いくさ)のあとに残される装備や物資を目当てに出没する野盗や敵守備隊の残党を相手しなければいけなかった。


 守人たちは心身ともに消耗していて、すでに二名の死者を出していた。幸いなことに、(いくさ)の経験が豊富なインが首長の部隊を指揮していたので、守人ばかりが戦闘を強いられるような事態にはならなかったが、それでも限界は近づいているように感じられた。


 しかし悪いことばかりではなかった。味方部隊の大半が〈霞山(かすみやま)〉から離れたことで、龍の幼生が(かくま)われていた場所に、誰からも怪しまれることなくクラウディアたちを連れていくことができるようになっていた。その龍の子は短い覚醒と睡眠を何度も繰り返していたが、心配していたような発作はなく、容体は安定しているようだった。


 だからアリエルたちが心配しなければいけなかったのは、終わりの見えない残党狩りを無事に生き延びることだけだった。


 師団長の部隊が敵本隊を叩くまでの数日の辛抱(しんぼう)だと自分たちに言い聞かせて戦っていたが、その日の戦闘を終え本陣に帰る戦士たちの顔には、戦闘に勝利した喜びは見てとれなかった。汗にまみれ汚れていて、ひどく疲れているようだった。


 虚脱し無表情で歩いていた味方部隊と合流して本陣に帰るとき、数人の野盗に襲われている敵守備隊の生き残りと遭遇した。


 暗い洞窟に棲みつく野蛮で原始的な亜人のような格好をした野盗は、若い女戦士を取り囲み、子どもの無邪気な遊びのように、木の棒を使い戦士を傷つけていた。彼女が棒で打ちのめされて倒れても、彼らは執拗に攻撃を続け、彼女の衣類は血で赤く染まっていた。


 その女戦士が逃げる気力すら失くしたことに気がつくと、野盗のひとりは彼女のことをあざ笑いながら弓を手に取り、哀れな女戦士を射殺(いころ)した。


 それを真剣な面持ちで見ていたルズィはアリエルに声を掛ける。ふたりは野盗に気づかれないように静かに接近して、瞬く間に敵を殺してみせた。もう他人の不幸をあざ笑うものはいなかった。


 ルズィは刃が欠けた刀を捨てると、女戦士が手にしていた両刃の剣を拾い、無言で兄弟たちのもとに戻っていった。ひとり残されたアリエルは、女戦士の(そば)にしゃがみ込み、その遺体に触れた。


 彼女が感じていた恐怖や怒り、そして敵に対する憎しみが指先から()い上がるようにして心に入り込んでいくのを青年は感じた。胸が張り裂けそうな思いに(とら)われながら、青年は黒い(もや)(まと)った手にそっと息を吹きつける。


 黒い(もや)は獣の姿に変わる。憎しみを(かて)に生まれた猟犬(りょうけん)だ。

 青年は日が傾き始めた世界に獣を解き放った。それは日が昇るのと同時に消滅する(はかな)い幻影だったが、暗闇に潜みながら野盗を殺すだけの力は持っていた。


 憎しみによって形作られた獣は聖地を(けが)し、混沌の気配を撒き散らしながら夜を駆けていく。けれどアリエルにはどうでもいいことだった。


 兄弟たちと合流して本陣に帰ると、クラウディアたちを護衛しながら龍の子に会いに行っていたラファとノノが天幕でアリエルを出迎えてくれた。それでも青年の心が休まることはなかった。


 森のなかで野糞(のぐそ)を踏んだと思っていたが、どうやら顔から肥溜めに突っ込んでいたようだ。アリエルは略奪を目的にした(いくさ)に加わったことを後悔していた。俺たちは〝いつまで同族で殺し合いを続けなければいけないのだ〟と。


 やはり森を出るべきなのだ。同族に刃を向けるのではなく、森の外に目を向けるべきだ。たとえ困難に行く手を(はば)まれようとも。

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