表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第五章 異変 前編
174/501

29


 半透明の小さな瓶を手にした瞬間、その中に忌まわしい気配が潜んでいることに気がついた。それは今まで感じられなかった気配だった。何か得体の知れない力が作用しているのだろう、その小瓶の中で漆黒の液体が震えているのが分かった。


 まるで生き物のように(うごめ)き、邪悪な気配を放っている。理由は分からなかったが、混沌から這い出てきた異形の化け物に共鳴しているのかもしれない。


 そこでアリエルはふと化け物に視線を向けた。死者の軍団との戦いで(おぞ)ましい身体(からだ)は傷だらけになり、まるで悪夢の顕現を見ているかのようだった。ヌメリのある体表には刀剣による無数の傷跡がつくられ、そこからタール状の黒々とした強酸性の体液が滴り落ち石畳を焼き尽くしていた。


 あれほど脅威だった化け物の自己治癒能力は弱まり、苦痛に耐えられないのか、この世ならざる恐ろしげな悲鳴をあげていた。死者の軍団による容赦ない攻撃によって、化け物の肉体は今まさに崩壊し、生きながらにして腐っていくようだった。


 その状況を横目で見ながら、青年は小瓶の封印を解くことに集中する。通常、水薬が入ったガラス瓶は木栓で封がしてあるだけだったが、その暗い小瓶は〈封印の呪術〉で厳重に密封されていた。


 アリエルは封を解くための呪文を知らなかった。けれど彼には〈境界の砦〉の書庫で手に入れた知識があり、部族の古い言葉をいくつか知っていた。


 どうしてその言葉が封印を解くカギになるのかは分からなかった。ただ流れに身を任せて、成すがまま古い呪文を思い出していく。


 青年が(ささや)くように(いにしえ)の言葉を口にすると、小瓶の周囲に光の粒子が集まり、小さな円環が形成されていくのが見えた。その円の内側に古代の呪術めいた複雑な模様と、すでに失われた文字が次々とあらわれては消えていく。


 すると小瓶の中の漆黒の液体は沸騰するように震え、瓶を手にしていた青年はソレを取り落としてしまわないよう慎重に呪素をそそぎ込んでいく。


 護符が貼りつけられていた木栓が透けるようにして消失し、小瓶の封印が解かれたとき、広場は奇妙な静寂に支配された。小瓶のなかに潜む死の気配を感じ取ったのだろう。その邪悪な気配から逃れるため、ありとあらゆる生命が息を潜めているようだった。


 青年はその邪悪な気配に立ちくらみにも似た眩暈(めまい)を感じながらも、手に持つ〈枯木(こぼく)の斧〉に漆黒の毒液を垂らした。たった一滴だったが、液体が刃に触れるとすぐに効果があらわれた。


 刃に液体が触れた瞬間、白い蒸気が立ちのぼり、毒液の中から奇怪な形状をしたモノがあらわれるのが見えた。それはまるで体液に濡れた血管のようなもの――あるいは水棲生物の触手めいた器官のように見えた。それらの(うごめ)く管は、植物の根のように刃の表面を侵食しながら広がっていく。


 青黒い管が脈動しながら刃の表面を包み込むように広がる過程で、薄い皮膜のようなモノがあらわれ、刃全体に(おお)い被さっていくのが見えた。それは急速に斧の刃に変化をもたらし、異様な変化を遂げていき、それ自体が混沌の生物のように変質していく。


 やがて刃から赤みを帯びた(あや)しい蒸気が立ちのぼるようになり、刃の先に鋭い骨のような突起がいくつも突き出すのが見えた。この異様な変化が、斧に生命を宿していくような、そんな恐ろしい錯覚を与えた。神々の使徒さえ殺せる毒と古代の呪術との融合が、〈枯木の斧〉をより一層恐ろしい存在に変えたのかもしれない。


 壮絶な死闘を繰り広げていた死者の軍団と異形の化け物も、その異質な気配を感じ取ったのだろう。思わず動きを止め、邪悪な存在の顕現に警戒する。


 呪われた都市遺跡が重苦しい静寂に包まれていく。その廃墟の中で、妖しい燐光を帯びた斧が脈動するように輝く。


 それがどのような悪夢をもたらすのかは誰にも分からなかったが、それでもすべての生命が緊張と不安、そして恐れを感じながら息を潜め、事態を静観しているようだった。どのような悪夢が解き放たれるのか、もはや誰にも予測できない状況だった。


 アリエルは戦いに備えて〈治療の護符〉を胸に押し当て、消耗していた体力の回復を図る。ついでにノノが用意してくれた小瓶を取り出して水薬を口に含む。無色透明の液体は呪術による精神的な疲労にも効果があるようだったが、混沌の瘴気による精神汚染が影響しているので、あまり効果は期待できないのかもしれない。


 けれど水薬の苦みが口の中に広がると、回復の効果がすぐにあらわれた気がした。立っていられないほどの疲労が軽減され、絶望に鬱々としていた頭は冴え、気力が戻ってくるのが分かった。手足の筋肉は力強く、集中力も高められ、まだ戦えるだけの力を取り戻すことができた。


 青年は手のなかで脈動する斧を握り締めると、死者の軍団に攻め立てられていた化け物を観察する。あれだけ激しい攻撃に晒されながらも、化け物は戦い続けていた。長く鋭い鉤爪が生えた肉の鞭は依然として脅威であり、ひと振りで古の戦士の肉体を両断し消滅させていた。


 しかしその肉体は傷つき、飛び散った体液によって蒸気が立ち昇っていた。けれど闘争そのものが本能に根付いているのか、ナメクジめいた器官を動かし、狙いを定めることなく得体の知れない光弾を放ち続けていた。


 戦狼(いくさおおかみ)に〈治療の護符〉を使用したあと、アリエルは巨大なオオカミの首筋を撫でながら化け物を見つめた。どう転ぶにせよ、これが最後の攻撃になるだろう。


「行くよ、ラライア」

 青年が駆け出すと、白銀のオオカミもあとに続いた。


 混沌が生み出した化け物に向かって疾走するオオカミを止められるものはいない。ふたりは死者の軍団の間を駆け抜け化け物に接近する。が、異様な気配を放つ斧に気づいているのだろう。化け物は肉の鞭を振り回し、青年とオオカミの接近を阻止しようとする。


 化け物の注意がそれると、それまで攻撃の機会をうかがっていた戦士たちが一斉に突撃する。その動きに動揺したのだろう。ほんの短い間だったが、恐ろしい速度で動いていた肉の鞭が止まる。そしてアリエルはその隙を見逃さなかった。


 呪素で底上げされていた身体能力を使い、風のように化け物の懐に飛び込むと、斧を高く振り上げる。化け物も青年を攻撃しようとして鞭を振り下ろす。が、その動きはラライアが放った衝撃波で阻止される。


 青年が振り下ろした斧の刃が化け物の肉体に深く食い込み、灼熱を伴う毒液が肉体に侵入していくと、化け物は恐ろしい悲鳴を上げる。


 刃が肉に食い込んだ瞬間、毒液は化け物の体液を伝い瞬く間に広がっていく。刃からは触手めいた器官がウネウネと飛び出し、化け物の身体を傷つけながら体内に侵入していった。傷口は見る見るうちに青黒く染まり、生きながら腐っていくようだった。


 化け物が痛みを感じているのかは分からなかったが、身体がズタズタに引き裂かれるような苦しみに耐えながら、それでも斧から逃れようとして暴れる。そこに死者の軍団が襲いかかり、化け物を包囲するように四方から刀剣を突き刺していく。


 もはや化け物の自己治癒能力は意味をなしていなかった。急速に腐敗が進み、化け物の身体のあちこちから異臭が立ちのぼり肉が剥がれ落ちていく。腐敗液すら蒸発していき、奇妙な骨と外殻だけを残して肉体が消滅していくように見えた。


 化け物は力を失くし、振り上げていた肉の鞭も動かなくなった。アリエルは斧から手を離すと、急いで化け物から距離を取った。〈枯木の斧〉も毒液に耐えられなかったのか、刃が砕け、枯れ枝のような柄は化け物の腐肉に呑み込まれていった。


 やがて化け物の頭上に浮かんでいた光輪が輝きを失くし、甲高い金属音を立てながら地面に落下するのが見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ