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邪悪な気配を身に纏った生物は、その醜く悍ましい姿を変化させ、より戦闘に適した肉体に変化――あるいは進化したように見えた。〈枯木の斧〉による強力な攻撃は、たしかに一定の効果を与えられたようだ。しかし、それは化け物を目覚めさせる程度の結果しかもたらさなかったように感じられた。
アリエルは化け物が吐き出していた斧を拾いあげる。生物が持つ強酸性の体液で刃は腐食していたが、呪素をそそぎ込むことで刃を修復することができた。戦うための武器は手にしていたが、いかに強力な攻撃手段があったとしても化け物を殺すことはできそうになかった。戦う気力が奪われてしまうほどの脅威を感じていた。
一方、戦狼のラライアと混沌が生み出した恐るべき化け物との闘いは続いていた。どうやら変化したのは化け物の姿だけではなかったようだ。その攻撃方法も一段と獰猛さを増していた。触手めいた肉の鞭が伸び、ラライアに向かって縦横無尽に振るわれる。
その鞭は意志を持っているかのように動き、武器以上の恐ろしい存在感を放っていた。ラライアは敏捷な動きでソレを躱し、暴風が生じるほどの速さで反撃を試みる。
戦狼の鋭い爪が化け物の身体に突き刺さり、肉を引き裂いていく。そのたびに強酸の体液が飛び散り、周囲にあるものすべてを焼き焦がしていく。が、それでもラライアの動きは止まらない。巧みに肉の鞭を避け、咆哮と共に衝撃波を放ち化け物の身体を斬り裂いていく。
ラライアの攻撃によって化け物の身体には深い傷が刻み込まれていく。黒々とした体液が噴き出し、痛みを感じているように化け物は震えた。しかし傷口から粘液質の〝膿のような〟気色悪い体液が滲み出し、攻撃を受けた瞬間から傷が修復されていくのが見えた。
傷つき裂けた肉は徐々に合わさり、砕け折れた骨は混ざり合うように再生していった。どんなに深い傷を与えても、それが致命傷になることはなかった。
同様に化け物の堅牢な甲殻に変化していた皮膜だったモノも、あらゆる攻撃を寄せ付けなかった。ラライアの爪によってゴツゴツした殻の表面が削れるような音が聞こえたが、次の瞬間にはもとの状態に修復されていた。
その恐るべき生命力と自己治癒能力は、化け物がこの世界の理に属していないこと、そして深淵の底に満ちる邪悪な力が生物を支配しているということが理解できた。それは混沌が生み出した生物だった。そしてそれは疑いようもない事実なのだろう。
アリエルが守人としてこれまでに対峙してきたどの生物よりも強力な個体だった。というより、比べ物にならなかった。どう例えればいいのか分からなかったが、軍隊の精鋭を相手に戦っていると思っていたら、実は貧しい市民を相手にしてきたような、そんな嫌な感覚だ。だが、それが事実なのだろう。
混沌の生物が跋扈する〈獣の森〉も、この呪われた都市遺跡に比べれば天国のように平和な場所だったのかもしれない。青年は自らか抱いていた確固たる価値観が揺らいでいるのを感じた。我々守人は〝混沌の本質〟について何も知らなかったのかもしれない。
ラライアと化け物の間では激しい攻防が続いていた。オオカミの咆哮と化け物の甲高い悲鳴、そして衝撃音が混ざり合い、それに呼応するように周辺一帯は混沌の瘴気で満たされていった。
広場には化け物の体液で灼ける空気の臭いと、言い知れない腐臭が漂っていた。そのなかで繰り広げられる壮絶な戦いの行方は、未だ見えず、空間そのものが恐怖に支配されていくのが分かった。
と、そのときだった。どこからともなく血を凍らせるような風が吹いたかと思うと、それは廃墟が連なる通りに吹き込んでいった。全身に鳥肌が立つようなゾクリとする悪寒のあと、人気のない都市に再び静寂が訪れる。が、青年はそのなかに異様な気配が潜んでいたことを思い出す。それは呪われた都市に巣食う死者たちの気配だ。
廃墟の薄闇のなかで得体の知れない影が揺れ動き、半透明で朧気な幽霊じみた死者たちが次々と姿をあらわした。鎧を身につけた兵士たちの痩せ細った骸骨のような顔には、終わることのない痛みや怨念が刻まれ、虚ろな瞳が燃えるように闇のなかで瞬いていた。その群青色に輝く眸で、かれらは青年に何かを訴えかけていた。
アリエルはその悲鳴にも似た声を――長く尾を引く悲鳴を耳にして、死者たちの憎しみの籠った思念がこの呪われた都市遺跡に深く根付いていることを知った。
そして、己が〝神々の力を受け継ぐもの〟であり、死者たちとの間に、あるいは死者の世界とでも呼べる場所と繋がりがあることを思い出した。
その力を解き放つことで、死者たちの怒りや憎しみといった怨念を世界に具現化し、あの悍ましい化け物と戦わせることができるのではないのか。といった閃きが青年の頭に過る。
アリエルはそっと瞼を閉じると、死者たちの声に耳を傾け、かれらの気持ちを理解しようとする。ここで何が起きたのかは分からない。が、この呪われた都市を徘徊する間に、さらに多くの怒りや憎しみを抱えるようになったことは理解できた。そしてその怨念を解放し、化け物に立ち向かわせることが、唯一の救いになるのかもしれないと青年は考えた。
瞼を閉じていると、それまで抱いていた不安や恐怖が徐々に薄れていくのを感じた。アリエルは心を静め、意識を研ぎ澄ませていく。しだいに暗い意識の底に落ちていくような、奇妙な浮遊感が全身を包み込んでいく。
異次元の存在によって己の身体から、あるいは世界の重力から解放され、別次元に導かれているかのような感覚がした。
気がつくと暗い回廊に立っていた。闇に沈み込む空間に無数の棺が並んでいる。が、その中には何も入っていない。空虚な棺が並んでいるだけだ。そこに冷たい風が吹いて、肌を撫でるようにして青年を暗闇のなかに導いていく。
静寂と闇に支配された回廊を進むと、微かな蝋燭の灯りが見えてきた。その灯りの近くに無数の黒い影が立っているのが見えた。それらの影は形を持たず、漠然とした存在だったが、抗うことのできない言い知れない威圧感を放っていた。
青年は立ち止まると、色のない世界に視線を向けた。
そこにはかつて都市を守護していた偉大な戦士たちが立っていた。彼らは生者のようにハッキリとした輪郭を持たず、その背後では崩壊していく都市の姿が見えた。荘厳な塔が――いくつもの塔が砂煙を立てながら崩壊する様子は、世界の終焉を見ているかのようだった。
しかし崩れ落ちるはずの瓦礫は地面に落下せず、逆に暗い空に向かって浮かび上がっていくのが見えた。その瞬間、青年の周囲で世界が揺らぎ、形を失っていくのが分かった。時間と空間が重なり合い、アリエルは都市の崩壊の瞬間と、死者たちの思念が交錯する世界が遥か彼方に追いやられるのを目にした。
ソレが何か恐ろしい意味を持ち、世界の理そのものに大きな変化を与えるような忌まわしい力と深く結びついているという確信を抱いた。だが、意識は深い闇のなかで混濁し、すべての事実が忘れさられていく。
しかし確かに彼らはそこにいた。大いなる種族、あるいは〝イース・キリャンモ〟と呼ばれるものたちが、そこで終焉を――
アリエルが再び目を開けると、広場に幽鬼のような姿をした戦士たちが立っているのが見えた。彼らの存在は朧気で、やや紫みを帯びた深い青色の燐光を放っていた。その半透明の不確かな存在から、彼らが生者ではなく、都市を徘徊していた死者なのだと分かった。




