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ベイランは苔生した石組の廃墟に入ると、正気を失ったように小声でブツブツとわけの分からないことをつぶやいているエズラを座らせた。相変わらず〈黒の広場〉からは、アリエルたちが異形の生物と――まるで悪魔のような恐ろしい姿の化け物と戦う激しい音が聞こえてきていた。
あれが呪われた都市に巣くう悪魔の正体なのかは分からない。今まで実際にソレに出会った人間はいなかった。というより、出会った者たちは誰ひとりとして都市から生還しなかっただけなのかもしれない。
いずれにせよ、人間ひとりが介入できるような戦いではなくなっていた。どのような軍隊を以てしても、悪魔の力と魔法が入り乱れる戦いで生き残ることはできないだろう。
「それにしても……」
ベイランは崩れていた壁の隙間から広場の様子を確認する。そこには軍馬よりも大きく力強い身体を持つ異様なオオカミがいて、悪魔に向かって猛然と襲いかかる姿が見えた。アリエルと名乗った異界の戦士は、神話に登場するような美しい獣すらも従えているのだろうか。
あれこれと考えていると、悲鳴のような甲高い音が広場に響き渡り破裂音が轟く。化け物の周囲で空間が歪んだかと思うと、眩い光を放ちながら光弾が放たれるのが見えた。
アリエルは足元の石材を用いて強固な壁を形成するが、強烈な衝撃を受けて撥ね飛ばされるようにして後方に吹き飛ぶ。
破壊された壁の破片が青年の身体に突き刺さるが、気が昂っているからなのか、ほとんど痛みは感じていないようだった。かれは地面を転がりながら衝撃を逃がすため受け身を取ると、化け物を見据えながら立ち上がる。
アリエルは化け物の周囲に呪素の気配が膨れ上がるのを感じると、地面に手をつけ、膨大な呪素を流し込みながら醜い化け物の足元に〈土槍〉を形成する。金属製の穂先のように鋭く、石のように硬い無数の〈土槍〉が地面から突き出すと、化け物の醜い身体を串刺しにしていく。
理由は分からなかったが、呪術が無効化されることなく化け物を傷つけることができた。それは僅かな希望に変わり、戦い続けるための活力になる。が、アリエルの気持ちを嘲笑うかのように、化け物は触手めいた鞭を振り回し周囲の〈土槍〉を破壊し拘束を解く。そして再びナメクジのようの器官が蠢き、呪素の影響を受けた空間が歪むのが見えた。
黒い眼球の先から光弾が放たれる瞬間、ラライアの咆哮と共に生じた衝撃波が化け物を襲う。鎧で身を守る人間の身体すら容易く引き裂くような凄まじい衝撃を受けると、醜い化け物は地面に叩きつけられ、足元の石畳を抉るようにして転がっていく。広場には轟音が鳴り響き、広範囲に亘って砂煙が巻き上げられる。
化け物が吹き飛ぶ瞬間に放たれていた光弾は、アリエルのすぐ近くを通過し、広場の外縁に立つ建物に直撃した。直後、破壊され砕けた壁や柱が宙を舞い、無数の瓦礫が呪われた都市遺跡に降りそそぐことになった。
けれど化け物が放つ衝撃波によって砂煙が吹き飛ばされると、その醜い姿を再び目にすることになる。そして残念なことに、化け物が傷ついているという様子は確認できなかった。おそるべき自己治癒能力を持っているのか、あるいは呪術で傷を癒すことができるのかもしれない。どちらにせよ、最悪なことに変わりない。
アリエルは呼吸を整えたあと、握り締めていた〈枯木の斧〉に呪素をそそぎ込む。斧の刃に使われる特殊な金属は、呪素を伝える導体として優れた性質を持っていた。そのため、魔力を注ぎ込むことで刃の修復や、刃表面に枝から染み出す毒液を纏わせることができた。
青年は呪術で強化された斧を握り、忌まわしい枝に秘められた力を解き放っていく。アリエルが持つ規格外の膨大な呪素がそそぎ込まれると、それは最早ただの斧ではなく、神々の遺物に匹敵する強力な呪物に変わる。その呪物の刃が毒で満たされると、青年は周囲の状況を見極め、攻撃の機会をうかがう。
化け物の眼球の先で光弾が形成されていくのが見えた。が、アリエルは避けようとせず、その場にとどまり続ける。大気中に漂う呪素が爆発的に膨れ上がったとき、青年は石畳に手をつけ、目の前に強固な石の壁を形成する。が、今度のソレは一枚だけではなく、無数の石壁だった。
邪悪な力に満たされた光弾は、アリエルが形成した黒い石壁に衝突し、粉々に破壊しながら青年に迫る。一枚、二枚、三枚と破壊され、ついに青年の眼前に迫る。が、最後の壁が破壊されるころには、なんの力も残っていなかった。そして青年はその瞬間を待っていた。
かれは手にしていた斧を化け物に向かって全力で投げつけた。呪素で底上げされた身体能力から繰り出された斧は、目にもとまらない速度で化け物に迫る。
呪素を帯びた斧の接近に気がつくと、空気をつんざく嫌な音が聞こえ、化け物の眼球の先で光弾が形成されていく。が、その行為はラライアの攻撃によって中断されることになる。
暴風のように駆ける戦狼は、その鋭い爪で化け物の眼球を切り裂いてみせた。そして一瞬の隙が生まれる。次の瞬間、〈枯木の斧〉が化け物の胸部に突き刺さる。と、甲高い悲鳴が響き渡り、化け物の身体が激しく震える。毒の効果は即座にあらわれ、混沌が生み出した生物の肉体を侵食していく。
化け物は激しい苦痛に悶え苦しんでいるのか、その肉体からは黒々とした煙が立ち昇り、鼻をつく悪臭が広がっていく。醜い皮膜に包まれた身体は痙攣し、空気を震わせる甲高い悲鳴を上げる。その恐ろしい光景は、混沌に広がる闇と絶望が具現化されているかのようで、周囲の空気までもが凍りついていく。
その過程で〈枯木の斧〉は吐き出されるように地面を転がる。化け物の薄い皮膜の中では、何かが蠢くように痙攣を続けていたが、アリエルとラライアはソレを攻撃の機会と捉え、連携して攻撃を仕掛ける。〈土槍〉や〈火球〉、それに凄まじい衝撃波が化け物に襲いかかり、その身体はズタズタに破壊していく。
しかし化け物は、なおも恐るべき生命力で立ち続けていた。自らの触手を使い、傷つき青黒く変色していた肉を素早く切り落としていくと、切断された箇所からは黒い粘液が滴り、地面から蒸気が立ち昇っていくのが見えた。
そして化け物は蝶の翅のように皮膜を広げると、自身の身体を包み込んでいくような動作を見せた。ヌメリのある皮膜が全身を覆うと、ミミズめいた奇怪で不気味な姿に変わる。が、それは一瞬のことで、皮膜は昆虫の外骨格のようにゴツゴツとした殻に変わり、化け物の醜い身体を保護する鎧に変わっていく。
やがて皮膜に隠されていた赤錆色の甲殻、そして左右対称の四本の腕と二本の足があらわになる。長い腕の先には鋭い刃がついていて、その腕のすぐ下、ちょうど脇腹の辺りから赤黒い体液を滴らせる肉の鞭が垂れ下がっていた。それが化け物の本来の姿だったのだろう。
アリエルとラライアは化け物の頭頂部の先に浮かぶ光輪を見つめながら、さらに警戒感を強めた。この異形の生物は単なる混沌の生物ではなく、何か違った次元からやってきた存在なのだと直感的に理解した。
そして、この異形の生物との戦いが個人的な生存をかけた争いだけにとどまらず、この世界の有り様そのものを変えるかもしれない戦いになっていることに気がついた。
もしもここで化け物を取り逃すようなことになれば、周辺一帯の集落や街は破壊され、住人は容赦なく虐殺されてしまうだろう。守人としての本能が、この生物の死を求めている。アリエルはそっと息を吐き出すと、敵の攻撃に備えた。