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混沌の領域と繋がる〈黒い門〉から、突如として出現した異形の化け物と対峙していたアリエルは、身動きひとつしない化け物から視線を外すと、広場に戻ってきたラライアの様子を確認する。化け物が放つ得体の知れない光弾が直撃したように見えたが、致命的な怪我は避けられたようだ。
ちらりと化け物に視線を戻す。その邪悪な生物が持つ気配は都市遺跡を一層禍々しく、そして陰鬱なものにしていた。青年は冷たい死が足元から忍び寄るのを感じて、用心深く身構えた。
混沌の力が渦を巻きながら世界を侵食していくなか、化け物の暗い眼窩から伸びる器官が粘液の糸を引きながら、こちらに向けられるのが見えた。すると空間が暗闇に淀み、呪素が一点に集束していくのが感じられた。
鳥肌が立つような禍々しさと恐怖に襲われ、背中に嫌な汗が流れていく。その間も、衝撃波と破壊をもたらす光弾が形成されていくのが見えていた。一瞬の静寂のあと、光弾が放たれる。膨大な呪素の放出によって周囲の空気が凍りつき、空間が揺らぐのを感じた。
甲高い音を置き去りにしながら閃光が迫ってくる。その光弾のなかには、死と破壊をもたらす破滅的な力が込められている。
アリエルは大気中に漂う呪素の流れを見極めながら光弾の軌道を予測し、素早い動きで避けてみせた。戦狼のラライアも同様に、俊敏な身のこなしで光弾を回避して反撃に備えた。
しかし次々と放たれる光弾を避けるだけで手一杯になる。一瞬の油断が命取りになるので気を抜くことはできない。その緊張感のなか、ふたりは状況を打開するための最善の方法を模索しながら動き続ける。
アリエルは研ぎ澄まされた集中力で体内の呪素を練り上げていく。その膨大な呪素の力は凍てつくような冷気を放出しながら、空中に氷柱にも似た氷の塊を生成していく。やがて青年の周囲には無数の〈氷槍〉が形成される。
それは青年よりも大きく、〈神々の尖兵〉が手にしていた槍のように鋭く、近くにいるだけで震えてしまうような冷気を帯びていた。その〈氷槍〉を化け物に向かって射出する。
ソレは目にもとまらない凄まじい速度で化け物に迫るが、あの気色悪い――粘液に濡れた赤い皮膜に触れる寸前、氷は突如として蒸発して跡形もなく消滅してしまう。アリエルは顔をしかめ、膨大な呪素が無駄になったことに苛立ちを感じる。この化け物には通常の攻撃方法は通用しないのかもしれない。
氷の蒸発によって立ち昇る白い蒸気に化け物の姿が隠れるが、それは不可思議な力によって霧散してしまう。すると化け物の暗い眼窩から突き出していた器官がウネウネと活発に動くのが見えた。再び呪素が集束し膨れ上がっていく、その邪悪な気配は青年の肌に突き刺すような嫌な感覚を残す。
ラライアが化け物に接近しようとして光弾で攻撃されているのを見ながら、アリエルは化け物が何らかの方法で強力な障壁を展開していることに気づく。その不可視の障壁は、呪素を消滅させるような、世界の理そのものに影響を与える未知の力を持っているのかもしれない。
アリエルは一瞬、言い知れない無力感に苛まれる。攻撃が通用しないことは痛感していたが、もしもその考えが間違っていないなら、化け物を傷つける術を持たないことになる。暗い考えに支配されながらも、青年は冷静さを保とうとする。呪術が通用しないのなら、原始的なやり方で敵を排除すればいい。
化け物の黒い眼球の先で光が収束していくのが見える。それは周囲の空間から色を奪い白黒に染め上げていく。
その得体の知れない力の鼓動を感じながら、アリエルは敵に接近する機会を窺う。〈枯木の斧〉の刃に含まれる毒なら、あの化け物に致命傷を与えられるかもしれない。それは希望的観測でしかなかったが、淡い期待を抱かなければ敵に立ち向かうこともできない。
不気味な光弾が放たれる瞬間、光と影が錯綜し、その僅かな瞬間だけ闇が世界を支配するかのように見えた。邪悪な生物が放つ混沌の力は、死を運ぶ閃光であり、その説明のできない執拗な感覚と気配が気を狂わせるような恐怖を与える。
アリエルがその光弾を避けるたびに、足元の黒い石畳が砕かれ、無数の破片が空中に舞い上がる。それでも何度か反撃を試みるなかで、ふと化け物が呪術に反応していることに気づいた。
ラライアが攻撃するために接近しているときでさえ、呪素の気配を察知すると化け物は攻撃の標的をアリエルに変えた。この事実が彼の心に疑念を生み出す。彼は新たな戦術を練る必要があることを瞬時に理解する。
そこで彼は〈念話〉を使い、ラライアと情報を共有する。彼女は青年の意図を理解し、その大きな身体を駆使して化け物の注意を引きつけ、囮になる役割を引き受けた。
ラライアの咆哮が広場に響き渡る。彼女は低い声で唸り、恐ろしい牙を剥き出しにして化け物に向かって突進する。その瞬間、化け物の暗い眼窩からウネウネとした器官が大きく突き出し、光弾を形成しようとしているのが見えた。ラライアが肉体を強化するために身に纏った呪素に反応したのだろう。
化け物の注意がオオカミに向けられると、アリエルはその隙を見逃すことなく動いた。恐ろしい化け物の背後に〝影のように忍び寄る〟と、化け物の気色悪い後頭部に斧を叩きつけようとした。
が、化け物は瞬時に反応し、その気色悪い皮膜を振動させながら広げる。すると化け物を中心に、凄まじい衝撃波が放射状に放たれる。
アリエルは頭部を守るように腕を交差して衝撃波に耐えると、呪素を放出しながら足元で砕けていた石畳の破片を〈石礫〉に変えていく。空中に浮かび上がる鏃めいた無数の〈石礫〉は、青年の意志で容赦なく放たれ、化け物に向かって飛んでいく。
たかが〈石礫〉で化け物に致命傷を与えられるとは考えていなかった。現に〈石礫〉の多くは生物の皮膜に触れることなく消滅した。だが、化け物の動きを牽制することはできるだろう。アリエルは攻撃の機会を見つけるための時間を稼ぐことを優先した。
そこにラライアが猛烈な勢いで飛び込んできて、化け物に体当たりを行う。鈍い打撃音のあと、化け物は吹き飛ばされ、広場中央の舞台に叩きつけられる。衝突の勢いで無数の瓦礫が宙に舞い上がる。が、化け物は負傷していないのか、皮膜を引き摺りながら姿を見せた。
けれど何か様子がおかしい。粘液に濡れた赤黒い器官が――まるで腸のように細長い物体が、皮膜の間から伸びるのが見えた。化け物は触手めいた二本の肉の鞭を、意志を持った生き物のようにウネウネと動かす。
その肉の鞭からヌルリとした粘液が地面に滴り落ちると、冷たい大気のなかで蒸気が立ち昇るのが見えた。強酸性の粘液なのだろう、それがどこであれ、粘液が付着した場所は蒸気を立てながら融解していく。
化け物が肉の鞭を振るうたびに粘液が飛び散り、地面から蒸気が立ち昇る。その光景を見ているだけで気が重くなり、嫌な雰囲気が漂う。石畳が焼けるニオイは、まるで死の匂い嗅いでいるようでもあった。
「やはり不吉な化け物だ」
アリエルはそうつぶやくと、死を纏った化け物を睨んだ。
体液の滴る赤黒い肉の鞭が地面に触れると、じりじりと石畳が焼ける音が聞こえ、異様な臭いが立ち昇る。敵は接近を許す気はないようだ。
青年は化け物に近づこうとしていたラライアの動きを制すると、呪素で身体能力を底上げする。その気配を察知したのだろう。化け物の黒い眼球が動き、眩い光弾が放たれる。
アリエルは地面に手をつけると、目の前に強固な石の壁を瞬時に形成した。が、それでも攻撃を防ぐことはできなかった。石壁は粉砕され、青年は衝撃を受けて吹き飛ばされた。