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野盗を退けたあとも、アリエルたちは何事もなかったかのように移動を続けた。彼らは夕暮れまで移動し、夜には野営地を設営してしっかりと身体を休めた。そして日が昇るころには出発の準備を整え、街を目指して草原を移動した。
広大な草原を移動していると、かつてこの地で生活していた人々の痕跡が見られるようになった。放置された畑には野草が生い茂り、荒れ果てた農村には倒壊した家屋や厩舎が残されていたが、そこで暮らしていた人々の姿はどこにもなかった。
多くの住人で賑わっていたであろう場所も、今は寂れていて、青年の心は奇妙な感慨に満たされる。あるいはそれは、この地に残された人々の魂の残滓が見せた幻だったのかもしれない。
いずれにせよ、野盗が徘徊する理由が分かったような気がした。この荒れ果てた土地には、それを管理する人間もいなければ、人々を守る勇敢な戦士もいない。そうして略奪に遭った集落は放置され、荒廃していく。その無秩序の中で野盗が横行し、周辺一帯に恐怖を撒き散らしていく。野盗の噂が街に届くと、草原を開拓しようとする人間もいなくなる。
草原に吹き抜ける風は寂寥感を運び、放置された畑と廃村の風景と相まって、ある種の物悲しい空気を漂わせる。アリエルはその嫌な空気のなかを黙々と進んだ。幸い、自然豊かな場所で、シカや野生馬の群れに遭遇する機会もあったので、退屈するということはなかった。
ラライアに手伝ってもらいながら粗紙に転移門を素描していると、荷馬車を引く集団が近づいてくるのが見えた。その集団は、この旅で初めて目にする普通の人々だったが、彼らの多くは疲れ切っているようで、やせ細った身体に劣悪な衣類を身にまとっていた。この豊かな土地で生きる人々の生活も、決して楽なものではないのだろう。
驚くべきことに現地人の多くは武装していなかった。着の身着のまま、戦場から逃れてきたような雰囲気が漂っていた。何らかの理由で戦いに巻き込まれ、その結果、自分たちの村を捨て、逃げる他なかったのかもしれない。あるいは、野盗に集落を焼かれたのかもしれない。森でも略奪は頻繁に起きていた。この地で起きないということもないのだろう。
その集団には、赤子を抱いた女性や、幼い子どもを励ましながら歩く老人の姿が多く見られた。しかし男性の姿はほとんどなかった。襲撃のさいに犠牲になったのだろうか、それとも戦に招集されたのだろうか。
家財道具を山のように積んだ荷車を引く女性は汗に濡れ、今にも倒れてしまいそうな表情を浮かべていた。集団が何処に向かっているのかは分からなかったし、そこが彼らの安住の地になるとも思えなかった。
「ねぇ、エル」
ラライアは手綱を握っていたアリエルに甘えるように、そっと背中を押し付ける。
「あの集団のなかには、ひとりも呪術を使える人間がいなかったんだ。気がついた?」
「いや」青年は頭を横に振ると、通り過ぎていく人々に視線を向ける。
「ひとりも呪術師がいないのは奇妙だけど、けど森でも呪術を使える人間は限られてる」
「そうじゃなくて、この人たちからは呪素の気配がほとんど感じられないんだ」
彼女の言葉にアリエルは首をかしげる。
「それは……たしかにおかしいな」
「それにね」と、ラライアは続ける。
「奇妙なのは、その集団だけじゃないんだ。私たちが戦った鎧の戦士たちも、それから野盗も、みんな呪術を使わなかった。ううん、そうじゃない……誰も呪術を使えなかったんだ」
思い当たる節がないと言えば嘘になる。アリエルもその可能性について薄々気づいていたからだ。しかし、そんなことが本当にあり得るのだろうか。たしかにこの土地では、大気中に漂う呪素が異様に薄いことが分かっていた。
しかし森で生活する人々の多くは、体内に呪素を蓄えることが自然にできた。もちろん、その量には個人差があるが、たとえ呪術が使えなくとも、まったく呪素を持たないという人間は存在しない。それは亜人の部族でも変わらない。呪術が苦手な蜥蜴人ですら、その身を強化し、肉体を健康に保つために膨大な呪素を身にまとっているものだ。
だが彼女の考えが正しければ、ベイランたちが呪術を見て大袈裟に驚く理由にも納得できる。
「それが本当なら、困ったことになる」
アリエルの言葉にラライアは首をかしげて、それから振り返って青年の目を見つめる。
「私たちが困るようなことは何もないと思うけど?」
「たしかに俺たちが困ることはない。むしろ生まれながらにして、この土地で生きていくための〝優位性〟を手にしているってことになるんだからな。でもあの首長がそのことを知ったら、どうなると思う?」
ラライアは苦虫を噛み潰したよう表情を見せた。それを見たアリエルは思わず笑みを浮かべたが、通り過ぎていく貧しい人々を見て、すぐに真剣な表情に戻った。
「勢力拡大のためなら、首長はこの地に生きる人々を虐殺することも厭わないだろう。それこそ無抵抗の人間だって意味もなく殺してみせるだろう」
「でも」と、ラライアは眉をしかめる。
「私たちの目的も、その首長と変わらないんじゃないの?」
「たしかに略奪が目的だ。でも貧しい人々から奪うことが目的じゃない。あくまでも部族の人々が豊かになって、身内で殺し合うことを失くすのが目的だった」
だが――と、アリエルは眉を寄せた。部族の生活が楽になるために、森の外で生きる人々の生活を犠牲にしなければならないという点では、たしかに首長が実行するかもしれない虐殺と何も変わらないのかもしれない。
皆で〝手と手を取り合って仲良く共存する〟なんてことは夢物語だ。それは身内であるはずの部族の間で、日常的に略奪が横行しているのを見ていれば嫌でも分かることだ。
ひょっとしたら自分は大きな過ちを犯してしまっているのではないのか?
アリエルは胸のなかで生まれた疑念が膨らんでいくのを感じた。
けれど起きてもいないことを心配して、あれこれと考えても仕方がない。なにより、森の外に豊かな土地があることを首長は知らないし、それを知られてしまわないように我々は最善を尽くしてきた。そして幸運なことに、首長は我々の意図に気がついていないはずだ。
しかしそれでも懸念はある。
「イザイアのことだね」と、アリエルの表情を見ていたラライアが言う。
「やっぱり始末するべきだった。そう考えているんでしょ?」
青年はコクリとうなずいた。
ウアセル・フォレリの忠告に従って、イザイアを暗殺しておけば良かったのかもしれないと、今になって後悔していた。
でも、彼を雇うときに交わした契約の効力は絶大だ。よりにもよって信仰心の篤い〈黒の戦士〉が、森の呪いが降りかかると分かっていてもなお、首長やその他の権力者に情報を売り渡すようなことをするのだろうか。いや、彼らは神々を裏切らないだろう。
……しかしイザイアは部族を捨て傭兵を生業にしているような人間だ。
不安ばかりが募る。夕暮れが近づくと、草原の真只中に集落を見つけた。けれど、この集落は戦場になったのか、それとも略奪に遭ったのか、明らかに異様な雰囲気が漂っていた。まだ火が燻ぶっているのか、倒壊した家屋から煙が立ち昇っているのが見えた。先ほど出会った集団は、この村から逃れた人々なのかもしれない。
異臭が立ち込める集落に足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは地面に横たわる無数の人の死体だった。家屋の前には血まみれの遺体が放置されていて、それは集落のいたるところで見られた。納屋の中には放置されたままの家畜の死骸すら残っていた。
「これをやった連中は、まだ近くにいるかもしれないね」
そう考えていたのはラライアだけではなかったのだろう。ベイランたちも警戒しているのか、鋭い目で集落の通りを見つめていた。




