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馬に乗って草原を移動していたアリエルとラライアは、ベイランたちに案内されながら街へと向かっていた。馬には不慣れだったが、前方に座るラライアの身体を支えるように腕を回し、しっかりと手綱を握っていた。
そのアリエルが神経質そうな目で周囲を見渡すと、美しい自然の風景が目に飛び込んでくる。緑豊かな草原が風に揺れ、そのざわめきが自然の音色を奏でている。遠くには雄大な山々が聳え、空と大地の境界を際立たせていた。その光景は、はやる気持ちを落ち着かせてくれていた。
数時間の移動の末、廃墟となった砦が見えてくる。石造りの要塞は、かつての荘厳さを残していたが、今は荒れ果てツタが絡みつき、古い石組の壁には苔が生い茂り、時間の流れを感じさせた。それでも、その姿は歴史の重みを背負うように堂々としていた。
砦が放置された理由は分からないが、かつての栄華を偲ばせる壮大な建造だった。しかし長いあいだ人々の手が入っていない所為なのか、倒壊し崩れ落ちた壁や地面に転がる石が目立つ。立派な石組みが見られたはずの外壁は、時と風雨に耐えきれず、朽ち果てようとしている。
ツル植物やツタが砦の石壁を覆い尽くし、砦が植物に呑み込まれてしまったかのような印象を与える。石と植物の融合は、荒廃した砦に神秘的な雰囲気を与え、人工物と緑の対比が美しい絵画のように見せていた。しかしそれは森で見慣れた光景でもあった。これほど豊かな土地があっても、砦を放棄しなければいけない理由があったのだろう。
時の流れを感じさせる砦の姿には、森の外で生きる人々の繁栄と衰退が垣間見えるようでもあった。かつては活気に満ちた場所だったことが想像できたが、今は静かな廃墟になっている。それでも、荒廃した砦には凛とした雰囲気が漂っていて、その存在感は周囲を圧倒している。
砦の門に近づくと、アリエルとラライアはその大きさに思わず感動する。昔は立派な装飾が施され、堅固な防壁が敵の侵入を防いでいたのだろう。しかし長い年月が経ち、今では本来の迫力が失われてしまい、錆びついた落とし格子には蜘蛛の巣にかかった無数の昆虫の姿が見えるだけだった。
青年は馬の足元に視線を落とすと、自然が砦を侵食し始めていることに気づいた。背の高い雑草が門の周囲を覆い尽くし、巨大な要塞を自然の一部に変えつつある。
そこに風が吹き抜けていくと、植物に埋もれた広場から微かなざわめきが聞こえてくる。砦が使われていた頃は、そこで訓練する戦士たちの声や馬の嘶きが聞こえていたのだろう。しかし今は、すべてが遠い過去に埋もれてしまい、砦の歴史そのものが忘れ去られようとしていた。
どこか〈境界の砦〉に似た雰囲気があったのだろう。荒廃した砦の姿は青年の心に深い悲しみを与えた。かつての栄光が息づいているかのように思われ、過去の勇士たちの魂が今もこの場所に宿っているかのように感じられたからだ。
ベイランたちに案内されるように、青年は荒れ果てた門をくぐり砦の内郭に足を踏み入れる。やはり人の痕跡は確認できなかった。しかしそれが彼らの目的だったのかもしれない。ベイランたちは追手に警戒して、人々が使わない道を選び、廃墟になった砦を目的地に決めていたのかもしれない。
昆虫の鳴き声を聞きながら雑草の間を通って主塔に近づく。壁際には厩舎や要塞の防衛を担う兵士たちのための兵舎などが見られたが、いずれも荒廃していて、ひどい状態だった。その草に埋もれた広場では井戸の存在も確認できた。
多くの場合、使われなくなった井戸は地中に埋められてしまうが、その井戸は今も草原の旅人に使われているのか、その周囲だけは雑草が見られなかった。
厩舎は使えなかったので、井戸の近くに馬をつなぐと、建て付けの悪くなっていた大扉を開いて主塔に入る。かび臭く埃が舞う広間では、朽ちた家具や窓から侵入した植物が繁茂している様子が見られたが、どこか厳かで静かな雰囲気が漂っていた。
アリエルとラライアは、エズラたちのあとを追うように主塔の上階に向かう。石の階段を上り、狭い通路を進んでいく。石壁にも植物の侵食が見られ、ツタが壁面にしっかりと絡まっているのが確認できた。時間の経過とともに植物が要塞に自然の美を形成している。
狭い通路をくねくねと進んでいき、やがて階段の終わりが見えてくる。その先は主塔の最上階になっていて、窓からは草原が一望できた。木製の窓枠にはガラスが嵌め込まれていた形跡があるが、今はガラスがなく、風が自由に通り抜けていた。
ここはかつて要塞の司令室として使われていた場所なのかもしれない。古びた机や書棚があり、床に絨毯は敷かれていなかったが、しっかりした石材でできていて複雑な模様が彫り込まれているのが見えた。
塵が堆積した床には瓶底のような丸いガラス板が散乱していて、ベイランたちの足跡が石の上に浮かび上がっていた。壁には壁画が描かれていて、過去の壮大な戦いの場面が描かれていたが、絵の一部は雨風に侵食されて消えかかっていた。
壁際には古びた書棚があり、埃に覆われた書物や古びた巻物が並んでいる。これらの書物は要塞の記録や歴史的な情報を伝えるモノなのかもしれない。アリエルは興味津々に朽ちていない巻物を手に取る。
その間、ベイランたちは机に地図を広げ、古びた羊皮紙を睨み始めた。地図の上には細かな筆致で描かれた街道や道標、山々や川を記した線が複雑に交錯している。しかしアリエルがそれを見ても、自分たちのいる場所すら正確に理解できなかった。
ふたりは真剣な面持ちで地図を見つめ、街までの安全な移動経路を考えているのだろう。口々に意見を交わし、遠回りや危険な場所を避けつつも、速やかに目的地に到着できるように熟慮しているように見えた。エズラの指先は、細かな記述を読み取ろうとしているかのように地図の上で滑っていた。
アリエルは草原を眺めていたラライアのとなりに立つと、手にした古い巻物を広げる。どうやら周辺一帯の地形について詳細に記された地図だったようだ。
地図は使い込まれていて染みや汚れが目立つが、少なくとも触れても崩れるほど劣化していなかった。その地図には細かな文字で記された注釈があり、青年は丹念にそれを読み解こうとするが、やはり文字はひとつも理解できなかった。
しばらくするとエズラが階下に向かうのが見えた。ベイランに話を聞くと、馬の世話しに行ったという。エズラは豪奢な鉄鎧を身につけていたので、ベイランよりも立場が上だと思っていたが、どうやらアリエルたちの思い込みだったようだ。
そのベイランは、この砦で野営することをアリエルに提案して許可を求めた。旅を急ぐ理由があったが、夜の草原に潜む化け物を相手にする危険は冒したくなかったので、ベイランの提案に同意した。もっとも、草原に化け物などは存在せず、アリエルが警戒することは何もなかった。
手にしていた古い地図をベイランに手渡すと、ラライアを連れて階下に向かう。野営地を設営するのに適した場所を探すためだ。そのことをベイランに伝えると、彼はひどく困惑することになった。ふたりが野営のための道具を持っているように見えなかったからだ。しかし無理もない、ベイランは収納の腕輪の存在を知らなかったのだから。
エズラが井戸から水を汲むのを手伝ったあと、一緒に馬たちの世話をする。金髪の青年は終始緊張しているようだったが、彼からふたりに話しかけることはなかった。まだ警戒心があるのだろう。アリエルも無理に話しかけるようなことはしなかった。どのみち、〈念話〉を使ってもまともに理解しあえないのだから。
それからアリエルはラライアと一緒に砦の探索をすることにした。この廃墟で何か見つかるとは思えなかったが、この世界を知る良い機会になると考えたのだ。




