13
見渡すかぎり緑豊かな草原が広がり、風にそよぐ草の音が耳に心地よく響いている。アリエルの足元には柔らかな草が生え、腐臭が立ち込める湿原の土と似ても似つかない環境になっていた。
遠くには壮大な山々がそびえ、その姿は古より語り継がれる物語に登場する巨人のように見える。山々は雄大な存在感を放ち、その頂上には白い雲が優雅に舞っている。漠然としたものだったが、雪を抱く山々は神聖さを宿していて、名も知らなぬ感情で青年の心を震わせた。
草原には鮮やかな花々が点在し、色とりどりの花びらが風に舞い散っている。その美しさに見惚れながら歩を進めると、時折、小さな昆虫や小鳥が花々の間を飛び、生命の息吹を感じさせた。その鳴き声や羽ばたきの音が風に乗って草原全体に響き渡り、ある種の生命の活気とでもいうモノをもたらしている。
それは森で感じられる豊かさとは異なるモノだった。森は弱肉強食の世界だった。つねに生命の危機に脅かされ、戦わなければ豊かさを享受することができなかった。
いや、苦しみに喘ぎながら戦ってもなお、満足に生きていけない世界だった。部族は慢性的な栄養不足のなかで生活し、森に生息する肉食獣や異形の化け物の影に怯えながら暮らしていた。
けれどこの世界は平穏そのもので穏やかだった。視線の先には青々とした草原の海が広がり、まるで空と大地が交わるような壮大な風景が広がっている。その一体感と無限の広がりは、森では決して見ることのできない光景だった。
その草原に吹きつける風は心地よく穏やかで、草原を横切りながら微かなさざめきを立てていく。草の穂先が揺れ動き、風がやさしく頬を撫でる感覚は、まるで精霊の祝福を受けているような気持ちにさせた。
それなのに、この世界に森の祝福は――呪素は存在しなかった。あるいは、この草原が特別で、他の場所よりも呪素が薄い場所なのかもしれなかったが、それでも奇妙なことに変わりなかった。
青年は体内の呪素を使い、空高く飛んでいた鳥と精神のつながりをつくり、その眼を使って周囲の偵察を行うことにした。鳥の翼を通じて広大な風景を見渡すことで広範囲の情報を収集しようとしたのだ。
風が草原をなぞり、波立つ湖面のように草を揺らしていく様子が見えた。上空から見下ろしていると、その風景は美しい絵画のようにも見えた。けれど、人々がその光景を再現することはできないだろう。それはあまりに雄大で、ゾッとするほどの荘厳さに満ちていて、生命がつくりだす奇跡のような光景だった。
アリエルの指示に従って飛び続ける鳥は、数日前の襲撃で焼け落ちた神殿に近づく。厳密に言えば、それは神を祀っている場所ではなく、儀式や礼拝のための教会だったのだが、今さら関係のないことだった。焼け跡を偵察するため、鳥は徐々に高度を下げていく。
しかし教会の周囲に人の気配がまったく感じられなかった。数日前に略奪が行われ、僧兵たちが皆殺しにされたという情報から、人々がこの場所にやってきていると考えていたが、そのような兆候はどこにも見当たらなかった。
建物の焼け跡を詳しく観察すると、教会の天井は崩れ落ちて瓦礫に埋もれていたが、人がやってきた痕跡は確認できなかった。割れた窓ガラスが散乱し、焼け残った柱が静かに立ち並び、廃墟のような寂寥感が漂っている。同様に周囲の家屋も手付かずで、壁で囲われていた敷地内はひどく荒廃したままだった。
空中からの偵察は慎重に行われたが、やはり人の気配は感じられなかった。略奪から数日が経っていたのに、この場所に人々がやってきていないことにアリエルは困惑していた。彼が倒していた戦士を探すため、少なからず余所から人がやってきていてもおかしくなかったが、そうはならなかった。あるいはこの場所は放棄されたのだろうか。
しばらく鳥の眼を通じて周囲を偵察しながら、草原と焼け落ちた教会を見下ろしていた。静かな空気の中で心がざわめいている。この世界の何もかもが異質だと感じていた。風が草の間に吹き抜け、その音が彼の耳に届いた。けれど、その風は何かを伝えてくれるわけではなく、ただ不気味な静寂を切り裂くだけだった。
意識を集中するため、その場にしゃがみ込んでいたアリエルは立ち上がると、周囲を見張ってくれていた戦狼のラライアに声を掛けて、それから教会に向かって歩き出した。
警戒しながら草原を歩いていると、あちこちに僧兵たちの亡骸が横たわっているのが見えた。腐敗し内臓に昆虫が群がっていたが、獣に喰われた痕跡は見られない。ひどい状態だったので断言することはできなかったが、それでも死体が残っていることに違和感を覚えた。この辺りには死肉を貪る肉食動物がいないのだろうか。
ふたりは倒壊した壁から敷地内に侵入すると、廃墟になった教会内部に進み、崩れた天井や壁から射し込む光のなかに浮かび上がる空間を見渡した。ふたりの足音が壁に反響するなか、アリエルは焼け残った柱や崩れた天井を見上げ、かつて人々の信仰の拠点だった建物の最期の姿を目に焼き付けていく。
ラライアは教会を探索して、この場所にやってきたと思われる戦士たちの痕跡を見つけ出そうとしたが、人々の存在を示すものは何もなかった。ただ瓦礫と灰に埋もれた廃墟と静けさばかりが目についた。
そこでふと彼女は生命の気配を感じ取る。すぐに焼け残った教会の屋根に飛び乗り、草原を見渡した。すると馬に乗った二人の戦士がやってくるのが見えた。
ひとりは黄金の装飾が目立つ金属製の見事な鎧を身につけていたが、もうひとりは白い亜麻布のゆったりした上衣に、黒い羊毛のマントを身につけていた。西方地域で見られる武士とその家来のような関係なのだろうか、しかしふたりとも馬に跨っている。
『エル、人が来るよ』
念話を介してラライアの声が聞こえると、青年は教会を出て広場に向かう。
『このまま様子を見る。ラライアもそこで見張っていてくれ』
馬の足音が静かな草原に響く。戦士たちの姿勢は堂々としていて、彼らの眼差しは鋭く、周囲の動きに警戒しているようだった。しかしその厳しい表情のなかには、どこか恐れを感じているとも取れる感情が浮かんでいる。
ふたりは倒壊した壁の近くで下馬して、教会の敷地内に入ってくる。空気が微かな緊張感に包まれる。ふたりの戦士は周囲を警戒しながら慎重に歩を進め、教会の焼け跡や周囲の家屋を観察しているようだ。彼らの表情は真剣で、細部まで見逃すことなく教会の惨状を確認していた。
アリエルは異教徒の言葉と動きに興味津々だったが、存在を気取られないように、注意深く様子を窺う。青年は戦士たちの目的や意図を推測しようとするが、森で使用されていた共通語とは異なる言語で会話していたので、かれらの考えを読むことは困難だった。
『どうするの、エル』
青年は声に出すことなく返事をする。
『このまま身を隠してやり過ごす』と。
かれらの後を追えば、人が多く暮らす街にたどり着けるかもしれない。そこで遺跡の情報を得ることができれば、闇雲に探すより、ずっと早く目的を達成できるかもしれない。
けれど青年の目論見通りにはいかなかった。ラライアが身を隠していた教会の屋根が崩れ、大きな音を立ててしまう。ふたりは腰に差していた剣を引き抜くと、警戒しながら教会に近づく。
『ラライア、大丈夫なのか?』
青年は慌てていたが、彼女の声は冷静だった。
『怪我はしてないよ。でも足が挟まっていて、すぐに動けそうにない』
オオカミの姿になれば簡単に脱出できるかもしれないが、戦士たちを必要以上に驚かせてしまうかもしれない。
『……俺が時間を稼ぐ』
青年は自ら広場に出て姿をみせた。なにもすぐに殺し合いになるとは限らない。言葉が通じなくとも、意思疎通が図れるかもしれない。