05
誰にも理解できない言語で、必死に何かを訴えかけていた男性に声を掛けようとして、アリエルが近づいたときだった。不意に男性の喉元がスパっと斬られ、大量の血液が噴き出す。青年は血を浴びないように後方に飛び退くと、無抵抗の男性を攻撃したイザイアに視線を向ける。
アリエルは目を細め、落ち着いた声で訊ねた。
「どういうつもりだ?」
イザイアは刀に付着した血液を払うと、感情のこもっていない声で返事をする。
「この場所が何処であれ、俺たちがいることを知られるわけにはいかない」
「だから力のない哀れな男を殺したのかい?」
ウアセル・フォレリの問いに、寡黙な男はうなずいてみせた。それから彼は、喉を抑えていた男性の側にしゃがみ込むと、かれが手にしていた装身具を――十字に交差した形が特徴的な金の首飾りを奪い取った。
「森の外には未知の世界がある――」イザイアはアリエルを見つめながら言う。「その世界には誰も見たことのない財宝や神々が存在する……。あんたはその世界に、俺たちを連れていくと約束してくれた」
「その世界に立った感想は?」
寡黙な戦士はアリエルの質問に返事をしなかった。その代わり、金の首飾りに唾を吐き、服に擦りつけながら付着していた血液を拭う。
「こいつは俺が頂戴する。‶略奪〟もあんたが約束してくれた権利だ」
誰も何も言わなかった。喉を斬られた男性の苦しそうな呻き声だけが聞こえた。
男性の死を見届けたあと、一行は森を抜けるため、男性が姿をあらわした方角に向かって歩いた。徐々に樹木の間隔が広がり、ついに森の縁が見えてきた。
すると広大な平原が目に飛び込んでくる。なだらかな起伏が続き、緑豊かな草原がどこまでも広がっている。そこには涼しい風が吹きつけ、青く澄んだ空から暖かな日差しが降り注いでいた。
遠征隊の面々は驚きと興奮を隠すことなく、はじめて目にする広大な平原をただ眺めた。これまで森の暗闇や危険に晒され続けていた彼らにとって、この明るく開放的な場所は、まさに夢にまで見た光景だった。心が軽くなり、これまでの不安や戦闘の緊張感から解放されていくように感じた。
アリエルはすでに似た光景を見たことがあった。その場所は、照月來凪に宿る‶始祖〟の能力を使い〝天竜〟に遭遇した不思議な空間と似ていた。けれど、あくまでも似ているだけなのだろう。
青年は月白色の長髪を風になびかせながら歩いた。草原の香りが鼻をくすぐり、昆虫の鳴き声や鳥の囀りが聞こえ、青々とした丘が見えた。彼の足元には、優雅に揺れる野の花が咲き誇り、風が花々の香りを運んでいる。平原の大地は穏やかで、そこにいるだけでホッとするような心地よさが感じられた。
地平線に沿って起伏のある丘陵が連なり緑豊かな草や低木で覆われ、色とりどりの草花で彩られて、風が吹くたびに草原が揺れ動いているのが見えた。その様子はまるで風に波立つ湖面のようでもあり、見る者に自然の力を感じさせ心を圧倒する。丘陵の上に立つ木々も風に揺れながら緑の葉を輝かせ、豊かな生命力を宿していた。
それは南部の湿原では見られなかった光景だ。時折、鳥の群れが羽ばたきながら丘陵の上空を舞い、鳴き声が草原に響き渡る。リリはそこで育まれる生態系の多様さに圧倒されているのか、長い尾を揺すり複雑な動きを見せていた。
丘陵の向こうに流れる川に陽の光が反射し、まばゆい輝きを放っていた。その平原の遥か彼方に古びた神殿、あるいは教会のような建物が立っているのが見えた。
これまでに辿った歴史を物語るかのように、威容を誇る堂々とした宗教建築は、しかし風化し、年月の重みを感じさせるような外観を持っていた。神殿を囲む石積みの壁は、長い年月の経過と共に荒廃していて、風化の痕跡が随所に見られた。
石の表面には緑の苔が生い茂り、くすんだ色合いが寂れた印象を与えていた。その壁はツル植物に覆い尽くされていて、風が吹くたび呼吸するように揺れ動くのが見えた。
神殿の尖塔は高く聳え、その壮大な石造りの尖塔は風雨に耐え、空に向かって伸びている。そのとなりにも高い鐘塔があり、風に揺れる鐘の音が微かに聞こえる気がした。草原にひっそりと建つ神殿の姿は、この地に古い歴史と文明が存在していたことの証であり、それを造りあげた種族に対して、どこか畏敬の念を抱かせた。
ノノは体内の呪素を練り上げると、空高く飛んでいた鳥と意思をつなげ、周辺一帯の偵察を行う。呪素が限りなく薄い世界なので、呪術が使えないことも警戒していたが、どうやら心配する必要はなさそうだ。
彼女は神殿の周囲に庭園があり、そのすぐ近くに古い墓地があることを突き止めた。そこは静寂な雰囲気が漂い、時間すら忘却のなかに沈み込んでいるような場所だった。風化した墓石の多くは崩壊していて、上空からでは墓石に刻まれた文字はほとんど読み取れなかった。何もかも歴史の闇に消えてしまったかのようだ。
それらの墓石の周囲にも植物が生い茂り、草花の根が墓石の割れ目に侵入し、すべてを呑み込もうとしている光景が見られた。自然が死者たちを包み込み、人々に忘れ去られた魂を慰めているようでもあった。その荒れ果てた墓地には、言い知れない虚無感と寂寥が漂っていた。
『建物周辺に人の姿は見当たりません』
ノノはそう言うと、神殿に大きな眸を向けた。
『ですが、あの建物自体は廃墟ではないようです』
神殿を囲む高い壁の向こうからは、人煙が立ち昇っているのが見えた。遠くからでも、活気に満ちた様子が伝わってくる。廃墟だと思っていたが、建物内に大勢の人がいることが分かった。
それを意識すると、風に乗って香ばしい匂いが漂ってきていることに気がつく。焼きたてのパンや煮込まれているスープの香りが、遠征隊の食欲をかき立てる。それは、あの神殿で食事の調理が行われていて、人々が食物を共有し、豊かな時間を過ごしていることの証拠でもあった。
周辺一帯に敵意を持つ者がいないことを確認したあと、見晴らしのいい草原で目立たないように素早く動いて神殿に接近する。すると壁の向こうから人々の話声が聞こえてくる。男たちの会話や笑い声、それに下手な歌声まで聞こえていた。
神殿の入り口には木製の大扉があり、そこを通らなければ神殿の敷地に侵入することはできない。年月の経過によって腐食し、一部は欠損しているため、その表面には剥がれた木片や亀裂が見られた。古い鉄の装飾もさびついており、かつての重厚さを失っているが、それでも障壁としての存在感を放っている。
その大扉は両開き式で、完全に閉じられていて侵入を阻んでいる。イザイアが殺した男は、この神殿からやってきた可能性がある。けれどあの男は鍵のようなモノを所持していなかったので、どうやって出入りしていたのか見当もつかなかった。
扉の上部には神殿の象徴的な模様が――十字に交差した模様が刻まれているのが確認できた。風化によって剥げ落ちてしまった箇所が見られたが、同じ象徴で間違いないだろう。しかしその彫刻からは、かつての美しさや神聖さを垣間見ることはできない。異教の神を崇拝する人々の象徴だからなのかもしれない。
大扉の周囲は奇妙な静けさに包まれていて、壁沿いに身を隠していると、草木の騒めきや風の音が耳にとどく。この大扉の向こう側には人々の生活があり、ずっと探し求めていた財宝が隠されているかもしれない。それは森の部族を豊かにするモノでもあった。
だが、ここに至って迷いが生じる。未知の種族を闇雲に攻撃し、排除することは正しいことなのだろうか。もしも我々の脅威になりえる存在だったとしたら――ルズィは冷静な頭で状況を見極めようとする。しかし未知の世界で悠長に構える余裕などない。
なにより、呪素が存在しないことが気がかりだった。とりあえず今日のところは周辺一帯の偵察だけして、相手の情報を手に入れることを優先したほうがいいのかもしれない。〈念話〉を使い仲間たちにそのことを伝えようとしたときだった。イザイアが指示を待たずに壁を飛び越える姿が見えた。